職業調査
昭和二十一年七月上旬
”ウクライナ”へ入ったとロスケに言われて高い窓から外を見た。
麦畑が延々と続いている。また、ひまわりの畑も三キロ、五キロと続いている。日本では想像も出来ない程大きな畑だ。
草原には牛や羊も見える。大小ある多くの鉄橋は殆ど破壊されており、今走っているのは全部仮橋である。
昭和二十一年八月七日
ウクライナ共和国のスラビヤンスクで降りることになった。ポセットを出てから丁度一ヶ月振りである。
バラ線(鉄条網)三十五本も使い、猫の子も出られない様な柵で囲んだ収容所へ入った。
”滅菌が済むまで建物内に入るな"といわれ今夜は収容所内の草の上で寝ることになった。
昭和二十一年八月八日
興南にいた頃登録した職業票により、農業の経験者百名がコルホーズ(集団農場)へ行くことになり、ここから十四キロ程の地点にあるというクレンテツシュウへ向い出発した。
入隊するまで満州の開拓団にいたという佐藤上等兵も、喰いっぱぐれが無いから、と嬉しそうな顔をして行ってしまった。
昭和二十一年八月九日
今後永い間ラポート(労働)に従事するため、各人の特技を調査するから、本当のことをいうようにと通訳から話があった。
「職業を何とするか?」馬詰上等兵と相談の結果、「兎に角喰いっぱぐれの無い職にしょう」と、二人でコックの経験者の処へ並んだが、三年の経験では少ないと不合格、次にパン製造業へ行くも不合格となる。経験年数を十年にすれば合格したようであるが、ズブの素人が責任を持たされても困ると思い、三年と言ったのがいけなかった。
そのあと洋服屋、鉄道員、仕上工と巡り歩いたが、人数が多過ぎるといわれて、結局その他大勢の仲間へ入った。
昭和二十一年八月十一日
全員広場へ集合。ソ連軍将校が数名来て、少佐から訓示らしい話があったが、
チンプンカンプンでさっぱり判らない。通訳によると、
”日本の同志諸君!!明日から君等に労働をして貰う。我等の共産主義ソビエト連邦共和国は労働の国である。働かざる者喰うべからずの国である。
この言葉を良く覚えて絶対に忘れるな.仕事をしない者には食事を与えない。
一人前以上働いた者には,それ相当の給与をする。
ハラショー ラボート(好く働く)の者には、金もやる、大きなパンをやる。日本への手紙も書かせるから一生懸命働くように“
続いて水谷大尉の話
「今聞いたように、いよいよ明日から皆にラポートに行って貰はなければならぬようになってしまったが、いま少佐が話したことを真に受けて無理をしないように。どんな仕事でも要求された五割か六割やれば結構だ。決して無理するな。
我々の任務はロスケの仕事を多くやることではない。一日も早く健康な身体で、兄弟、妻子の待っている日本へ帰ることである。決して病気などで倒れ、異国の土となるような者が一人も出ないように、各人が充分注意して、皆揃って祖国日本へ帰りたいと思う。御苦労であるが以上のことを忘れずに作業に従事して頂きたい」
言葉が判らないということは、誠に都合のよいこともある。ロスケの将校連中は最後まで笑顔で聞いていた。
昭和二十一年八月十二日
営内作業の者を残して全員が、三十名、五十名、百名と別れて各種の作業場へ向う。
私の第一日目は自動車工場の増築用地の埋立作業であった。駅へ石炭降しに行った者が真黒になり帰って来た。
夕方になり道路工事に行った五百名の者が「ノルマが大きい」とブツブツ言いながら帰って来た。
昭和二十一年八月十三日
八日に農場へ行った百名の増援として、また五十名行くことになった。農場ならば食いっぱぐれはないだろうと思い私は志願した。小隊長は伊丹曹長。馬詰上等兵も同行と決まり同年兵は二人だけとなってしまった。
この五十名の中に、朝鮮の平壌から安岳の日本人救出に行った時、私達の車に乗った教育隊の下士官一名がおり、あの頃を語り合う。
ソ連では収容所へ入る時、出る時は必ず装具検査を行う。夕暮れ近くにクレンテッシュウに到着。元七四部隊の者が三十名近く居た。
昭和二十一年八月十四日
農場とは真赤な嘘で道路工事だ。歩哨の話によれば、ハリコフ経由でモスクワへ行く軍用道路らしい。
収容所は半地下式で電灯もない。ロスケの国は何処まで行っても、蚤と南京虫がいる。
六時朝食、七時出発、四キロ程歩いて現場へ行った。山を崩し谷間の埋立工事だ。
馬詰と二人で荷馬車一台を渡された。私は馬の側へ寄り、あの大きな目と歯を見ただけでも恐しくて手も出せない。新京の馬事公社に居たという馬詰は馬の扱いが上手だから、全部まかせることにした。
ノルマは五立方メートルの土を掘り、二百メートル先の谷を埋める作業であるが、歩哨の不在中に目印の棒を打替えて、今日の作業を終えた。