書けない返書
麦、と書簡には何百回と書いた。
その匂いを嗅いだのは今朝が初めてだった。
街道の両脇に九月の麦畑が広がっている。風が吹くたびに穂先が一斉に傾き、金色の波が生まれて道の先まで走っていく。通商条約の文面では、麦は数量だった。何千束、何百俵、関税率が何割。あの数字のひとつひとつがこの穂の海を指していたことを——十年間、知らずに書き続けていた。
宿場を出て半刻。昨日の辻馬車は王都を出る便で終わり、ここからは徒歩か乗り合いの荷馬車を待つしかない。風呂敷を肩に掛け直した。覚書の角が布越しに鎖骨を押す。
足元の土道は石畳と違って柔らかく沈んだ。朝露に濡れた草が裾にまとわりつく。靴底が土を噛むたびに、書斎の石の床がどれほど硬く冷たかったかを、足の裏が思い出す。
この道を行き来する荷馬車が何台か追い越していった。荷台に木箱を積んだもの。麻袋を満載にしたもの。通商品目の台帳に書いた品々が、道の上を生きて動いている。
袖口の革カバーはもうない。十年ぶんの墨染め防止が消えて、風が布地ごしに肌を撫でた。
——軽い。
この軽さに名前はまだつかない。昨日、門を越えたときの「名前のない軽さ」は、一晩の宿を経ても名前のないままだった。解放なのか喪失なのか。判じようのないまま、足だけが前に出る。
道端に石の標柱が立っていた。「王都ヴァイスハウプト 二十里」と刻まれている。昨日の午前に門を出て、まだ二十里。十年を過ごした場所から、たった二十里しか離れていない。
前方に丘の稜線が連なっている。地図の上では何度も線を引いた地形だ。紙の上の線と違って実物はゆるやかで、朝日に薄紫色の霞を纏っていた。
地図で知っているものと足で知るものは違う。その差が、歩くたびに広がっていく。
外交局の局長室に朝日が差していた。
ヴィクトル・レーヴェンハルトは執務机に向かっていた。右手にペン。左手が白紙の端を押さえている。
白紙の上端に、宛名だけが書かれていた。
「ルミエール帝国宰相閣下」
宛名の下は空白だった。
机の脇に丸めた紙が六つ転がっている。
ルミエール帝国からの書簡が机の右に広げてあった。宰相府の紋章入りの便箋二枚。冒頭に季節の挨拶と両国の友誼を称える言葉が五行にわたって綴られ、本題はそのあとに続いている。
ペンがインク壺から上がった。穂先が紙の上で止まった。インクが穂先の腹に溜まり、重みで丸く膨らんでいる。
一滴が落ちる前に、ペンが動いた。
「貴国よりの御書簡、謹んで拝受いたしました——」
一行。ペンの先が宙で小さな円を描くように揺れた。インクが穂先で乾きかけている。次の句が出ない。
扉を叩く音がした。
「失礼いたします。局長殿」
書記官が入ってきた。手に帳簿を抱えている。
「ルミエール帝国への返書ですが、月末の期限が明後日に迫っております」
「……分かっている」
「それから、フェルゼン書記官ハイネ殿への回答期限も迫っておりまして。追加交渉の件で確認を求められております」
「後にしろ」
「はい。——あの、もうひとつだけ」
書記官が言い淀んだ。目が机の上の白紙と、脇の丸められた紙のあいだを行き来した。
「書き出しの定型句ですが……ルミエール帝国宛ての場合は、『御厚誼に深甚なる謝意を表し』から入るのが慣例でございます。以前はセラフィーナ様が——」
「知っている」
声が低く短かった。書記官の口が閉じた。一礼して下がった。
扉が閉まった音が石壁に跳ねて消えた。その後に何の音もなかった。書記官の足音だけが廊下の奥へ遠ざかっていく。
白紙の上の一行が、朝日の中でゆっくりと乾いていた。
正午前に荷馬車を拾えた。
蕪とキャベツを積んだ荷台の隅に座らせてもらった。土と青い葉の匂いが、揺れるたびに鼻を押す。鉄胆インクの酸味とは似ても似つかない、地面から湧いた匂いだった。
「お嬢さん、都の人かい」
「ええ」
「へえ。都を出るのは珍しいねえ。みんな行きたがるのに」
「……そうですわね。わたくしも十年おりましたの」
農夫が手綱を緩めた。馬が歩調を落とし、荷台の揺れがゆるやかになった。
「十年。そりゃ長いや。何のお仕事だったんだい」
「手紙を書いておりました」
昨日も御者に同じことを言った。三千通の書簡を「手紙を書く仕事」と呼ぶのはあまりに雑な要約だ。だが正確に言えば長くなるし、正確に言ったところで——この荷馬車の上では何も変わらない。
「手紙書きか。そりゃ便利な腕だ」
「……そうかもしれませんわね」
「南のほうなら人手が足りないよ。字の書ける人は特にね」
字の書ける人。
三カ国の読み書きと暗号外交術は、おそらくこの大陸で二人にしか共有されていない技能だった。だが「字の書ける人」としてのわたくしは、通りすがりの農夫にも用が利くらしい。
——十年、誰の名前で書いていたかなど、この道の上では問われない。
「南にはエルデの辺境伯領ってとこがあるよ。人が穏やかでいいとこだ」
エルデ辺境伯領。名前は知っている。通商路の中継地として書簡に書いたことがあった。南端の小さな自治領。ただし書いたのは地名と数字だけで、そこに住む人の顔も畑の色も、匂いも知らない。
「ありがとうございます。覚えておきますわ」
荷馬車が石にぶつかって跳ねた。覚書の角が肩を叩いた。蕪の葉が風に煽られて、乾いた音を立てていた。
午前の鐘が鳴った頃、ガルシア・モンターニュが局長室の扉を叩いた。
「局長殿。返書のご進捗はいかがですかな」
返答を待たずに扉を開けた。腕を後ろに組んだまま入り、靴音を響かせて机の前に立った。
目が卓上を走った。一行だけの白紙。六つの紙くず。ルミエール帝国の書簡。
「——お手伝いいたしましょう」
「……手伝う」
「新体制ではわたしが書簡方針の全般を管理いたします。方針のみならず実務にも手を入れるのが筋でしょう」
ガルシアが白紙を手に取った。
「一行ですか。——局長殿、外交書簡といっても手紙には違いございません。受け取りの返礼をし、こちらの所存を述べればよろしい。難しく考えすぎては筆が進みませんぞ」
「……」
「定型的な返書であれば骨子をわたしがまとめましょう。局長殿にはご確認と署名をいただければ」
ヴィクトルの目がガルシアの顔を見た。
「お前が書くのか」
「骨子を、です。清書は書記官に任せればよろしい。——代筆の替えなどいくらでもおりますからな」
ヴィクトルのペンが机に置かれた。乾いた音が鳴った。
「……やってみろ」
「承知いたしました」
ガルシアが懐からペンを取り出し、新しい白紙を引き寄せた。
「まず書き出し。——『ルミエール帝国宰相閣下。貴国よりの書簡を受領いたしました。当方としては貴国との友好関係を引き続き維持する所存であります』——」
口述しながらペンを走らせた。角張った筆跡が紙の上を滑っていく。字の間隔は不揃いで、一行の中で傾きが変わっていた。
「先ほど書記官が言っていた」
ヴィクトルが口を挟んだ。
「定型句。『御厚誼に深甚なる謝意を表し』が慣例だと」
「ああ、あれですか」
ガルシアはペンを止めずに答えた。
「旧来のやり方でしょう。仰々しい文句は飾りにすぎません。新体制では簡潔さを旨とすべきです」
「……」
「飾り立てた言葉より実質的な内容が先方に伝わりますぞ。わたしの経験では、回りくどい挨拶は読み飛ばされるものです」
ペンが再び走った。
「続けて。——『また、通商に関しましては追って協議の場を設けたく存じます』」
「帝国の書簡に通商の件は書いてあったか」
ヴィクトルがルミエール帝国の書簡を手で示した。ガルシアの手が止まった。便箋を取り上げ、上から下まで目で追った。
「……直接には触れておりませんが、外交書簡に通商への言及を含めるのは通例です」
「通例か」
「わたしの経験では」
ヴィクトルは黙った。
ガルシアの手がもう一度動いた。
「締め。——『両国の友誼の一層の発展を祈念し、まずは書中にてご挨拶申し上げます。ヴァイスブルク王国外交局長 ヴィクトル・レーヴェンハルト』。——以上でございます」
ガルシアが書き上げた紙を机に置いた。五行の返書だった。
ルミエール帝国の書簡は便箋二枚。返書は五行。
ヴィクトルがそれを読んだ。目が文面の上を二度往復した。
「……短くないか」
「簡にして要を得ております。余計な装飾は蛇足ですぞ。前任のやり方は冗長にすぎるきらいがありましたからな」
ヴィクトルの指がペンの軸を撫でた。
「……帝国宛ての書簡で、『受領いたしました』は——」
「はい?」
「帝国の宰相に対して——受領、という表現は適切なのか」
「実務的で明快でしょう。荷物ではなく書簡ですが、受け取ったのは事実ですからな。何か問題でも」
「……いや。いい」
ヴィクトルの口が一瞬開き、閉じた。何かが引っかかっているように見えた。だがその引っかかりに名前をつける言葉は出てこなかった。
「清書させろ」
「承知いたしました」
ガルシアが下書きを持って立ち上がった。扉に向かう途中で振り返った。
「それと、フェルゼンの件も控えておりますな。書記官の名は——ハイネ殿でしたか。催促状への返答も必要でしょう。そちらも骨子をわたしが」
「……ああ」
「お任せください。書簡の一通や二通、大した話ではございません」
靴音が廊下に消えた。
午後。清書された返書が書記官の手で届いた。
ガルシアの下書きを書記官の筆で清書した便箋。角張った文意はそのままに、筆跡だけが整えられている。五行の文面が端正な書記官の字で並んでいた。
ヴィクトルが受け取り、目を通した。末尾に署名した。
「封蝋を」
書記官が蝋と印章を盆に載せて運んできた。蝋燭が灯された。赤い封蝋の棒を炎にかざすと、蝋が溶けて紫がかった雫になった。折り畳まれた書簡の綴じ目に落とし、ヴィクトルが印章を押した。
蝋が冷えていった。紋章の輪郭が浮かび上がる。だが——縁が滲んでいた。くっきりとした刻印には、ならなかった。
書記官がそれを受け取った。封蝋の面を見た。口が開きかけて、閉じた。
「……飛脚鳥の手配をいたします」
「頼む」
書記官が書簡を両手で持ち、一礼して退室した。
廊下の足音が遠ざかった。
局長室にヴィクトルが残った。ルミエール帝国の書簡がまだ机の上に広げてある。便箋二枚にわたる端正な文面。それに対する五行の返書は、今、飛脚鳥の脚に結わえられようとしている。
六つの紙くずが、机の脇に転がったままだった。
秋の日暮れが街道を赤く染めていた。
荷馬車を降りた宿場の軒先で、風呂敷を足元に下ろした。肩が軽くなった。一日歩き通した足の裏が、じんと熱い。
空を見上げた。
一羽の鳥が、高い空を西へ向かっていた。翼が広い。速い。ためらいのない一直線の飛び方。
——飛脚鳥だ。
見覚えのある翼の形だった。外交用の飛脚鳥。あの脚に書簡が括られている。
十年のあいだ、あの翼に何百通を託した。宛名を書き、本文を仕上げ、封蝋を押して、鳥の脚に結わえる。あの翼が夕空に舞い上がるのを書斎の窓から見送って、一日が終わった。
今日、あの翼の下にあるのは——誰の言葉だろう。
どこから来て、どこへ向かう便なのか。この街道の上からでは分からない。
鳥は夕焼けの中へ溶けるように消えていった。西へ。ルミエール帝国のある方角へ。
足元の風呂敷に目を落とした。覚書の角が布を押し上げている。夕日がその尖った影を、宿場の土の上に長く赤く落としていた。




