257話 終幕
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最終話となります。
小屋から聞こえていた音も止み、いつしか空が白み始めても尚、シオは時間を忘れて語り合った。
「……もう、朝か」
レイに甘えるよりも優しく、満腹になった時のように穏やかな声音は、聞く人が聞けば鳥肌が立ってしまうような普段からは考えられないような雰囲気を纏っていたのだが、時が過ぎているのを認識した途端、いつものレイ以外には刺々しい素直さの欠片もない雰囲気に戻して、凝り固まった体を解す。
『――!』
大きな欠伸も一つ加えたところで、小屋の反対側、入口の方から騒がしい声がシオの耳に飛び込んできた。
「朝っぱらから騒々しいな。……ん? この声、どこかで――」
聞き覚えがあるようで無い声に引き寄せられるがまま、シオはふよふよと空を泳いで小屋の反対側へと顔を覗かせる。
これだけの騒ぎにも拘らずレイ達が起きた気配を見せないのは、それだけ及んだ行為によって疲労を感じているとも言える。レイに異性を教え込んだのはシオ――ではなく、グレイ爺。
そもそもシオのような幻想種に生殖行為は存在せず、幻想種が生まれてくる為には龍によって生み出されるか、もしくは濃い竜気の中で自然発生するかのどちらかであった。
正しくは、後者の性質を龍の手によって再現する事によって、龍が幻想種を生み出すことに繋がるため、同じ龍であるシオが竜気の流れの中に存在する幻想種の輪廻、即ち命の流れを視ることが出来るのもこの性質のお陰なのであった。
そんな生殖とは一切関係ないシオの傍で無知なレイが「異性」を知るに至ったのは、全てグレイ爺の影響。幼いレイに対して様々な亜人との女性関係を恥ずかしげもなく赤裸々に語る上、純粋極まるレイが初めて耳にするような言葉に「それは何?」と尋ねるのに対してグレイ爺はこれまた隠すことなく一つ一つ丁寧に教えていった。当然生殖に一切の興味も欠片もないシオやギンにはそれらの単語の羅列を理解する事は難しく、グレイ爺の経験をそのまま引き継いだレイが誕生してしまったのであった。しかし、レイの純真さはグレイ爺でさえも予測を遥かに上回るもので、男であれば垂涎もののヒバリの裸体を前にしても劣情に身を委ねる事など一切無かった。
それがレイの純真故なのか、それとも別の誰かで心の穴を埋めるのに忌避感を抱いていたのかは不明だが、今こうして過去と向き合うことが出来て、システィナと言う一人の女性を受け入れることが出来るまでに成長してくれたのはシオとしても実に喜ばしいものであった。
何しろ、システィナはレイに救われた事を自分の命よりも重く受け止めている。それ故に、システィナは何があってもレイを裏切る事は無い。
レイはこの関係を等しく平等であると受け止めているようだが、システィナがその考えを捨てない限り、二人の間に真の平等は決して訪れない。そして、もし仮にシスティナがその考えを捨てた暁には、どんなにレイから恨まれようともシオがシスティナを捨てる。
とは言え、それらの覚悟を持ってシスティナが事に及んだのは間違いなく、むしろシオは事前に相談すらされていた。
故に、シオとシスティナの関係は保護者公認の関係なのであった。
その為、シオが認めた二人の安眠を守るべく、シオは意気揚々と騒ぎの中心に乗り込もうと近付くと、言い合う二人の会話の内容が鮮明に聞こえてくる。
片方はヒバリの声で、もう片方はと言うと――。
「――ですから、マスターは今お会いできる状態ではないと、何度も申し上げているでしょう」
「――そんなの嘘よ! 昨日だって、その前だって、レイが居るのは知ってるの! お願いだからレイに合わせてよ!! あたしは、あたしは……、レイが帰って来てくれるのを、ずっと待っていたのに……!」
「誰もマスターがここには居ない、貴方に会わせるつもりは無いと言っているわけではありません。ただ、今はタイミングが悪いと言うだけで――」
「前にもそう言われたの……ッ!! あたしは、話がしたいだけなのに、どうして……! こうなったら、グリン!!」
「――きゃう?」
「……っ、暴力に、訴えるのですか」
「こうでもしなきゃ、レイに会わせてくれないんでしょ……ッ!!」
「――っと、そこまでだ。一旦落ち着け、アカリ。久しぶりだな、グリン」
「シオ……っ」
聞こえてくる声に懐古の情が湧いて暫く耳を傾けていただけのシオであったが、声の主が最後の一線を易々と超えようとするのを耳にして仲裁に入らざるを得なくなる。
六年と言う月日がとても長い時間であった事を証明するかのように、記憶に残る早熟な子供とは遥かに見違えた成長を遂げた少女の名は、アカリ。
レイと同じ年の頃で、物覚えがついた頃から何かとレイを気にかけていた女の子。当時は病弱で、畑仕事模した事が無いような細い四肢に真っ白い肌が特徴だったものが、今ではすっかり健康的な顔色と肉付きにまで成長しており、シオはどこか感慨深いものを感じずにはいられない。アカリの成長と同じく、彼女の幻想種「鷲獅子」のグリンもまた大きく成長していた。
成長の証として、逞しい肉体と豪奢な羽、そして立派な鉤爪はその気になればヒバリの肉など容易く引き裂くようなもので、その危険性を知っていながらもヒバリにグリンをけしかけようと言うのは、それだけアカリの精神面が非常に追い込まれているのだと、幾ら時を経ていようともシオには見て取れる。
レイが居なくなった後、彼女がどのようにして暮らしてきたのかは、シオには分からない。
けれども、現れたシオを見て苦々しい表情を見せ、眉を顰めたまま目線を逸らした様子を見て、彼女を覆う現状が察せるものだった。
「きゅいっ!!」
唯一、グリンだけはシオとの再会に目を輝かせ、警戒心の欠片も無く額を擦り付けてくる。
「……おいゲ――ヒバリ。ギンのヤツは何処に行ったんだ? 一緒だっただろ」
「狼さんはヒバリが目を覚ましてすぐに『挨拶でもしてくるか』って言ってどっか行っちゃいました。それよりも蛇さん、この方はマスターのお知り合いですか? 早朝からマスターに会わせろと騒がしくて……」
「……シオ、久しぶりだね。それで、レイは? 小屋の中に居るんでしょう? お願いだから、会わせてくれない? 会って、話がしたいだけなの」
「……悪いが、今のお前には会わせらんねぇな。一回頭冷やしてから――」
アカリの精神状況を客観的視点から見て判断した答えを口にしようとしたシオであったが、全てを言い終わる前にアカリは金切り声を張り上げる。
「シオも、あたしがおかしいって言うのッ!? あたしはただッ、レイと話がしたいって言ってるだけじゃない!! なのに、どうして……! レイだって、あたしと会いたいはず、そうでしょ!? あたしは、レイがもっとずっと小さい頃からレイの事を見てきて、レイの事を全部知ってるの!! レイの傍には、あたしが居てあげなくちゃいけない、あたしが、レイを守ってあげなくちゃいけないのッ!!! あたしなら、レイを幸せにしてあげられるから――」
胸を抑えて叫ぶアカリは、自分でもおかしい事を口にしているのは理解しているのだろう。
本心から思って口にしているのだとすれば、そんな苦しそうな顔で感情の吐露などしないはずだから。
何かきっかけがあって、アカリの中にある歯車がズレた事によって、彼女はずっと抑えていた感情が爆発してしまったのだろう。故に、アカリが吐き出す妄言は全て彼女がひた隠しにしてきた誰にも見せない、見られたくない本心である事は間違いなく、けれどもシオにはそれを止める手立てはない。
そんな中で、アカリに向かって一歩を踏み出したヒバリは歩み出した勢いそのままにアカリに近寄り、勢いよく頬を叩いた。
非力なヒバリとは言え、アカリの視野狭窄具合は相当のもので、突然の平手の衝撃は彼女の正気に戻すには十分すぎるものだった。打たれた頬は赤く腫れあがり、アカリは頬を抑えながらも突然の出来事に目を瞬かせる。
そんなアカリに追い打ちをかけるかの如くヒバリは声高に叫んだ。
「――ならば何故っ、マスターが苦しまなければならないのですか!? 貴方は、誰よりもマスターのお傍に居た、と言いましたね。ならば、何故、マスターは苦しまなければならなかったのですか? 何故、マスターだけが非道い目に逢わなければならなかったのですか? …………マスターが、苦しそうに笑うのを見た事がありますか? マスターが、どれだけ心を押し殺して来たか、分かりますか? ――それも全て、この土地が、この森が、マスターがこの地を離れても尚、マスターの心を摩耗させ続けてきたのです! それを、言うに事欠いて、自分なら守れる、幸せにしてあげられる、ですか……? そういった考えが、風潮が、マスターの心を傷付け、苦しめ続けてきたのがまだ分からないのですか!!!」
それは、激昂。
アカリの頬を叩いた右手が痛みを訴えるのも無視して、ヒバリは思いの丈を叫ぶ。
その思いは、ヒバリがレイと言う唯一の「マスター」に出会った時から感じていた不満。口にしたところで決して解決などしない不満。
そうした不満を抱え続けていたヒバリは、幻想の森に危機が訪れると聞いてささやかながら心が躍ったのも事実。
「貴方のような人が居るから、マスターは――んむぐっ!?」
「――ヒバリ、そこまで」
いっそ無くなってしまえ、とレイの意思に反するような声を上げようとしたその時、ヒバリの口は塞がれ、耳元では甘い声で自分の名が呼ばれたが最後、吊り上がっていた眦も下がって一瞬にして毒気が抜かれてしまう。
それを為した声の主は紛れもなくレイであり、言葉を止めたとは言え、ヒバリの言葉が嬉しかったと言うのは否定せずに受け止めているため、レイの顔はどこか緩んだ表情を浮かべていた。
「出過ぎた真似をしてしまいました、マスター」
「そんな事無いよ。ヒバリの言葉は嬉しかったから。ありがとう」
「もう起きても平気なのか?」
「まだちょっと体が重いけど平気かな? システィナの方がちょっと心配かも……」
「なんだそりゃ」
軽い言葉を交わしながら歩を進め、臭いを確かめにやって来たグリンの頭を撫でながら、レイはアカリに向き直る。
「……久し振りだね、アカリ」
「っ、レイ……。どうして、どうしてあの時――!」
「――場所を、変えようか」
アカリが答えを急ぐかのように身を乗り出すものの、レイはそれを手で制して、優しい声音で移動を促すのであった。
そうして移った先は、いつかの思い出深い小川に掛かる橋。
記憶の再来とも言えるかのように橋の縁に二人並んで腰かける姿は幼き頃からそのまま大人になったような懐かしむ気分に陥るが、隣で俯いたままのアカリはそうではないらしい。
小川と言えども二人並んで腰かけるには十分な幅で、汚れ切った幻想の森とは正反対なまでの清流が流れる橋の下に足を放り出し、レイはグリンと共に戯れるシオの姿を微笑ましく眺めながらも続く沈黙を破ったのはレイの方だった。
「あの小屋。綺麗に保ってくれていたのは、アカリでしょ。ありがとね」
「……なんで、分かるの」
「分かるよ、それは。だって、小物の置き方とかがアカリの部屋と一緒だったもん」
「っ、そう言う、ところが……!」
「なんだかこうしていると、昔の僕とアカリが逆になったみたいだね。あの頃は、僕が落ち込んでいると、いつもアカリが慰めてくれたからさ。……僕は今、アカリの事慰められてる?」
レイの言葉に、アカリは下唇を噛む。
こんな再会を望んでいた訳じゃない、本当は成長した姿を見てもらいたかった――等々。精一杯のお洒落も、絶世の美女たるヒバリを前にしてから自信も失せて、ただひたすらに自分の汚い部分だけを晒してしまった自分が、そのレイに慰められているという図は何を以てしても惨めでしかなく、それでも優しさを向けてくれるレイに、アカリは縋る他無かった。
「――あたしは、レイの事が好きなのっ! だからお願い、あたしと一緒に、ここに残って……もう、どこにも、行かないで……!!」
縋るアカリを前にレイは一瞬驚いたように目を瞠ったものの、すぐに困った様子で眉を八の字にしてしまう。
レイは、服を掴むアカリの手を取り、静かに彼女の膝の上に戻すと、静かに言葉を告げる。それはアカリにとって最も聞きたくは無かった言葉であり、最も聞かなければならない言葉であった。
「……ごめん。アカリの気持ちには、応えられない。アカリは今、僕に救いを求めているんだと思う。それはきっと、好意に繋がる理解とか、そう言った感情からはかけ離れたものだ」
「そんな……そんなこと、ない! あたしは、本当にレイが好きで……!」
「子供の頃からずっと一緒だから、それくらい分かるよ。それに……その目は、本当に好きな人に向ける目じゃない。本当は、アカリだって分かっているんでしょ?」
「……っ、何よ、それ……、じゃあ、レイは今、好きな人が、いるって言うの?」
「うん、いるよ。好きな人も、守りたい人も、家族も。アカリはまず、僕よりも目を向けるべき人がいるはずだよ。だから――」
レイの言う事は、全て的を射ている。
レイが居なくなったあの日から、アカリは妄信かの如くレイの事ばかりを考え、レイがいつか帰ってくると信じて疑わなかった。それを恋だと、愛だと認めなければ気が狂ってしまいかねなかったからこそ、アカリは自分がレイに恋をしていると信じ込むが余り、遂には現実と妄想の区別がつかなくなってしまっていたのだ。
数日前にレイの姿を目視したからではなく、六年前のあの日から、アカリは既に歪んでしまっていて、その歪んだ形のまま、身体だけが大きく成長してしまっているのであった。
レイの言葉にアカリが表情を伏せた後、膝元で固く握られた拳に大粒の涙が落ちていくのを、レイは見ない振りをする。直視してしまえば、レイはアカリの横に並ばなければならなかったから。故にこそ、レイは立ち上がり、愛らしく首を傾げるグリンを一頻り撫で終えてから、二人から遠く離れた場所で心配そうに胸に手をやる人影に視線を移す。
「……お久しぶりです。サオリおばさん」
「生きてて、生きてて良かった……レイ……!」
「あれは、全部僕が勝手にやった事。サオリおばさんが気に病むことは――」
「気に病ませておくれ。アタシはレイが生きていてくれただけで、本当に嬉しいんだから」
「……ありがとうございます。アカリの事、よろしくお願いします」
「辛い役割を任せてばっかりで、ごめんよ。……レイも、ご飯はしっかり食べるんだよ」
「はい」
アカリを矯正するのは、レイの役割ではない。
ずっと彼女を見て来た人が、本当の意味で彼女を救ってくれる人に任せるべきであると考え、レイはアカリを置いてシオと共に去り行く。
そうして歩く先で待っていたのは、寝起きで微睡む表情を見せるシスティナと、どうしてか興奮気味のヒバリ。
「マスター! ご無事でしたか!」
「うん、大丈夫」
「無理はするなよ、レイ」
「ん……!」
差し出されたシスティナの手を取るレイは、シオとヒバリを伴いながら道を歩く。
それは未来への旅路でもあり、向かう先は時の安寧が眠る収束地。
この先、人工生命体の秘密が眠る神秘学会と渡り合ったとしても、帝国と言う新たな世界との出会いがあったとしても、セリカの復讐が果たされようとも、システィナの本人でさえも知らない秘密が暴かれようとも、この四人は決して離れる事は無い。
そんな揺るがない確信を持って、レイは歩みを進めるのであった。
ブクマ、評価等ありがとうございます。
これにて「龍の腕は世界を抱く」最終話となりました。
凡そ一年と二ヶ月余り、拙い文章ながらも書き続けて来られたのは他でもない読者の皆様のおかげです。本当にありがとうございました。
最後にアカリとの話だけは書いておかねば、と思い、エピローグも兼ねて書かせていただきました。アカリの恋心はよくある勘違い。そもそも恋愛感情と言うのもの自体、勘違いのようなものなのですが。
――おいおいちょっと待てよ、と申されるかもしれませんがその通りですね。
キリが良いようで悪い、広げた風呂敷はそのままでの完結と至りましたが、作者個人としては満足いっていますのであしからず。
最後の方にちょろっと書いたようなことをこの後も続けていこうかと思っていたのですが、これ以上だらだら書き続けるのもどうかと思い、ここで終わりとさせていただきました。
繰り返しになりますが、読者の皆様の応援無くしてはそもそもここまで続けられてはいなかったかもしれません。本当に、ありがとうございました。
また次回作でもお会いできるのを楽しみにしております。
次回作や更新などのお知らせについてはTwitterの方、「@Cli__one__SA」で呟くかもしれません。嘘です。競馬で負けた話しかしていないかもしれません。




