筆友を探して
楡の葉が、残らず落ちていた。
十月の末。ルミエール帝国宰相府、北棟の執務室。二週間前には枝に金色の葉を揺らしていた楡が、裸の骨のような枝だけを秋の空に伸ばしている。窓からの陽が低く傾き、天板に薄い四角の明るみを落としていた。
エミールは執務机の前に座り、机の上の書簡を見ていた。
五行。便箋の上半分に五行の文字。下半分は白い。ヴァイスブルク王国外交局長名義の返書——暗号のない書簡が、二週間前と同じ場所に載っている。
その横に、白い紙が一枚あった。ヴァイスブルクへの次の書簡の下書きだった。冒頭の挨拶句と三行の本文を書いて止めてある。暗号を読む相手のいない書簡を、どう結べばよいのか。表の文面だけなら書ける。だがこの十年、それだけの書簡を一度も送ったことがなかった。
扉が叩かれた。
「閣下。大使アンリ・ド・ロシュフォールがお戻りです」
椅子の肘掛けを握る手に、わずかに力がこもった。
「通せ」
足音。扉が開いた。アンリが入ってきた。
正装に着替えてはいるが、頬に旅の陽焼けが残り、靴の縁にうっすらと土埃がついていた。宰相府の大使が公式の旅では残さぬ痕跡だった。手に革装の報告書を一冊持っている。
「ただいま戻りました、閣下」
「ご苦労だった。座りたまえ」
アンリが椅子に腰を下ろした。報告書を膝の上に置き、姿勢を正した。
「結果から聞こう」
「はい」
アンリが一拍置いた。言葉を選んでいるのではなく、報告の順序を整えているようだった。
「ヴァイスブルク外交局で、ひと月ほど前に人事の異動がございました。局長の書記秘書が解任されています」
「書記秘書が」
「はい。解任と同時に、局長との婚約も解消されたとのことです」
エミールは声を発さなかった。先を促すように、灰色の目だけをアンリに向けた。
「名は——セラフィーナ・ヴァルトシュタイン」
ヴァルトシュタイン。
呼吸がひとつ分、途切れた。エミールの右手が肘掛けの木目の上で止まり、灰色の目がわずかに細くなった。ヴァイスブルク五大貴族の一角。公爵家だった。
「公爵家の令嬢か」
「三女です。十年前に外交局長ヴィクトル・レーヴェンハルトの婚約者として局に入り、以来、書記秘書を務めておりました」
十年前。
その三語が、胸の中で別の意味を帯びた。十年前——筆友の暗号が書簡に初めて現れた年だった。
「解任の理由は」
「公式には人事上の判断と聞いております。ただし国境の商人筋から別の話が入りました」
アンリが報告書を開いた。
「局長の補佐官にガルシア・モンターニュなる者がおります。この者が局長に讒言し、書記秘書の解任を主導した形跡があります。解任の名目は——」
一瞬、アンリの声の温度が下がった。
「——代筆係が出過ぎた真似をした、と」
代筆。
エミールの顎がわずかに引かれた。それ以外の反応は見せなかった。だが胸の奥で、十年分の書簡の重さが軋んだ。あの精緻な暗号を——大陸の均衡を紙の裏で支え続けた仕事を、代筆と呼ぶのか。視線が机の上の五行の書簡に移り、末尾の署名——ヴィクトル・レーヴェンハルトの名前——に止まった。
「アンリ。その書記秘書は書簡を書いていたのか」
「はい。これは宮廷の官吏から街の商人まで口を揃えておりました。外交局の書簡は、すべてこのセラフィーナ嬢が起草していた。局長は署名をしていただけだ、と」
沈黙が落ちた。
窓の外で、葉を失った楡の枝が風に揺れた。かさりとも鳴らなかった。鳴らすべき葉が、もうなかった。
すべてが繋がった。
先王カールが密かに配した者。影の外交官。十年間、局長名義の書簡に暗号を織り込み続けた書き手。それは外交局長ヴィクトル・レーヴェンハルトではなかった。局長の名の下で筆を執り続けた、一人の公爵令嬢だった。
セラフィーナ・ヴァルトシュタイン。
それが、筆友の名前だった。
「続きがございます」
アンリの声で、思考が執務室に戻った。
「聞こう」
「セラフィーナ嬢は解任後、王都ヴァイスハウプトを去っています。南門から辻馬車に乗ったという話を、門番と親しい者から拾いました」
一拍、置いた。
「それ以降の足取りは現時点では掴めておりません」
「南か」
「南の街道を辿れば、途中にいくつかの宿場を経てエルデ辺境伯領に至ります。ただし目的地がそこかどうかは確認できませんでした」
エミールは頷いた。南。ヴァイスブルクの南には、小さな宿場と農村が点々と続いている。辺境とはいえ暮らせぬ土地ではない。だが——公爵令嬢が一人で南の街道を歩くというのは、尋常なことではなかった。
「外交局の現状についてもご報告します」
アンリが頁をめくった。
「セラフィーナ嬢の退局後、ヴァイスブルクの外交書簡の質が著しく落ちています」
アンリの声に苦味が混じった。
「フェルゼン連合との通商条約更新交渉が事実上停止しました。書簡に慣行違反が重なり、連合側が不信を表明しています」
「具体的にはどのような」
「連合の書式慣行に反する表現の使用、段階制関税率の合意の一方的な変更、評議会の審議日程に対する外部からの期限設定。一度の書簡で複数の禁忌に触れたと聞いております」
エミールの指が、肘掛けの木目をゆっくりと叩いた。一定の間隔で、三度。
「……あの書簡が支えていたものは、暗号だけではなかったということだ」
「はい。ヴァイスブルクの宮廷でも局長の能力を疑う声が出始めているとのことです。内務卿がすでに動いたという話もありました」
「フェルゼンの出方は」
「条約更新の期限が迫る中で、連合が一部条約の凍結に踏み切る可能性があると国境の通商業者が話しておりました」
アンリが頁を繰った。
「凍結されれば国境の関税が跳ね上がります。ヴァイスブルクの港湾には連合の穀物が滞留し、帝都の市場にも波が及ぶかと」
「噂ではなかろう。フェルゼンの評議会はそういう判断のできる組織だ」
エミールは立ち上がった。
窓辺に歩いた。楡の枝越しに帝都の屋根が広がっている。秋の夕陽が赤い。その遥か東にヴァイスブルクがある。さらにその先にフェルゼン連合がある。三つの国の均衡を——暗号と書簡の力で、一人の女性が支えていた。その手が折られた今、均衡が軋み始めている。
「アンリ」
「はい」
窓に向いたまま、声を落とした。
「先王カール陛下が影の外交官を配されたのは十年前だ。わたしにだけ暗号の鍵を渡し、表の書簡の裏で二国間の本音を伝え合う仕組みを作られた。あの方は——先王が自ら選んだ人材だ」
窓枠に手を置いた。十月の石は冷たい。
「その人材を、書簡の書式も知らぬ補佐官の讒言ひとつで追い出した。十年間書簡を書き続けた手を、代筆係ごときと呼んで追放した」
窓枠を掴む指が白くなった。
「——ヴァイスブルクは、自国が何を失ったか分かっていない」
声は低く、抑えられていた。だが指の力だけが、言葉にならない感情の在処を示していた。
アンリは椅子から動かなかった。一拍の沈黙を置いてから、静かに訊いた。
「閣下。この情報をどうなさいますか」
エミールが振り返った。灰色の目に、先ほどまでの私情は消えていた。宰相の目だった。
「まず整理する。筆友——セラフィーナ嬢は王都を去り、南へ向かった。行き先は不明」
指を組み、続けた。
「外交局に暗号を読み書きできる者はもういない。フェルゼンとの交渉は崩壊寸前。ヴァイスブルクの宮廷は混乱している」
椅子に戻った。
「帝国がこの件で公式に動けばどうなる」
「ヴァイスブルクの内政干渉と見なされます。相手国の宮廷の混乱に乗じて帝国が影響力を行使しようとしている、と」
「そうだ。動いた瞬間に先王が築いた信頼を壊す。暗号外交は両国の信義の上に成り立っていた。帝国の宰相が筆友の存在を公にすれば、十年分の暗号通信が白日の下に晒される」
エミールの声が、ほんの一段低くなった。
「あの方がどこにいようと、暗号の秘密はまだ守らねばならない」
アンリが深く頷いた。
「アンリ。頼みが二つある」
「何なりと」
「一つ。セラフィーナ嬢の足取りを追ってくれ。南の街道沿いに、宿場を当たれ。ただし——」
灰色の目がアンリをまっすぐ見た。視線がほんの一瞬だけ、机の上の書簡の束に揺れた。
「——見つけても接触するな。居場所だけ確かめろ。声をかけるかどうかは、わたしが判断する」
「承知いたしました」
「二つ。フェルゼン連合の動向を注視してくれ。条約凍結が現実のものになるなら、帝国として備えがいる。三国の均衡が一箇所で崩れれば、残りの二辺にも波が及ぶ」
「フェルゼンについては在留の商務官から定期の報告が入っております。動きがあれば即座にお伝えします」
「頼む」
アンリが立ち上がった。一礼し、報告書を机の上に置いた。
扉に向かいかけて、足を止めた。
「閣下」
「何だ」
「お伝えすべきか迷いましたが——セラフィーナ嬢が外交局を去る日に、言い残した言葉があるそうです」
声がわずかに低くなった。
「局の書記官から商人へ、商人から商人へ渡ったものですので正確ではないかもしれませんが」
エミールが目を上げた。
「十年で三千通。明日から、どなたがお書きになるのですか——と」
誰も口を開かなかった。アンリの手が膝の上で拳を作り、ゆっくりと開かれた。
エミールの右手が、机の上の五行の書簡に触れた。指先が便箋の縁を辿り、止まった。この書簡を書いたのは、セラフィーナ嬢ではない。三千通を書いた手がいなくなった後に、残された誰かが五行だけ綴った紙だった。
「……三千通か」
声は独り言の低さだった。
「先王陛下は人を見る目がおありだった」
アンリが深く頭を下げ、退室した。
扉が閉まった。足音が廊下を遠ざかり、執務室に静けさが戻った。
エミールは報告書を開いた。最後の頁に人物の概要が添えてあった。
セラフィーナ・ヴァルトシュタイン。二十七歳。ヴァルトシュタイン公爵家三女。
二十七。十年前に暗号が現れたとき、十七だった。
十七歳の手が、先王から暗号の鍵を託され、宰相府への外交書簡の裏にもう一つの声を織り込み始めた。あの初めての暗号——よろしくお願い申し上げます——を書いたのは、十七の娘だった。あの文字の硬さは、慎重さではなかったのだ。ペンを握る手の緊張だった。
報告書を閉じた。鍵付きの引き出しを開け、十年分の書簡の束の隣に並べた。鍵を閉めた。
書きかけの草稿を手に取った。ヴァイスブルクへの次の書簡。三行で止まった文面を読み返し、ペンを取った。六十三年を生きた指は太く節くれだち、インクの染みが爪の際に残っている。十七歳の硬い文字を思い出した。あの若さで暗号を織り込んだ手は、今どこで何を書いているのだろう。
暗号は織り込まなかった。読む者がいない。だが結びに一文を加えた。
——貴国との友誼を、変わらず重んじます。
何の変哲もない外交の結句だった。だがこの一文を、三千通を書いた手がいなくなった便箋の上に書くことには——エミールにしか分からない重みがあった。
書き終えた。封をした。蝋を垂らし、宰相の紋章を押した。印影は鮮明だった。線の一本一本が蝋の上にくっきりと刻まれている。
この書簡を読むのは誰だろう。ヴィクトル・レーヴェンハルトか、その補佐官か。どちらにせよ、結句の重みなど知らぬ者の目に触れるだけだ。
だが書いた。
封をした書簡を盆に載せた。
窓の外が暗くなっていた。秋の日は短い。楡の裸の枝が夕闇に沈んでいく。
ヴァイスブルクで何かが壊れ始めている。フェルゼンが動く。三国の均衡を一人の手が支えていた——その手が折られた今、大陸の力学が軋み出している。
だが焦ってはならない。帝国の宰相が追放された令嬢を探していると知られれば、暗号外交の存在が露見する。先王の遺志を守るためにも、動くなら水面の下でなければならない。
もう一つ。セラフィーナ嬢がどこにいようと、声をかけるのは彼女が受け入れたときでなければならない。追い出された者を、別の都合で引き戻すことは——同じ過ちの繰り返しだ。
蝋燭を灯した。焔が揺れ、執務室に黄金色の光が広がった。
東の空に目をやった。暗い空の彼方に、ヴァイスブルクがある。その南のどこかに、一人の公爵令嬢がいるはずだった。
だがどんな知らせが来ようと、返事は書く。暗号のない書簡を——それでも書き続ける。十年間、署名欄に自分の名が載ることのない書簡を三千通綴り続けた筆友がそうしたように。
エミールは盆の上の封をされた書簡に目を落とした。明朝、この便箋が飛脚鳥の脚に括られ、東の空に発つ。
名前を知った。
十年間、紙の裏で声を交わしてきた相手の名前を——今日、初めて知った。
——待っていろ、筆友。
声には出さなかった。ただ蝋燭の灯りの中で、盆に載せた書簡の封蝋が赤く光っていた。紋章は鮮明で、線の一本に揺らぎもなかった。




