時の流れの中で
時は、静かに流れていった。
特別な出来事があったわけではない。
だが、確かに変わっていく日々があった。
エリスは何度も教会を訪れた。
朝の祈り。
夕の祈り。
誰もいない静かな時間を選んで、
女神の像の前に跪いた。
——もう一度会えるかもしれない。
そんな淡い期待を抱いて。
しかし、あの日のような出来事は起こらなかった。
声も。
光も。
ただ、静寂だけがそこにあった。
それでもエリスは通い続けた。
信じていたわけではない。
だが、忘れることもできなかった。
家では、クラリスの隣に立つことが増えていった。
パンを焼く香り。
洗濯物を干す風。
何気ない日常のひとつひとつを、
少しずつ覚えていく。
「そうそう、いい感じよ」
クラリスの優しい声。
その声に励まされながら、
エリスは少女として成長していった。
マリンとの関係も変わっていった。
子どもの頃の無邪気な遊びは減り、
代わりに長く話す時間が増えた。
将来のこと。
町のこと。
ときには、世界のこと。
「エリスは、遠くへ行きそうな気がする」
ある日、マリンがそう言った。
理由は分からない。
ただ、そう感じたのだという。
エリスは笑った。
けれどその言葉は、胸の奥に残った。
ときどき。
夢を見ることがあった。
光に満ちた場所。
見覚えのない戦場。
名前のない感情。
目覚めると、すぐに消えてしまう。
それでも、確かに何かが残っていた。
そうして、歳月は流れた。
少女は少しずつ大人へと近づいていく。
まだ運命を知らぬまま。
ただ、静かに導かれるように。
——そして今。
エリスは十五歳になっていた。
この世界では、十五は成人とされる。
守られる側から、選ぶ側へ。
それは、誰にとっても避けられない節目だった。
だがエリスには、明確な夢はなかった。
「将来どうしたい?」
そう聞かれるたびに、答えに詰まる。
マリンとも何度も話した。
町を出たいのか。
ここに残りたいのか。
特別な何かを望んでいるのか。
——分からない。
ただ、心の奥にぼんやりとした感覚だけがあった。
「どこかへ行くことになる気がする」
理由のない予感。
それでも今は、ここにいる。
ならば。
「……父さん」
夕暮れの教会。
エリスは静かに口を開いた。
「私、神官になりたい」
それは自然な選択のはずだった。
幼い頃から祈りに触れ、
教会の空気の中で育ってきた。
父の姿を見てきた。
だからこそ、迷いのない言葉だった。
しかし。
エノクはすぐに答えなかった。
その沈黙が、すべてを物語っていた。
やがて。
「……それは、許せない」
静かな声だった。
だが、強い拒絶だった。
エリスの胸が、わずかに締めつけられる。
「どうして?」
思わず問い返す。
エノクは目を逸らした。
神官としてではなく、
父としての恐れがそこにあった。
「お前は……普通ではいられない」
それ以上は言えなかった。
真実を話すこともできず、
ただ拒むしかない。
エリスはしばらく黙っていた。
理由は分からない。
だが、この拒絶の裏に
自分を守ろうとする想いがあることだけは分かった。
「……分かった」
小さく頷く。
その瞬間。
何かが静かに終わった気がした。
少女の未来のひとつが、消えた。
エリスは足早に家に帰ると
クラリスが
「おかえり」
「…………」
クラリスの言葉もエリスの耳には入らなかった
何も言えず、涙をこらえながら自分の部屋に向かった
クラリスはそんなエリスの様子を見て心配になった
階段を駆け上がり部屋につき
扉を閉めた瞬間、力が抜けた。
さっきまで普通に立っていたはずなのに、
足が言うことを聞かない。
ベッドに座る。
そして、気づけば涙がこぼれていた。
「……どうして」
神官になりたい。
ただ、それだけだった。
大きな夢でもない。
特別な望みでもない。
なのに。
その道すら選べない。
「……何をすればいいの」
自分の未来が、急に見えなくなった気がした。
そのとき。
静かに扉が開いた。
足音が、そっと近づいてくる。
「エリス」
優しい声。
クラリスだった。
何も言わず、隣に腰を下ろす。
そして、ゆっくりとエリスの肩を抱いた。
「……つらいわよね」
その一言で、涙がまた溢れた。
「どうして反対するのか分からない
私、そんなに変?」
クラリスは首を振る。
「違うわ
あなたは、ただ特別なだけ」
少しの沈黙。
やがてクラリスは、静かに言った。
「……ねえ、エリス
私の昔の話、聞いたことないでしょう?」
エリスは涙を拭きながら首を横に振る。
クラリスは、遠くを見るような目をした。
「私ね
若い頃は、冒険者だったの」
エリスの目が大きく開く。
あまりにも意外な言葉だった。
「剣も持ったし、魔物とも戦った
町から町へ旅もした」
穏やかな母の姿からは想像できない話。
「でもね」
クラリスは微笑んだ。
「最初からそうなりたかったわけじゃないの
ただ、選ばざるを得なかっただけ」
その言葉には、重みがあった。
「人生ってね
最初に決めた道を、そのまま歩けるとは限らないの
でも、違う道が必ず見つかる」
クラリスはエリスの手を取る。
「あなたの未来は、まだ閉じていないわ
むしろ今、開き始めたところよ」
その言葉は、静かに心に染みていった。
エリスは小さく息を吐く。
涙はまだ残っていたが、
胸の重さは少し軽くなっていた。
「……お母さん」
「なに?」
「冒険者の話、もっと聞かせて」
クラリスは優しく笑った。
「ええ、いくらでも」
その夜。
少女の心に、
新しい可能性の灯が静かに灯った。
クラリスは少し考えてから
「……私ね」
クラリスはゆっくりと話し始めた。
「本当は、違う道を目指していたの」
エリスは黙って聞いている。
母の声は穏やかだったが、
どこか遠くを見ているようでもあった。
「若い頃は、町を出て学びたかった
祈りの道でも、戦いの道でもない
もっと普通の……穏やかな生き方をしたかったの」
だが、と続ける。
「それは叶わなかった」
家の事情。
病。
貧しさ。
理由はいくつもあった。
「気づけば、選択肢はひとつしか残っていなかった」
冒険者になること。
それは夢ではなく、
生きるための手段だった。
「最初は怖かったわ
剣なんて触ったこともなかったもの」
それでも、やるしかなかった。
「必死だったの」
魔物を前にして震えながら、
剣を握った。
「何度も逃げたくなった」
だが逃げれば、
その先にあるのは“何もない未来”だった。
「だから戦った」
その声は静かだった。
しかし確かな強さがあった。
「気づいたらね
剣士として名前を知られるようになっていたの」
それは誇らしさではなく、
少しだけ苦笑を含んだ言葉だった。
「たくさんの魔物を倒したわ
守るために
生きるために」
そして。
「……でもね」
クラリスはエリスを見る。
「本当に大切なことは
戦うことじゃなかった
どう生きるかだったの」
その言葉は、重くも優しかった。
「だから私は、戦いの世界を離れた
普通の人生を選んだの」
そう言って微笑む。
「そして今がある」
エリスはしばらく何も言えなかった。
自分の知っている母の姿と、
今聞いた過去が結びつかない。
だが。
そのどちらも、本物だった。
「……強いんだね」
小さく呟く。
クラリスは首を振った。
「違うわ
ただ、生きただけよ」
そう言って優しく微笑んだ
そして
「……今日はもう疲れたでしょう」
クラリスはそう言うと、そっと立ち上がった。
「続きはまた今度にしましょう」
優しく微笑み、扉へ向かう。
「おやすみ、エリス」
静かに扉が閉まった。
部屋に残されたのは、微かな灯りと夜の静けさだけだった。
エリスはしばらく動かなかった。
母の言葉が、頭の中でゆっくりと巡っている。
冒険者。
その響きは、今までの自分には遠いものだった。
危険な世界。
町の外。
見たことのない景色。
(……私にも、できるのかな)
自分の手を見つめる。
この手には、力がある。
それは知っている。
だが、その力をどう使うのかは、まだ分からない。
神官にはなれない。
ならば——
別の道を探すしかない。
「……運命って、何なんだろう」
誰に聞くでもなく、呟く。
答えは、どこにもなかった。
やがて、思考はゆっくりと途切れていく。
疲れが、一気に押し寄せた。
ベッドに身を沈める。
目を閉じると、遠い景色のように未来がぼやける。
そのまま、静かに眠りへと落ちていった。
——その様子を、見つめる影があった。
遥か上方。
光に満ちた世界。
二つの存在が、静かに下界を見ている。
「導かれ始めたわね」
アテナが小さく呟いた。
その声には、安堵と不安が混じっている。
「ええ」
セレネは静かに頷く。
「これは必然です
彼女は、境界に立つ者ですから」
光が微かに揺れる。
「……今回は」
アテナが続ける。
「違う未来になるかしら」
セレネはすぐには答えなかった。
ただ、眠る少女を見つめ続ける。
「未来は固定されていません」
やがて、そう言った。
「だからこそ、見守る価値があるのです」
星々が静かに瞬いている。
少女はまだ知らない。
その歩みが、世界の行く末を変えることを。
最後まで読んで頂きありがとうございます
次回の更新は4月1日18時を予定してます




