――①――
その翌日、僕はちゃんと学校へ行った。精神的なダメージを負い、家の中で寝込んでいたい気持ちではあったが、あの綺麗すぎる部屋は逆に僕を落ち着かない気分にさせた。
頭の中がふわふわして、現実感がない。
授業中、先生がチョークで黒板に文字を書き、書かれた内容の意味を説明する。だが、それが脳に入ってこない。しばらくして、説明を終えた先生が誰かを指名した。指名された誰かが立ち上がり、教科書を音読する。
そんな光景を、僕はぼんやりと眺めていた。奇跡的にも、授業中に僕が指名されることは無く、そんなこんなでボーっとしている間に、午前の授業を終えるチャイムが鳴る。
教師の出て行った教室からは、他愛もないお喋りが聞こえてきた。
「おーい並木、生きてるか? 授業終わったぞ」
背後から声がして、僕が振り向く前に、頭を鷲掴みにされた。そのまま上に持ち上げられては振り下ろされ、ぐわんぐわんと脳髄が揺らされる。
「これ、俺が朝起きない時によく姉ちゃんにやられるんだ。眠気が飛ぶだろ? 混ぜるんじゃなくて振るのがコツだ」
「―やっーめっろーってば」
「並木―、何で元気無いんだよー、お前がそんなだと俺が寂しくなっちゃうだろー」
それを何度か繰り返したあと、ようやく手を離した。
僕は乱れた髪を整え、今度こそ振り返る。
切れ長で鋭い目付きに、弓なりにカーブした鼻筋。ニキビの一つも無い真っ白な肌。パーツの一つ一つがとびきりに洗練されていて、その魅力は男の僕にも眩しく見える。
そこには、大量のパンを両手に抱えている僕の友人、染谷亮介が居た。
「並木がぼんやりしている間に昼飯買ってきた。一緒に食おうぜ」
染谷は大量のパンを抱えたまま、腰をくの字に曲げ、両手の平でブイサインを決めた。長身でスタイルが良く、まるでモデルのような体型をしている染谷がやると、ちょっとだけ格好良く見えるから不思議だ。
僕が白けた目を向けていると、染谷はポーズを取るのに飽きたのか、僕の正面へと移動し、大量のパンを滝のように落とした。
机の上でパンが山になる。僕が無造作に、山の頂上にあるパンを手に取ると、薄いラップに包まれたそれには、油性ペンで小さく『山菜パン』と書かれていて、うげぇと苦い顔になる。
「絶対不味いよこれ。なんでこんなもん買ってきたんだよ」
「あ、ドレッシングも買ってきたけど、使うか? ごまと和風、どっちがいい?」
「そういう問題じゃない」
「だってさ、購買の新作だってのにさ、誰も手を出さないんだぜ? そんなの可愛そうじゃん。それに俺は今ダイエットしてるからさ、並木も脳の栄養が足りてないみたいだし、お互い丁度いいと思ったんだ」
どうやら気を使ってくれたらしい。
そういえば、一緒に食おうと言われた僕は、当然のようにパンを手にとっていたけれど、これは染谷がお金を出して買ったものだ。それを分けてくれるのは好意によるものだと言うのに……文句を垂れている僕は何様のつもりでいるのだろう?
「まーた難しいこと考えてるな、顔が怖いったらないぞ」
「……ちょっと自己嫌悪してた。これ、食ってもいいのか?」
「おいおい、俺一人に全部食わせる気かよ。こんなに食えるわけねぇっつーか、今ダイエット中って言ったろ? 三分の二は並木が食え」
「僕、割りと普段から少食なんだけど」
「いいからいいから! 細かいこと気にすんな! 並木は身長百六十センチのチビなんだから、もっと 食って大きくなれ!」
そう言って染谷は、山になったパンを僕の方へと押しやる。
こうして奢ってくれるのは確かに有難いのだが……『ポテトサラダパン』『ピクルスパン』『きゅうりとわかめパン』と、名前が見える角度になっているパンを見ただけで、食欲はガクっと落ちてしまう。それにどうせ、今更いっぱい食べても身長は伸びないし……。
だが、そんな僕の気持ちなどお構いなしに、染谷は形の整った眉をにこりとさせる。
とびきりの笑顔を向けられて、逃げられる筈もない。
こうして僕と染谷はパンを食べ始めた。最初は、「不ッッ味いなーこれ!」と笑ってはしゃいでいたのだが、二個、三個と続けて食べている内に、精神的な余裕がなくなりつつあるのを感じて、以降は殆ど無言になっていた。
染谷も僕と同じ気持ちだったようで、苦い顔をしながら食べ続けている。お互い無言のまま、ただパンを咀嚼する音だけが耳に響く。
そんな拷問のような時間が数分流れて、
「お、このキャロットパンは美味い!」
染谷の顔がぱっと明るくなった。どうやらアタリを引き当てたらしい。
「並木、お前も食ってみろ。多分、この山の中にもう一つくらい残ってる」
染谷の言葉を聞くやいなや、僕は今食べている『なめこパン』を放り出して、すぐさま捜索に取り掛かった。山を崩し、不味そうなパンをかきわけ、奥底で眠っていたキャロットパンを発見する。
僕は歓喜に満ちた表情になっていただろう。ようやくまともな味を堪能できると思うと、喜ばずにはいられなかった。
僕はラッピングを取り払い、大口を開けてパンをかじる。
もぐもぐ、ごくん。
うん……。
確かに不味くはない。それなりに甘くて、人参の風味もパンと合っている。けど、なんか、
「普通の味だな」
僕がぽつりと呟く。
「不味いパンの後で食うと、余計に美味く感じないか?」
「むしろ、不味いパンの後で食ったのに、この程度しか美味く思えないのかと」
確かに不味くはないのだが、苦境を乗り越えた先にあるご褒美がこれというのは、ちょっと肩透かしだろう。
かじったパンを机に置き、ふぅ、と小さく息を吐く。本音を言えば、もう諦めてしまいたかった。こんな不味いパンを大量に食わされて、胃と舌が疲れきっている。しかし染谷は僕を励まそうとしてパンを奢ってくれたのだから、ここで食事を投げ出すことは友人としてはどうかと思う。
だけど、自分でも限界が近づいているのが分かった。
しかし、完食しない訳には……。
僕がこのパン達の処遇に頭を悩ませていると、ふと小さな足音が近づいてくるのが聞こえてくる。その姿が一歩一歩近づいてくるにつれて、僕の心臓が弾けるように跳ね上がる。
染谷より頭一つ低い身長は、女子の平均と比べてかなり高い。スラリと伸びた足が長く、黒いソックスに包まれたその美脚は、男子女子関係なく魅力的に写る。
茶髪のショートカットに整えられた髪に、黒い宝石のような大きな瞳は、大人っぽい外見にそぐわぬ子供らしさを感じさせて、そのギャップがまた魅力的なのだ。
彼女の名前は青山霞。
昨日、僕が告白しようとした女の子だ。
「アンタ達、馬鹿なことやってないでこれで口直ししなさい」
僕はカップを受け取り、中を覗き込む。中身はブラックコーヒーだった。ほんのりと香ばしい香りが、湯気になって僕の鼻先で漂う。僕は礼を言うのも忘れて、コーヒーに口を付けた。
「青山か……余計なお世話だってのによ」
「あら、それじゃ返してもらおっかな、そのコンポタ」
青山さんは意地悪そうな笑みを浮かべて、染谷の顔を見た。染谷はコンポタが好きでよく飲んでいるのを知っているから、断れないと分かっているのだ。
「……交換だ。この中のパン一つやるよ」
染谷は苦渋の表情になり、パンの山を指差す。
それを見た青山さんは、勝ち誇った表情になるわけでもなく、染谷には目もくれず既にパンへと興味を移していた。
「じゃあこれ」
そう言って青山さんが手に取ったのは、もやしパン。
味付けによっては、それなりに美味そうだな。と、なんとなく僕が横目に見ていると、青山さんは、 にっとニヒルな笑みを浮かべて、取ったパンを元の位置に戻した。
そして、別のパンを掴んだ。
「やっぱり、この『きくらげパン』にするね。なんか並木が欲しそうにしてたし」
「あ、いや、別にそんなつもりじゃ」
青山さんは小さな唇を開けてパンを押し込み、ほっぺたをハムスターみたいに頬張らせる。
「やっぱキクラゲはミソラーメンが最高だよねー、何でパンにしちゃったんだろうなー」
ごくりと飲み干し、僕が手に持っていたカップを取り口を付けた。僕は、青山さんがそういう性格だって知っているから、何も言わない。それにまぁ、このコーヒーは元々おごりだし。
最後にタレの着いた親指をペロリと嘗め、ごちそうさま、と小声で呟き、中身が半分になったカップを僕に返した。
「実はあたしも気になってたんだ。今日の並木は元気が無いな~、何かあったのかな~、って」
「でも並木は何も答えてくれないんだ」
「それは染谷の選んだパンが不味すぎるからでしょ。こんなの食べながら真面目な話なんか出来ないって」
「しょーがねーだろ、売れ残りになったら可哀想じゃねぇか」
「アンタはホント、他人に気を使うのが下手すぎる。もうアンタに付き合う並木が可哀想で仕方なかったよ」
「うるせぇ! このデカ女! 食ったパン返せ!」
「あぁん? じゃあアンタもさっき飲んだコンポタ返しなさいよ!」
目から火花を散らし、ギャーギャーと言い争う二人を見る。この二人は仲が良いのか悪いのか、こんな風にくだらないことでよく喧嘩をする。こうなると休み時間が終わるまで続いてしまうこともあり、いつもであれば僕がたしなめて一段落させているのだが……。
今回はいつもと事情が違った。
この争いを止められない僕がいる。
もし止めてしまうと、次は僕が悩みについて話す流れになるだろう。二人はそれを親身に聞いてくれると思うし、一緒になって色々悩んでくれると思う。
僕らは友達だから、友達を助けてやりたいと思うのは当然だから。
僕は制服のポケットに手を入れ、新しく買った携帯を握った。これは、昨日壊れてしまった携帯の代わりになるものだった。
ぶるぶると携帯が震える。僕はポケットから携帯を取り出し、画面を見る。
新着メールアリ、送信者名は――