プロローグ
一五分前、学校の授業を終えた僕は、教科書の入った鞄を掴み、クラスの誰よりも早く教室の外へ出た。
少しでもゆっくりしていると、部活へ行こうとする者や、家に帰ろうとする生徒達で混雑してしまう。僕は誰も居ない廊下を走り抜け、階段を一気に駆け降りる。そうして下駄箱にたどり着くと、一旦足を止めて、辺りを見回した。
しん、と静まり返った雰囲気が、近くに誰も居ないと確信させる。
その瞬間、心臓が破れんばかりの鼓動を始めた。全身の血液が凄まじい勢いで循環し、頬が真っ赤に染め上がる。もしかしたら涙目にもなっていたかもしれない。大きく開いた昇降口からは九月の冷たい空気が入り込み、普段であれば寒さに身を震わせていただろう。だが、全身が火照っている今は心地よくすら感じられた。
大きく息を吸って、小さく吐き出した。冷えた空気が熱い息となって口から漏れ出し、少しだけ気持ちが落ち着く。
僕は鞄を開き、一枚の封筒を取り出した。お目当ての相手の下駄箱の蓋を開くと、使い古されて黒く滲んだスニーカーがある。運動が好きなあの子らしさを感じて、僕は小さく微笑んだ。
スニーカーの上に手紙を載せて、蓋を閉じた。
異性に告白するのは、かなり怖い。
経験豊富な大人なら緊張することもないのだろう。だけど、今から経験を積んで大人になる過程にいる僕等十代からすれば、相当の勇気が必要になる。
恋を経験した者なら、誰しもが告白のリスクリターンについて考えたことがある筈だ。成功すると何事にも代え難い喜びを得られる。だが、失敗してしまうと、今まで通りの友人関係では居られなくなり、これまでに築いてきた関係の全てを失ってしまう。
それが怖いから、自分に脈があると確信を得るまで告白の機会を待つ。というのが一般的な男女の恋愛ではないだろうか?
そんな考えを持つ僕は、今日まで待ち続けた。
僕の恋が始まったのは、二年に進級してすぐのことだ。
クラスが同じになったあの娘が気になるようになり、それが恋だと自覚してからは、気楽に話せるように頑張った。彼女の好きなものを調べ、勉強し、楽しく話題を持ちかけられるよう努めて努力した。
そして現在、彼女の男友達の中で、最も親しいと思われる位置を獲得したのだ。
彼女は、日常の中で起こった些細な出来事を話してくれるようになった。駅前のアイスクリーム屋が美味しかったこと、宿題を忘れて先生に怒られたこと――これらについて話す彼女はとびっきりの笑顔で、あぁ、僕はこの人が好きなんだと実感させられる。
もう、胸の奥で膨らみ続ける恋心を押さえつけるのは限界だった。
絶対に成功すると思えるまで我慢するつもりだったのに、気付けば行動を始めていた。
『あなたの告白は失敗します。今すぐ引き返してください』
突如、携帯に送られてきたメールは、僕の心に矢のごとく突き刺さった。
学校の体育館裏は人気が無く、伸びっぱなしになった雑草が生い茂っていて、いかにも人の手入れが行われていないのが見て取れた。人目につかず、こっそりと告白するには丁度いい場所なのだが……そこで到着を待っていた僕は凍りついた。緊張で荒くなっていた呼吸がピタリと止まり、激しい鼓動を繰り返していた心臓の音が聞こえなくなる。
僕は再度、メールを読み返した。
「あなたの……告白は……失敗します」
内容を小声で呟く、その声が僅かに震えている。
いや、声だけでなく体までもが震えている。そして、僕の恐怖感とは関係なく携帯電話までもが震えだした。どうやら新着メールが届いたらしい。受信画面に切り替わり、電話帳に記載されていないアドレスが表示される。
「誰?」
表示されたのは知らないアドレスだが、先程送られたメールとアドレスが一致していることに気付いた瞬間、僕の親指はメールの中身を開いていた。
『親愛なる並木陽太様
あなたは今、期待と不安を胸に抱きながら、体育館裏で佇んでいることでしょう。
あなたが下駄箱に入れたラブレターは、間違いなく彼女に届いています。後十分もすれば、あなたの想い人、青山霞はやってきます。
ですが、その告白は失敗します。
時間が無いので端的に説明します。青山霞はあなたを異性として全く意識していません。
なので、確実にフラれます。
面識の無い私がこんな事を言ってしまうのはお節介でしかないと承知しています。ですが、それでもわたしは、あなたに傷ついて欲しくない一心でこのメールを送りました。
だからお願いします。ここから逃げてください』
僕は再度メールに目を落とし、内容を反芻する。
僕の名前は並木陽太で合っている。体育館裏で佇んでいるのも正しい。青山霞にラブレターを出し、ここに来るようにお願いしたのも事実だ。つまり、このメールは送信先を間違えた訳ではなく、確実にこの僕へと向けて送られたものだと思われる。
そこには、今から告白しようとしている僕にとって見過ごせない内容が書かれていた。
このメールの送り主によると、どうやら僕は異性として意識されておらず、このまま告白するとフラれてしまうらしい。
突然の横槍を受け、僕の思考は停止していた。
「……」
そのまま動けないでいると、また携帯が震えだす。
新たなメールの着信を認識した僕は、ハッと我を取り戻した。
そうだ、早くここから離れないと。……って、違う。
「お前は誰だ!」
不安げな瞳で辺りを見回すと、また携帯が震える。
『実は私、あなたの携帯の中に住んでいる人工知能なんです。だからあなたの声が聞こえるのも当然なんです』
僕は携帯を投げた。咄嗟の行動だった。硬い音を経てて体育館の壁にぶつかり、雑草の茂みに落下する。
「い、いや、そんなわけ無いか常識的に考えて」
僕は慌てて投げた携帯の下へ駆け寄り、拾い上げる。力いっぱい投げてしまったらしく、液晶画面にヒビが入っていた。これはもう買い換えるしかないだろう。
がっくりと肩を落としていると、また新たなメールが届く。
『すみません冗談です。本気にしないでください』
どうやら液晶が割れただけで、完全に壊れたわけではないらしい。いっそのこと、メールなんて受信出来ないくらいに潰れてくれれば良かったのに、そんな僕の内心を無視して、新たなメールがどんどん送られてくる。
『私は敵ではありません。あなたの味方です』
『私が言っていることは本当です。このままだと、あなたはフラれてしまいます』
『幸いにも、あなたが書いたラブレターには差出人の名前が書かれていません。このまま去ってしまえば、単なるイタズラだと処理され、あなたに悪い印象が向かうこともありません』
『私を信じてください、これは事実なのです。今、青山霞はクラスでのお喋りを終えて教室から出ました。急いでください、早く!』
僕の胸中では、葛藤が嵐のように飛び交っていた。ただでさえ告白とは勇気がいるものなのに、その上余計なプレッシャーを与えられては心に迷いが生じてしまう。
このまま告白をするべきか、それとも逃げるべきか。
胃の奥底から這い上がる恐怖感を感じて、僕の心は折れそうになっていた。
メールの内容を見る限りでは、この人は僕のことをよく知っているみたいだ。こんな風にプレッシャーを掛けられて、平然としていられないと理解しているのだろう。
額に浮かぶ冷や汗を拭い、携帯を凝視する。
『あなたは自分が失敗すると分かっている勝負はしない性格の人です』
うん、その通りだ。認めた瞬間、急激に心が冷め、諦めの気持ちが全身を支配する。
臆病で、気弱で、なさけない僕は走った。
両足を不格好に動かし、その場を後にした。
こうして、告白の機会を自ら投げ捨てた僕は、一握りの罪悪感を胸に抱きながら、帰路に就いた。
今頃、青山さんは一人で体育館裏にいるに違いない。落ち着かない様子で僕が携帯を見ると、そんな気持ちが見透かされたように「青山霞は今離れました」と、経過報告のメールが表示される。
僕は声に出して訪ねた。
「どうして、僕じゃダメだったんだろう」
本来なら、メールに対して当然のように声で返信が出来ることを変だと思うべきだが、今の憔悴しきった頭ではそこまで考えられなかったのだ。
しかし、携帯に返事のメールは来ない。
立ち止まって携帯を見ると、画面が真っ黒になっていて、ボタンを押しても全く反応が無い。
どうやら、今になって壊れてしまったらしい。まるで、今までの出来事が夢みたいだった。夢だったらいいのに、と嘆きたい。
「聞いとけばよかったな、フラれる理由」
ぽつりと呟き、僕は再び歩き出した。
あの後、そのまま家に帰る気にもなれず、壊れた携帯を修理に出そうと携帯ショップへ足を運んだ。だが、僕の携帯を見た店員のお姉さんは「あぁー、ここまで壊れてしまうと修復は難しいですね」と言い、朗らかな笑顔で新作の説明を始めた。僕は携帯に多機能性を求めておらず、電話とメールさえ可能ならそれで十分だと思っていたのだが、「この壊れ方だと修理の方がお高くなりますよ?」と言われてしまい、しぶしぶ新しい携帯を選ぶことになった。
新作コーナーに置かれたオレンジ色の携帯を適当に選び、「お目が高いですねぇ、なんとこの携帯には、新着メールが届くと自動で開いてくれる機能があるんですよ。他にも――」と言うお姉さんの説明を適当に聞き流しながら、契約書の記入を済ませ、代金を支払った。
そうして、買い物を終えてようやく家に帰る。
すると、自室が綺麗に掃除されていた。
「えっ?」
僕の部屋は狭く、そして物が多い。
部屋の奥には勉強机が設置されていて、その左側には自分の背丈以上の本棚があり、右隣にベッドが置かれているのだが、物臭な性格の僕はこれらの家財を有効に使えた試しがない。
机の上には、食べかけのポテチや、飲みかけの缶コーヒーが無造作に置かれ、本棚には過去に 親から買い与えられた読みもしない辞書や図鑑が無造作にねじ込まれている。ベッドの上には衝動買いをした雑誌が開いたまま放置されていた。
そんな汚い部屋だったのだが……本は本棚に綺麗に並べられており、ポテチは輪ゴムで空気が入らないように封がしてあり、缶コーヒーは一つ残らず消え去っていた。
部屋の前で立ち尽くしていた僕は、両目を瞬かせた。だがいつまでもそうしてはいられないので、一歩を踏み出し、部屋の中へと入る。
その瞬間、足の裏に心地のよい感触が広がった。
足下を見ると、ホコリと抜け毛にまみれていた絨毯が、まるで青空の下でさざめく草原のように美しい。その徹底した清掃っぷりに、僕の困惑は更に深まる。
……なんだろう、この違和感。
僕は室内をくまなく見回した。
注意深く見れば見るほど、時間の空いた日にする掃除とは訳が違うと実感させられる。まるで、大晦日の前日にやる大掃除のような手の込みようだ。きらきら輝く窓ガラスに、ホコリの無い網戸等、日頃は全く行わない部分まできっちり磨かれていて、違う部屋に迷い込んでしまったかのような錯覚を受けてしまいそうだ。
「でもまぁ、考えても仕方ないか」
部屋が綺麗になっているのは喜ばしいことだし、理由については後で家族の誰かにでも聞けば分かるだろう。そう思い直した僕は鞄を置き、その中から新しい携帯の入った箱を取り出して開封する。
最初から読む気の無い説明書をベッドの上へ投げ捨て、中から携帯とコード型の充電器を取り出す。充 電器のプラグをコンセントに差込み、コードの反対側にあるコネクターを携帯に刺し、電源を入れた。携帯が起動し、真っ暗だった液晶画面に光が灯る。
事態に気付いたのは、その直後だった。
『私が掃除した部屋はどうですか?』




