旅立ちの朝 ― いつもと同じ、違う朝
エリスは“境界の子”、別名――聖女。
そして同時に、元・魔族の女王。
誰も辿らなかった第三の道を、彼女は選ぶ。
朝日が、部屋に差し込んでいた。
眩しい光に包まれながら——
エリスは、ゆっくりと目を開ける。
「……朝」
いつもと同じ天井。
いつもと同じ部屋。
けれど——
「……今日、か」
小さく呟く。
今日、この場所を離れる。
そう思うだけで、
何気ない風景が、少し違って見えた。
エリスは体を起こし、静かに着替える。
身支度を整えると——
ゆっくりと階段を降りた。
下からは、いつもの音が聞こえてくる。
包丁の音。
食器の触れ合う音。
「……」
ほんの少しだけ、立ち止まる。
その音を、胸に刻むように。
そして——
台所へ足を踏み入れた。
「おはよう」
クラリスが、いつものように振り返る。
「おはよう」
エリスも、いつも通りに返す。
だが——
その“いつも通り”が、少しだけ重かった。
ふと視線を向けると——
テーブルには、すでにエノクの姿。
珍しく早起きして、お茶を飲んでいる。
「早いね」
エリスが言うと、
エノクは少しだけ笑った。
「今日は、特別だからな」
その言葉に、エリスも小さく頷く。
挨拶を交わすと、
エリスは自然とキッチンへ向かった。
「手伝うね」
「ありがとう」
クラリスの隣に立つ。
包丁を握る手。
鍋の湯気。
その一つ一つが、いつもと同じなのに——
どこか違って感じる。
「……ね、お母さん」
エリスが、ぽつりと口を開いた。
「なに?」
「……こうやって、隣に立つの
しばらく、できなくなるんだね」
手は止めないまま。
けれど、その声には想いがこもっていた。
クラリスは、少しだけ手を止める。
そして——
優しく微笑んだ。
「そうね
でも——
また、できるわ」
その言葉は、穏やかで。
確信に満ちていた。
エリスは、少しだけ安心したように笑う。
「……うん」
それ以上は、言葉にしなかった。
けれど——
その時間を、大切に過ごした。
やがて、朝食の準備が整う。
「できたわよ」
クラリスの声に、エノクが顔を上げる。
三人で席に着く。
「「いただきます」」
静かに手を合わせ——
朝食が始まった。
いつもと同じ朝食。
ベーコンエッグに、クラリス特製のパン。
何度も、何度も食べてきた味。
子供の頃から——
ずっと変わらない、朝の味。
エリスは、パンを一口ちぎる。
ゆっくりと口に運び、噛みしめた。
「……美味しい」
小さく、呟く。
その味が——
いつもより、少しだけ強く感じられた。
(……しばらく、食べられないんだよね)
そう思った瞬間——
胸の奥から、熱いものが込み上げてくる。
視線を落とし、何も言わずにパンをかじる。
けれど——
その変化を、クラリスは見逃さなかった。
「……エリス」
優しく、声をかける。
エリスが顔を上げると——
クラリスは、穏やかに微笑んでいた。
「しばらくは、一緒に食べられないけど
これが最後じゃないでしょ?」
その言葉は、やわらかくて。
けれど、しっかりとした強さがあった。
「帰ってきたら——
また、いくらでも食べられるわ」
エリスの目が、少しだけ揺れる。
クラリスは続けた。
「それに
旅の途中で辛くなったら
いつでも帰ってきなさい」
迷いのない言葉。
それは——
“帰る場所はここにある”という、約束だった。
エリスは、しばらく言葉が出なかった。
ただ——
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
「……うん」
やっとのことで、それだけを返す。
エノクは、静かにその様子を見ていた。
何も言わずに——
ただ、優しく頷く。
エリスは、もう一度パンを口に運ぶ。
今度は、しっかりと味わいながら。
この味を——
忘れないように。
いつも通りの朝食が終わる。
食器を片付けようと、エリスが立ち上がったその時——
「それはいいから」
クラリスが、少しだけ強めの口調で言った。
「忘れ物がないように、ちゃんと荷物を確認しなさい」
エリスは、一瞬きょとんとする。
けれどすぐに、小さく笑った。
「……うん」
そのやり取りのあと——
クラリスが、何かを差し出した。
「これも持っていきなさい」
小さな袋。
受け取ると、中には——
乾燥肉と、ドライフルーツ。
「旅の途中で食べられるように
日持ちするものを選んであるわ」
どこまでも、実用的で。
どこまでも、優しい準備だった。
エリスは、その袋を見つめる。
(……さすが、お母さん)
元冒険者としての経験。
そして——
母としての気遣い。
その両方が詰まっていた。
「……ありがとう」
エリスは、自然と笑顔になる。
そして——
次の瞬間。
思わず、クラリスに抱きついた。
「え、ちょっと……」
驚いたような声。
けれど——
クラリスはすぐに、その背中に手を回した。
「……もう」
どこか呆れたようで、
でも優しい声。
エリスは、少しだけ強く抱きしめる。
言葉にしなくても——
伝えたいことは、そこにあった。
「……行ってくるね」
小さく、そう呟く。
クラリスは、穏やかに答えた。
「ええ
いってらっしゃい」
エリスは、そっと体を離す。
そして——
自分の部屋へ向かった。
部屋に入ると、静かな空気が広がる。
旅支度の荷物が、整然と置かれていた。
エリスは、ゆっくりとそれを開く。
一つ一つ確認していく。
武器。
防具。
生活用品。
そして——
クラリスから受け取った保存食。
それを大切にしまい込む。
「……よし」
小さく頷く。
準備は、整った。
エリスは、リュックを背負った。
しっかりと肩にかかる重み。
腰には、剣。
その存在が、これからの旅を物語っていた。
「……よし」
小さく呟き、部屋を出る。
階段を、一歩一歩降りていく。
その先には——
エノクとクラリスが、並んで立っていた。
「……」
一瞬、言葉が出ない。
ただ——
その姿を、しっかりと目に焼き付ける。
エノクが、一歩前に出た。
「これを持っていけ」
そう言って、エリスに小袋を渡す。
中には——
まとまった額の路銀。
エリスは、思わず目を見開いた。
「……こんなに?」
エノクは、穏やかに答える。
「最初は、冒険者としてすぐに稼げるわけじゃない
だから、持っていけ」
その言葉は、現実的で——
そして、温かかった。
エリスは、ゆっくりと頷く。
「……ありがとう」
エノクは、軽く頷いたあと——
まっすぐにエリスを見た。
「無事に帰ってくることを、信じてる」
それだけだった。
けれど——
その一言には、すべてが込められていた。
クラリスも、一歩近づく。
「体調には気をつけるのよ
無理はしないこと」
そして、少しだけ笑って続ける。
「それと——
たまには、手紙くらいよこしなさい」
その言葉に、エリスは少しだけ笑った。
「……うん」
しっかりと頷く。
胸の奥に、二人の言葉が積もっていく。
そして——
エリスは、大きく息を吸った。
「……行ってきます!」
明るく、力強い声。
それに対して——
「「いってらっしゃい」」
二人の声が、重なった。
エリスは、くるりと背を向ける。
振り返らない。
そのまま、扉を開けた。
外の光が、差し込む。
一歩。
そして、また一歩。
エリスは、西門へ向かって歩き出した。
——ここから、すべてが始まる。
エリスとマリンにとって——
初めての冒険者パーティ。
四人が、西門の前に揃っていた。
「最終確認だ」
ルシアンが落ち着いた声で言う。
「忘れ物はないな?」
エリスとマリンは、自分の荷物を軽く確かめる。
「はい」
カイルも短く補足する。
「街を出たら補給はできない
次の街まで、今あるもので乗り切る」
二人は、真剣な表情で頷いた。
確認を終えると——
ルシアンが一歩前に出る。
「行くぞ」
四人は、西門へと歩み寄った。
門の前には、衛兵が立っている。
「冒険者か」
ルシアンが頷き、カードを差し出す。
エリスとマリンも、それに続いた。
少しだけ緊張で手がこわばる。
それでも——
しっかりとカードを見せた。
「行き先は?」
「セントポル」
ルシアンが答える。
衛兵はそれを記録する。
これは、万が一のための重要な手続き。
パーティが戻らなかった場合——
ギルドが危険地域を把握するための情報となる。
冒険者としての責任。
その時——
衛兵の視線が、エリスとマリンに向く。
「……新人か?」
少し眉をひそめる。
「大丈夫なのか?」
空気が、わずかに張り詰めた。
その瞬間——
「問題ない」
ルシアンが即座に答える。
「俺たちは、元Sランクパーティー——
“白銀の聖剣団”のメンバーだ」
一瞬、空気が止まる。
衛兵の表情が変わった。
「……白銀の聖剣団だと?」
明らかな驚き。
カイルが短く続ける。
「同行する
問題はない」
衛兵は、しばらく二人を見つめ——
やがて、深く頷いた。
「……そうか」
カードを返しながら、静かに言う。
「なら安心だな」
そして——
「気をつけて行け」
その言葉には、先ほどとは違う重みがあった。
「はい!」
エリスとマリンが、しっかりと答える。
門が、ゆっくりと開かれる。
外の景色が広がる。
見慣れた街の外。
まだ見ぬ世界。
ルシアンが、一歩踏み出す。
カイルが続く。
エリスは、一瞬だけ街の方を見た。
そして——
前を向く。
マリンと、視線を交わす。
小さく頷き合う。
一歩。
その足が、門の外へ出た。
——リンドルの街を、離れる。
四人の冒険が、今始まった。
最後まで読んで頂きありがとうございます
次回の更新は、5月1日18時を予定してます
また、第三章のまとめをこの後、19時から公開を予定しています




