1話 その人しか見えなかった
その人は立っていた。
立っていた、というより——
その人しか、見えなかった。
雨が、世界を溶かしていた。
冷たくて、重くて、全部を曖昧にするはずなのに。
どうしてか、あの人だけは、やけに鮮明だった。
……お腹が、空いていた。
何も食べていないのは、昨日からだ。
「シェフを雇った。お前の地味な食事は口に合わん」
男爵家の食卓で、父はそう言った。
「リディア、お前は嫁にもやれない。粗末な食事しか作れないしな」
違う、と思った。
ちゃんと考えて作った。体にいいものを選んで、無駄のないようにして。
でも——誰も食べなかった。
「親子の縁は切る。出ていきなさい。王都で仕事でも探すんだな」
最後に出されたパンは、冷えていて、固かった。
それでも、残さなかった。
残したら、もう——何もなくなる気がして。
気づけば、雨の中を歩いていた。
足は重くて、視界は滲んで、もうどこにいるのかも分からない。
それでも。
その人だけは、はっきり見えた。
「……ずいぶん、ひどい顔をしているな」
低くて、やわらかい声だった。
差し出されたのは、黒い傘と——
温かい、匂い。
「食べろ」
命令のはずなのに、どうしてか、優しかった。
「……いいから。全部食べなさい」
その言い方に、逆らえなかった。
ひとくち、口に入れた瞬間。
ああ、と思った。
こんなふうに、ちゃんと食べていいんだって。
喉の奥が熱くなって、うまく飲み込めない。
それでも、手は止まらなかった。
「……そうだ。それでいい」
満足そうに、彼は微笑んだ。
雨の音が、遠くなる。
視界が、少しだけ明るくなる。
「全部食べなさい」
やさしくて、逃げ場のない声で。
「君はもう——私のものだ」




