研究班への波及
研究棟の会議室には、魔術炉の微かな唸り音が響いていた。空気は熱を帯びているのではない。意見の摩擦が生んだ焦げ臭さだった。
アルノが立ち上がった。眼鏡の奥の瞳には、計算された光がある。
「成果は力だ。使わねば意味がない」
彼は机に置かれた資料束を指で叩く。そこには魂鎖の暫定仕様、魔術共鳴条件、臨界値の観測式——軍部が喉から手が出るほど求めている情報が並んでいた。
「我々が先んじて軍に提示すれば、設備も資金もつく。研究室は拡張され、学生も増える。論文の査読だって最優先だ。現実を見ろよ」
その声音は迫力ではなく、勝算の提示だった。合理的で、抜け目のない未来設計。
だが、対面の席に座るラクシアはあざ笑うように眉をひそめた。
「研究は知の探索。用途は研究者の意図を離れない」
彼女の声は震えていたが、怯えではない。怒りと、守りたい何かの温度だった。
「魂の状態量へ干渉する技術よ? それが軍の手に渡れば、倫理は捨てられる。過去にいくつ文明が滅びたと思っているの?」
アルノは肩をすくめる。議論ではない、価値観の差だと理解していた。
「理想論だよ。使われるか、使われないかじゃない。使われる時に、どの席にいるかが重要だ」
ラクシアの目が鋭く光る。
「あなたは研究者じゃない。統計を操る官僚のつもり?」
その一瞬だけ、アルノの表情が揺らぐ。だが反論の前に——
扉が静かに開いた。
ヴァルディオ元帥は会議室へ入ってきた。質素な軍装。無駄のない歩み。彼の存在が、研究者たちの息の仕方すら変える。
彼は誰も見ない。机の中央へ視線を落としたまま、淡々と告げる。
「研究者は常に選ばない」
静寂が落ちる。
「選ぶのは国家だ」
その言葉は叫びではなく、石碑に刻まれた事実のように響いた。
元帥の手には封蝋付きの文書。魔術刻印が淡く脈動し、研究者たちの視界が不規則に揺らぐ。魂鎖の符号にも似た、脅威的な構造。
彼はそれを机へ置き、説明もなく退室した。
ドアが閉じるとき、音はほとんどなかった。だが、そこから始まった崩壊は耳鳴りのように長く続いた。
残された者たちは互いを見ない。
視線は文書へ向かう者、窓へ逃げる者、ただ目を伏せる者。
信念は剥離し、凝固し、各々の胸裏で別の形へと再結晶していった。
若い研究員の一人が震える声で言う。
「……私たち、どうするんですか?」
答える者はいなかった。
研究班はその瞬間、不可逆的に二重化した。
論文を守ろうとする者と、成果を武器にし出世を望む者。
そして、それぞれが無意識に理解していた。
戻る道は、もう存在しない。




