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魔族の女王が転生したら聖女になっていた  作者: 白神 エル
第一章:静かな日々  ― そして、幼き聖女の力は目を覚ます ―

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女神との出会い

翌朝。

目を覚ました瞬間、胸の奥に重たいものが残っていた。


——昨日のこと。


森で起きた出来事が、ぼんやりと頭に浮かぶ。

(……夢じゃ、ない)


小さく息を吐いた、そのとき。

ふわりと、香ばしい匂いが漂ってきた。


「……パンの匂い」


鼻をくすぐる、焼きたての香り。

それだけで、少しだけ気持ちがほどける。

ベッドから降り、着替えを済ませる。


そして、いつものように階段を下りた。

ぎし、と木が鳴る音。

それすらも、どこか安心できる音に思えた。


階段を下りると、焼きたての香りが一層強くなった。

小麦の甘い匂いと、ほんのりとした焦げた香ばしさ。

それだけで、胸の奥にあった重たいものが少しだけ軽くなる。


食堂のテーブルには、すでに朝食が並べられていた。


丸く焼かれたパン。

温かなスープ。

小さな果物の皿。


いつもと変わらない光景。


「おはよう、エリス」


キッチンから、クラリスの声がする。

振り向くと、柔らかな笑顔がそこにあった。


「……おはよう」


少しだけ緊張が残る声で答えながら、椅子に座る。

パンを手に取る。

表面は少し固く、でも中はふわりと柔らかい。

口に運ぶと、ほんのりとした甘さが広がった。


「おいしい?」


クラリスが、さりげなく声をかける。


「……うん」


小さく頷く。

それを見て、クラリスは安心したように微笑んだ。


「よかった」


それだけの言葉。

けれど、不思議と胸が温かくなる。

少しして。


「昨日は、よく眠れた?」


優しい声だった。

昨日のことには触れない。

何があったかを、問い詰めもしない。


ただ——心配していると伝えるような声音。


「……うん」


本当は、少し違う。

でも、嘘をついたわけでもない。

最後には、眠れたから。


「そう」


クラリスは静かに頷いた。


「よかったわ」


それ以上は何も聞かない。

代わりに、スープをそっと差し出す。


「今日は少し風が強いみたいね

 外に行くなら、上着を持っていきなさい」


まるで、何も特別なことはないかのように。

いつも通りの会話。

その“いつも通り”が、どれほど救いになっているか。


私はまだ、うまく言葉にできない。

けれど——


一口、また一口とパンを食べるたび。

胸の奥に残っていた不安が、ゆっくりと溶けていく。


(……大丈夫)


そう思えた。


クラリスが、ふとこちらを見る。

目が合うと、優しく微笑んだ。

その笑顔は、何も言わなくても伝えていた。


——ここにいていいのだと。


気づけば、心の中のざわめきは消えていた。


ただ、穏やかな朝の光だけが残る。

何も変わっていない。


——少なくとも、そう見えた。


食事を終えるころには、昨日の出来事も少し遠く感じられた。


「いってきます」


扉の前で振り返る。


「いってらっしゃい、気をつけてね」


クラリスが、いつものように手を振る。

その姿に、もう一度だけ安心して。

私は外へと出て、マリンが待つ広場へ向かった。


昨日と同じ道。

同じ空。

——だけど。

私の中の何かは、確かに少しだけ変わっていた。


広場に着くと、すでにマリンが私を待っていた。


「エリスー!」


噴水の水音に混じって、元気な声が響いた。

広場の中央にある白い石の噴水。

そのそばのベンチに、マリンはすでに座っていた。


「おはよう」


少しだけ遅れて、私は隣に腰を下ろす。

水が弧を描いて落ちる音が、心地よく耳に残った。


けれど——


「ねえ」


マリンが、すぐに口を開いた。


「昨日のこと、聞いてもいい?」


胸が、きゅっと締まる。

(……やっぱり)

逃げることは、できない。


「……うん」


しばらく沈黙が続いたあと、私はゆっくりと話し始めた。

森の静けさ。

魔獣。

そして——あの光。


「……気づいたら、消えてたの」


最後の言葉は、ほとんど呟きだった。

マリンは何も言わずに聞いている。

その表情は、少し困ったようで。

少しだけ、戸惑っているようでもあった。


「……ごめんね」


思わず、そう言ってしまう。


「怖かったよね

 変だよね、私……」


声が小さくなる。

噴水の音だけが、やけに大きく聞こえた。


「……うん」


マリンは正直に頷いた。

心臓が、沈む。

けれど——


「びっくりした」


続いた言葉は、柔らかかった。


「だって、魔獣が急に消えちゃうなんて……」


少しだけ笑う。


「普通じゃないもんね」


私は、顔を上げられなかった。

そのとき。


「でもさ」


マリンの声が、すぐ近くで響く。


「私を助けてくれたのは、エリスでしょ?」


はっとして、顔を上げた。

まっすぐな瞳が、そこにあった。


「それなら、それでいいよ」


迷いのない声だった。


「エリスが何でも

 変でも、不思議でも」


そして——


「友達なのは変わらないし」


胸の奥が、じんわりと熱くなる。

言葉が出ない。


ただ、頷くことしかできなかった。

噴水の水が、きらきらと光を反射している。


その音の中で。

私は改めて、思った。

(……ここに、いていいんだ)


マリンが、立ち上がる。


いつもの調子で、手を差し出した。

私は、その手を取る。

少しだけ、強く握り返した。

すると、マリンが


「ねえ、エリス」


噴水の水音に混じって、マリンがふと思い出したように言った。


「昨日、ちゃんとお礼言ってないよね」


「お礼?」


「うん。無事に帰れたこと」


マリンは当然のことのように笑う。


「だからさ、教会行こうよ」


私は一瞬だけ、言葉を失った。

教会。


——あそこは、私がこの世界に現れた場所。


胸の奥が、わずかにざわつく。

けれど。


「……うん」


小さく頷いた。

二人でベンチを立ち、広場を横切る。

朝の陽射しが石畳を照らし、噴水の水しぶきがきらきらと光っていた。


行き交う人々の声が、どこか遠くに聞こえる。

いつも見慣れた街並み。

けれど今日は、少しだけ違って見えた。


「ねえ、エリス」


マリンが歩きながら空を見上げる。


「女神様って、ほんとに見てるのかな」


突然の問いに、私は答えに詰まる。


「……どうだろう」


正直な言葉だった。

ただ、昨日のことを思い出す。

あの光。

何かに見守られているような感覚。


(……分からない)


でも——


「……いるかもしれないね」


気づけば、そう答えていた。

マリンは満足そうに頷く。


「だよね!」


街の家並みが途切れ、視界が少し開ける。

その先に、白い建物が見えてきた。

小さな尖塔。

静かに佇む白い石の壁。

教会だった。


不思議と、周囲の音が遠のいた気がする。

足取りが、わずかに重くなる。


「行こう」


マリンは気づかずに、自然な調子で言う。

私は、ほんの少しだけ深呼吸をして。

その後を歩いた。


——このときの私は、まだ知らなかった。


ここで、自分の運命と再び向き合うことになるなんて。


やがて、二人は教会に着き

教会の扉を押し開けた。


白い石で造られた小さな教会は、外の喧騒とは別の静けさに包まれていた。


高くない天井。

色ガラスから差し込む柔らかな光。


空気はひんやりとしているのに、どこか温かい。

二人は並んで、中央の女神像の前に立つ。

穏やかな表情で祈りを捧げる、白い石の像。


「……ありがとう」


小さく呟き、目を閉じる。

昨日の出来事。

恐怖。

そして、守れたという事実。


胸の奥で、感謝の気持ちが静かに広がる。


——そのとき。


『……エリス』


優しい声が、頭の中に直接響いた。

はっとして、目を開ける。

だが——


視界が、白に溶けていく。

光が、すべてを覆い尽くす。


「……え?」


挿絵(By みてみん)

次の瞬間。

足元の感覚が消えた。

重力も、音も、空気もない。


ただ、無限に広がる光の中に、私は立っていた。


——いや。


立っているという感覚すら、曖昧だった。


「ここは……」


『恐れなくていい』


再び、声がする。

振り向くと。

そこに、一人の女性が立っていた。


銀色の髪が、光の中で揺れている。

静かな湖のような瞳。

その存在だけで、空間そのものが穏やかになるようだった。


『私はセレネ

 この世界を見守る者のひとり』


女神だった。


「……女神、様?」


驚きと戸惑いが混じる。

セレネは、柔らかく微笑んだ。


『あなたの魂だけを、ここへ導きました

 ほんのわずかな時間です』


「どうして……」


言葉が続かない。

だが、セレネはすでに理解しているようだった。


『あなたは、特別な存在だから』


静かに告げる。


『魔界の女王として生き、優しさを選び、そして死んだ

 それは、この世界の均衡に触れる出来事でした』


エリスの胸が、強く打つ。


『あなたの力は、ただの魔力でも、神の加護でもない

 それは——存在の“在り方”に触れる力』


光が、わずかに揺れる。


『癒やすこともできる

 消し去ることもできる』


さらにセレスの言葉は続く


『それは破壊ではなく、還元

 すべてを“元の理”へ戻す力』


エリスは、息を呑んだ。

昨日の光景が、脳裏に蘇る。


『あなたは境界の子

 人でも、魔でも、神でもない

 だからこそ——選ぶことができる』


セレネは、ゆっくりと近づく。

その瞳には、試すような色はなかった。

ただ、見守るような静けさだけ。


『その力の意味を、これから知るでしょう

 恐れる必要はありません』


そして——


『あなたが望む限り、私はあなたを見守ります』


その言葉とともに。

光が、再び満ちる。

視界が白く染まり——


次の瞬間。


私は、教会の中に立っていた。

まるで、何もなかったかのように。

ただ、胸の奥だけが。


確かに、変わっていた。

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