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一诺は手当てを受ける



 学校から自室へと帰って来たナージャは、ベッドに倒れ込む事すらせず部屋の中央で佇みながら溜め息を吐いていた。


 ……これは、相当に疲弊しているな。


 無理も無い、と一诺(イーヌオ)は思う。

 何せつい先程、刺客の襲撃があったばかり。分家当主が送って来たのだろうチンピラはすぐさま一诺(イーヌオ)が叩きのめしたが、だからといって心労が無いわけではないだろう。

 無事だから心に負担が無い、なんてイコールにはならないのだ。


 ……無事であろうとそうでなかろうと、襲撃されたという事実だけで酷い不安を抱くのが当然(ダンラン)


 普段のナージャであれば疲労のあまりベッドに倒れ込むだろう。

 しかしそれもせず佇みながら溜め息を吐きぼんやりしているという事は、回復の為に眠る事すら拒絶しているという事。限界を超え、回復が必要だという危険信号すらも作動しなくなっている可能性が高い。


「大丈夫ですか、ナージャ様。顔色が優れませんが……」

「あ、えと、大丈夫、です」


 一诺(イーヌオ)の言葉に、ナージャはパッと笑みを浮かべる。

 それはとても控えめな、けれど確かな笑みだった。困っている時に笑う以外わからず結果浮かべている苦笑では無く、本当に控えめな笑み。しかしそれが本当の笑みではない事くらい、即座にわかった。

 無機質で温度が無いその笑みは、明らかに作り笑顔だったから。


 ……これは、俺の質問が間違いだったな。


 大丈夫ですかと問えば、大丈夫ですとしか返さないのがナージャである。

 一诺(イーヌオ)はそれをよく知っている。ナージャは心配をかけさせたくない、心配をかけさせるのは悪である、と思っているタイプ。故に自分の不調を隠す。

 それは己の弱点を見せたがらない野生の獣染みた一诺(イーヌオ)とは違い、迷惑を掛けたくないという感情から来る自己犠牲の精神だ。

 自分の本音を殺してまで誰かに迷惑を掛けないようになどしなくて良いのに、と一诺(イーヌオ)は思う。


 ……せめて、俺相手の時だけでも。


「……大丈夫ですかと言った私が言うのもなんですが」

「?」


 一诺(イーヌオ)はきょとんとしているナージャの頬に手を添え、疲労が出ている目の下あたりを親指でさするように撫でる。


「無理をしないでください」


 ……本当に俺が言うのも何だが、こう言わなくてはきっとナージャ様には伝わらない。


 ナージャはとにかく我慢をしようとする癖がある。

 その為ハッキリと「あなたが我慢する事など望みません」と言わないと、我慢を止めてくれないのだ。もっともそれを主張さえすればそうなんだと納得するので、再び似たような状況になった時比較的我慢のレベルは軽減されていたりする。

 ただし比較的というレベルなので、何度も何度も根気よくそれを伝えないと中々甘えてはくれないが。


 ……十年以上かけてどうにか俺に甘えるという事を教える事は出来たが、それでも心労があればある程自分だけで背負い込もうとするのが困りものだ。


 一诺(イーヌオ)は内心そう思い溜め息を吐く。

 ナージャの心に余裕がある時は可愛らしい笑顔で甘えてくれる事もあるが、心労が募った時こそ頼って欲しいというのにそういう時だけはやたら強情に自分だけでどうにかしようとする。心労の分だけ頑なになるのであれはとても困ってしまう。

 心労の原因の八割以上があの特待生だと思うと、あの女が原因でナージャが甘えてくれないという式が完成し、一诺(イーヌオ)の中でまたリーリカへの嫌悪が膨らむという悪循環。

 もっとも一诺(イーヌオ)としてはリーリカに対しほんの少しでも良い感情を抱きたいとはまったくもって思っていないので、悪循環で嫌悪が膨らむ方がマシだったりもする。


 ……勿論嫌悪と偏見だけで判断しては苛立たしい正論でそこを突かれる可能性があるからこそ、あの女の情報を集める事で正当に評価しているつもりではあるが……。


 それはそれ。

 良い面を知ろうが悪い面を知ろうが生理的に無理な相手は無理でしかない。それで印象が上を向くという事も無い。マイナス20がマイナス19になったりもしない。

 誰だって生理的嫌悪感しか感じる事の出来ない害虫相手に、ほんの少しでも好意を抱くなどは出来ないだろう。

 つまりはそれとおんなじだ。想像するだけで吐き気を催す程の嫌悪。罪を犯していなかろうが存在している事自体が許せない程に嫌悪の対象。それが一诺(イーヌオ)から見たリーリカであり、リーリカから見た一诺(イーヌオ)もまた同じだろうと一诺(イーヌオ)は思う。

 それは間違い無く事実であったし、お互いにそうじゃない方が気持ち悪いくらいだと思っていた。

 誰だって、嫌悪の対象である害虫にほんの少しでも好かれたいなどとは思うまい。寧ろ嫌って距離を取ってくれる方が幸いだと思うのは、世の摂理と言っても良いくらいの真理である。


 ……ああまったく、あの女もあの豚も、ナージャ様に害を為す何もかもが不愉快極まりない。


 ナージャの心から安寧を奪う奴らに殺意に限りなく近い敵意と嫌悪を抱きながら、一诺(イーヌオ)は言う。


「襲われ、誘拐されかけたのです。私が撃退しましたが、それでも恐怖はあったでしょう。よくある事だとか、慣れたとか、心配を掛けたくないとか、そんな事は思わないでください」


 ……俺はそんな事をナージャ様に思わせたくは、無い。


「あんなもの、慣れない方が良いものです」


 無い方が良いもの。


「慣れてはいけないものなんです」


 普通ならそんな経験だって、あるはずがないだろうに。


「怖かったら怖かったで良いんです」


 ……それを仕方ない事だと受け入れて、耐えようとなんてしないでくれ。


「どうか無理をしないでほしい」


 一诺(イーヌオ)はナージャの肩に手を置き、知らず知らず頭を垂れながらそう言った。そう祈り、懇願した。

 どうかこの願いを聞き届けてくれと、まるで神に祈るように。


「……私はあなたに無理をさせたくはないし、あなたが無理をしなくて良い人間でありたい」


 ……あなたが心を許せる相手であり、我慢する姿を見せなくて良い存在でありたい。


 そんなものにはなれないとわかっているけれど。

 頑張ったって教えたって、ナージャは一诺(イーヌオ)に全力で頼り甘えたりしてはくれない。十年以上の年月を費やそうとも、だ。

 その理由は単純明快で、一诺(イーヌオ)自身が全てをさらけ出していないからだろう。

 一诺(イーヌオ)はナージャに隠している事が多い。かつて刺客で、今でこそ裏切ったものの表面上はまだ刺客であり続けている事。ナージャに対し許されてはならない恋心を抱いている事。頼るのは自分だけであれば良いのにというほの暗い感情を抱いている事。

 それらを、一诺(イーヌオ)は隠している。

 本音を言ってくれと言う人間が本音を隠していたとして、そんな相手に誰が本音で話すというのか。弱みを見せようとしない相手に誰が弱みを見せるというのか。

 頼って欲しいと願う気持ちに相反するように、一诺(イーヌオ)の心は常にその願いは叶わないと断じていた。

 だって自分ならそんな信用ならない人間に本音を語るなどあり得ないから。客観的に見て自分がどれだけ信用ならないかわかるから。

 故にこそ一诺(イーヌオ)は、いつだって自問自答のように己の気持ちを己の中にある正論で殺していた。


一诺(イーヌオ)


 その声に一诺(イーヌオ)の中にあった己同士の潰し合いが止まる。

 次に頬へとナージャのその白くたおやかな手が伸びてきて、答えなど無い自問自答が一瞬にして白紙になった。下から上へとなぞるようにしてナージャの白魚のような指が一诺(イーヌオ)の頬に触れ、無意識の内にその動きに誘導された一诺(イーヌオ)は顔を上げた。


「私は一诺(イーヌオ)が守ってくれるから、無事でした」


 ナージャはその青い瞳に一诺(イーヌオ)を映し、真っ直ぐに言う。


「確かに怖い思いはしましたけど、一诺(イーヌオ)がそばに居てくれれば私は何も心配しなくて良いんです。一人になったら、その、ちょっとは思い出して色々考えちゃうかもしれませんが」


 むぐ、とナージャは一瞬言葉に詰まるも、それでも続ける。


一诺(イーヌオ)がそばに居てくれれば、私は怖いとか怖かったとか、そういう事を考えなくて良いんです」


 ナージャはへにゃりとした笑みを浮かべた。


一诺(イーヌオ)なら絶対に私を守ってくれるって、わかってますから」

「は」


 それは、絶対の信頼。

 信用だの何だのとうだうだ悩んでいた一诺(イーヌオ)が馬鹿みたいで、酷くちっぽけに思える程に大きな気持ち。信じる理由だの信用ならない部分だの、そんなものは関係無かった。

 ただ信じるという、絶対的な信頼から発生する事実があるだけ。


 ……あなたは、俺を信じてくれるのか。


 祈り、それでも自分で無理だと断じたもの。けれどその祈りは届き、受け入れられ、応えて貰えた。それ以上に嬉しい事があるだろうかと思う程に、嬉しい。

 胸の奥が熱くて、ぽわぽわして、マシュマロを溶かして混ぜた生クリームの海が胸の中に詰まっているような、胃もたれしそうな程の優しく柔らかい甘さに包まれているような心地だった。


「と、いうか、それよりも!」

「はい!?」


 しかし突然の大声にその熱はどこかへと飛んでいき、慌てて距離を取ろうとした一诺(イーヌオ)の肩にナージャの手が置かれる。

 否、置かれるという感じでもない。それはなんというか、逃がしはしないと強く掴むような感じだった。擬音で言うならガッと掴むような、という表現になるだろう。


 ……う。


 珍しく怒っているかのように眉を顰めているナージャの親指が、一诺(イーヌオ)の左肩をぐりりと抉るように押し付けられる。その位置は丁度今日の刺客により攻撃された部分であり、先程からとても地味に痛いような痛く無いような感覚を訴えていた箇所。

 正直言って押さなければ痛みは無い、という程度の感覚だが、それでも押されれば当然のように痛みはあった。


「……一诺(イーヌオ)、怪我してますよね」

「………………」


 押された時ですら表情を変えたつもりは無かった一诺(イーヌオ)は、上目遣いなのに不機嫌そうに睨んでくるナージャから目を逸らした。

 不機嫌そうなのも、それを一诺(イーヌオ)に向けて来るのも珍しい。どころか一诺(イーヌオ)にそういった感情を向けたのは初めてと言っても過言では無いくらいだろう。睨むようなその目はナージャの性格からしてあり得ない表情なので、そんな顔を向けられたという怯えと共にこんなナージャを知っているのは自分だけだとついドキドキしそうになり、不謹慎過ぎる己にまたもや自己嫌悪の波が襲ってくる。

 一诺(イーヌオ)の情緒は日常的に荒波だった。


「……お気づきでしたか」


 ……まさか、気付かれるとは。


 隠せていると思ったし、気にする程の痛みでも無い。故に報告もせず適当に放置しておけば勝手に治ると思っていたのだ。その程度の怪我を報告し、無駄に心配を掛けさせるなどしたくもないから。

 荒れる情緒の部分に蓋をしつつまともな部分でそう考えていると、ナージャは一诺(イーヌオ)を真っ直ぐに見ながら言う。


「いいえ」


 それはとってもハッキリとした返答だった。


「一诺は隠すのが上手だから、気付いたのは本当についさっきです。私の肩に両手を置く時、左肩をちょっと庇うような動きをしてたから気付けただけで……それが無かったら、気付けなかったかもしれません」


 ……その程度の事で、気付いたのか。


 それに気付くには人間の動作にとても詳しいか、もしくは一诺(イーヌオ)個人の動きを見慣れていないと不可能だろう。

 なのに気付いた。優しそうに見えて人間嫌いであるナージャの事を思えば、人間の動作に詳しいという事は無いだろう。相手の動きを把握する為人間観察をする一诺(イーヌオ)と違い、他人に興味を持たない故にナージャは実の弟の顔すらもまともに覚えていない。

 そんなナージャがわざわざ不特定多数の他人の動作を認識し覚えているかと言えば、確実にノーだ。


 ……つまり、それは。


 それは一诺(イーヌオ)の動きの僅かな誤差にも気付く程一诺(イーヌオ)の事を見ていてくれたという事、なのだろう。そう思うと、一诺(イーヌオ)の腹の中の内臓達が急に活発になったような気がした。

 恐らくは体温が上昇し、活動的になっているのだろう。


「……一诺(イーヌオ)


 ぽつりと呟き、ナージャは申し訳なさそうに一诺(イーヌオ)を見上げる。その目は先程の怒っているような睨みでは無く、大変申し訳ないという感情がありありと出ている目になっていた。

 困り眉で、ナージャは言う。


「その、ついぐりってやっちゃいましたけど、ごめんなさい、大丈夫です、か……?」

「軽い打撲程度ですので問題はありませんよ」


 ……恐らく襲撃で心労が募り、感情が不安定なところに俺が負傷したという事実に気付いたせいで感情のコントロールが一時的に効かなくなったのだろうな。


 心配を掛けさせたくなかったが、結果的に心労を重ねさせてしまった事が不甲斐無い。

 そう思いつつ、一诺(イーヌオ)は目を細めた笑みを浮かべる。事実痛みらしい痛みなど無く、大した問題でも無いのだと伝えるように。


「………………」

「?」


 けれど何故か、ナージャは眉間にシワを寄せていた。その目から疑いの感情が読み取れるものの、今のやり取りで何を疑われたのかがわからず一诺(イーヌオ)は首を傾げるしか出来ない。


「……念のために聞きたいんですけど、あの」

「何でしょう」

「手当て、ちゃんとします、よね?」


 一诺(イーヌオ)はニッコリとした笑みを浮かべて無言のまま誤魔化そうとするも、誤魔化されずにじっと視線を向けて来るナージャに負けた。


「…………軽い打撲なので、放置しても問題は無いと思いますが」

「問題です!」


 ナージャはちまちまとした、けれど素早い動きで部屋にある救急箱を取り、ベッドの上へと置いた。何故ベッドの上かと言えばナージャの自室にある家具が中々に足りていないから、だろう。

 椅子は幾つかあるがソファは無く、勉強机やドレッサーはあるが他の机は無い。

 ソファは椅子があれば事足りるし、眠ければベッドで寝るから必要無い。机は勉強机やドレッサーで充分に間に合うし、朝髪を整えるのは一诺(イーヌオ)の仕事だからこそ朝食をその隙に終わらせるというスタイルなのでドレッサーが机代わり。

 故にナージャはベッドに腰掛け、その上に救急箱を置いたのだろうと一诺(イーヌオ)は判断した。


「手当てしますから、ここに座ってください」


 ナージャは一诺(イーヌオ)に視線を向け、ベッドの上をぽすぽす叩いてそう告げる。


「……ナージャ様、まず私の意見を言わせていただきたいのですが」

「どうぞ」

「使用人がベッドに腰掛けるというのは」

「手当ての為ですし、私がお願いして抱き締めてもらう時だって座ってます」

「自分で手当てをする事くらい出来ますので」

一诺(イーヌオ)、別に良いやって言って放置する事多いですよね、自分の怪我」


 真っ直ぐと向けられる、けれど少しばかり責めるような目が痛かった。


 ……確かに何度か放置した事はあったからな……。


 というより、痣になったとしても熱も痛みも特にないなら適当に放置しておけば勝手に治るという感覚なので、きちんと手当てしなくてはと思った事が無い。それなりの怪我ならともかく、この程度は騒ぐ程の事でも無いはずだ。

 もっともそう思いながらも、万が一ナージャの美しい肌に痣が出来たら正気を失うんじゃないかという程に取り乱すという自覚もある為、一诺(イーヌオ)は何も言えないが。


「……ナージャ様の手を煩わせるわけには」

「私を守って、一诺(イーヌオ)が怪我をする事になっちゃったんですよ……!」


 ナージャは俯き、絞り出すような声でそう言いながら膝の上で拳を握っていた。


「私のせいで怪我をさせちゃって、それに、一诺(イーヌオ)、いつも自分の事は二の次で、だから、私、手当ての仕方だってわかってますから、その、手当て、ちゃんと出来ますし、私、が、一诺(イーヌオ)の手当てをしたいんです……!」

「あー…………」


 ……ナージャ様()、か。


 手当てをしないとでは無く、手当て出来るからでも無く、ナージャが手当てをしたいと思ったから手当てをしたい。

 それはイコールで一诺(イーヌオ)の為に何かをしたいという意味に取れる。取ってしまう。そういった意味に取った結果、一诺(イーヌオ)は体温が上昇し何だか体がむずむずするような心地に見舞われた。

 ナージャの方が見れず、思わず顔を逸らしてしまう。


「……湿布を貼るくらいで大丈夫ですので」

「片手で貼るの、大変ですよね」


 絶対に手当てをする、それは譲らない、という強い念。それが何だか嬉しくて、一诺(イーヌオ)はだらしないへらりとした笑みを知らず知らず浮かべていた。


「では、お願いします」

「はい、お願いされました!」


 気合が入っている返事を微笑ましく思いながら、一诺(イーヌオ)はベッドに腰掛けて上着を脱ぐ。


 ……出会った頃のナージャ様を思えば、これほどまでに自分の意思を主張し貫こうとするようになれたのは、とても良い変化だ。


 そう思いつつ一诺(イーヌオ)はベストも脱ぎ、中のシャツをはだけて左肩を露出させた。流石にナージャの部屋で、ナージャのベッドの上で、ナージャの前で上半身裸になるのはアウトと思っての判断だ。

 何せこちらはとっくに三十路直前なので。


 ……やはり痣になってるな。


 位置からして、間違い無く刺客がそこらにあった鉄の棒を振りかぶった際の怪我だろう。

 誘拐目的だろうにナージャに向かって鉄の棒を、それも魔法で威力を強化した鉄の棒を振りかぶるとは。随分と頭が足りない虫けらを手配したものだと思い、分家当主に対する苛立ちが募る。あちらからすればナージャの家が重要なのであってナージャ自身にはまったく興味が無いのかもしれないが、それでも許せるはずはない。

 そも誘拐だけでも許せないというのに、挙句ろくでも無い輩を手配し最悪ナージャの命を危険に晒すなど。


 ……奶奶(ナイナイ)が教えてくれた通りに攻撃を受ける瞬間筋肉を固めて防御したが、それでも軽度の打撲になったという事は……。


 万が一あれがナージャに当たっていれば、最悪本当に命の危険があったかもしれないという事。

 そう思うと、本当に一诺(イーヌオ)が咄嗟に盾になれて良かった。盾として間に合い、あの攻撃をナージャに直撃させずに済んだというのは素晴らしい幸運と言えるだろう。

 命の危険がある攻撃からナージャを守れたと思えば、この痣も何だか誇らしく思えるような気がした。


「打撲にはひんやりする方の湿布、ですよね」


 けれどナージャはそうは思わないのか、見るだけで痛そうな表情をしながら救急箱から湿布を取り出す。


「よくご存知で」

「えへ、一诺が前に教えてくれましたから」


 それでもへにゃりと微笑むところが、愛らしい。


「……!」


 そう思っていると、ナージャはふと気付いたように眉を上げた。


「ナージャ様?」

「ちょっと、失礼します」


 ナージャは四つん這いになるようにして一诺(イーヌオ)との距離を縮め、当然のように、とても自然な動きで一诺(イーヌオ)の左肩にある痣にキスを落とした。


「っ!?」


 理解出来ず驚愕し、遅れて理解がやってきて全身を熱がぐるぐると巡り出す。


「な、なっ!?」


 何をしているのですかナージャ様、と言いたかったような気がする。けれど頭の中は纏まらなくて、舌も回らなくて、本当にそう言いたかったかすらもわからない。

 対するナージャはキスを落とした痣に、痛みを与えない程度の力で触れながらしょんぼりと肩を落とす。


「…………やっぱり、あんまり治りませんね」


 言って、ナージャはその痣に湿布を貼った。


「すみません、一诺(イーヌオ)。私が治癒魔法を得意としていれば、もうちょっと良い結果が出たかもしれなかったのに……」

「あ、ああ、成る程、治癒魔法でしたか……」


 ……確かに治癒魔法は口付けで発動する方が効果が高まると言うから、治癒魔法の際そこに口付ける事が多いのも事実だが……。


 寝ているナージャの額や手首に勝手に口付けを落とした事はある。慌てていたせいで起きているナージャの額に口付けを落とした事もある。けれど、ナージャからされた事は無かった。治癒魔法の為とはいえ、恋をしている一诺(イーヌオ)からすればただの治癒魔法とは受け取れない。

 それは治癒魔法兼ナージャからの口付けと受け取り、一诺(イーヌオ)は先程の光景を脳裏に可能な限り焼き付けながらシャツを着直した。


「……湿布を貼ってくださっただけでも充分過ぎる程だというのに、治癒魔法までしてくださったのです。既に身に余る程ですよ。これ以上は体が持ちません」

「でも…………」


 ナージャは何かを言おうとして、けれど一诺(イーヌオ)の表情から体が持たないというのが本心からの言葉だと察したのか言おうとした言葉を飲み込み、うんと頷く。


「……でも、これからはもう少し、自分の身を大事にしてくださいね」


 背の高さによる必然的な上目遣いで、ナージャは言う。


「私へ向かって来た攻撃から庇ってくれたのは助かりましたし、守ってくれたのは嬉しいですけど、それで一诺(イーヌオ)が怪我をするのは、悲しいです」


 ……ん?


 襲撃で怪我をしたまでは知られただろうが、ナージャに向かっていた攻撃から庇った際に怪我をしたとまでは言っていないはずだ。なのに何故知られているのかと一诺(イーヌオ)は首を傾げる。


「…………どのタイミングでの怪我か、わかったんですか?私は言っていませんし、最初怪我にも気付いていなかったなら……」


 気付く理由は無いはずなのに。


「思い出せば、怪我をしていそうなタイミングはわかります。他の人なら会話も顔も碌に覚えてませんけど、ほかならぬ一诺の事なんですから」

「……な、成る、程」

「?」


 一诺(イーヌオ)は思わず口元を手で押さえていた。ナージャの言葉を要約すれば一诺(イーヌオ)はナージャにとっての特別だと言われたも同然で、それがとても嬉しくて、口が変なにやけ方をしている気がしたから。

 目を伏せて思考を巡らせる事で浮き立つ気持ちをどうにか抑え込み、一诺(イーヌオ)は言う。


「ですが、あの時は庇う以外にありませんでしたから」

「ありましたよ」

「え」


 ナージャはその青い瞳で、とても真っ直ぐに一诺(イーヌオ)の事を見つめていた。


「その、確かに私は戦ったりとかは、申し訳ない事に無理ですけど。立場的にも私に怪我をさせないようにっていうのもあるのは、うん、わかってます。でもあの時、私を抱えて逃げるとか、そういう隙はあったと思うんです」

「…………成る程」


 ……恍然大悟(フゥァンレンダンウー)


 とにかく迎撃し叩きのめさなくてはという思考があった為、逃げるという発想はとても新しい考えだった。まるで凝り固まって曇っていたガラスが磨かれ、向こう側が見えるようになったかのよう。


「確かに、そういう手段がありましたね。どうせ家はとっくに割れているでしょうから、逃げ込めば良いという手もありましたか」


 迎撃理由には家を割らせないように、という理由もあった。


「家が割れると厄介だ。相手はいつでも襲撃出来るのにこちらはいつ襲撃が来るかと怯える事になってしまう。更に攻撃を避けようとすれば、こちらが金を出して引っ越す必要が出てしまう。金が無ければ怯えるしかなく、金があっても無駄になる。持ち家ならば悲惨極まりない。故に、まともに会話も通じないような輩が相手の場合、即座に叩き潰すか確実に撒け。家を知られれば終わりと思え」


 ……奶奶(ナイナイ)の言葉はもっともだと思っていたが、今思うと奶奶(ナイナイ)は何者だったんだろうか。


 今もその言葉はごもっともだと思うが、護身術として教えてくれた技術も技術なので一般人とは思い辛い。


 ……だが、少なくとも俺を育て、俺に色々な事を教えてくれた奶奶(ナイナイ)は優しく素敵な奶奶(ナイナイ)だった。


 ならば別に、それ以上を知りたがる必要も無い。沢山を教えてくれた素敵な祖母だという事を覚えていれば、それが一诺(イーヌオ)の中にある事実。それが一诺(イーヌオ)の祖母なのだから、何も変化などありはしない。

 そう思いつつ、一诺(イーヌオ)は考える。


「ここなら手が増える分こちらの有利にもなるし、ナージャ様が傷つく可能性も格段に減る……」


 家が割れているなら逃げ込んだ方が楽に思えた。

 ナージャを自室に送り届ければあとは迎撃に専念が可能であり、ナージャもまた不安な中邪魔にならないよう動かないようにと心をすり減らす事も無い。そして警備員などが居る以上、一人で迎撃する必要もなくなる。

 正直言って、その方が効率的にも良い気がした。


「わかりました、次からは出来るだけ逃げる事にします。事実応戦していては、どうしてもナージャ様を守るという行為に隙が出来てしまいますからね」

「わかってないです」

「へ、ぇっ!?」


 拗ねたようにナージャは頬を膨らませ、一诺(イーヌオ)の胸へともたれ掛かった。俯き気味なのでその表情は一诺(イーヌオ)の視点からでは窺いにくいが、それでも不機嫌そうに頬を膨らませているのはわかる。

 その子供らしい仕草はナージャがまったくしてこなかった動作で、そういった行為が出来るだけの余裕が出来たのかと思うと嬉しくなる。


 ……ち、ちか、近い……!


 もっとも嬉しく思えるのは冷静な部分だけで、大半の感情は好きな人に密着された動揺でドッキンドッキン騒ぐ心臓の脈動に搔き乱されていた。

 三十路直前でありながら思春期ボーイのような反応だが、事実一诺(イーヌオ)は思春期ボーイのようなものなので致し方ない。何せ幼少期に分家に行ってしまってから、無理矢理聞き分けの良い大人になったようなものなのだ。

 一诺(イーヌオ)の時間が再び流れ出したのは、ナージャに出会ってから。

 必然的に一诺(イーヌオ)の内面は、恋にドギマギする少年らしさを備えていた。とはいえそこに悪循環系自己否定ネガティブがある為、感情の荒波が発生して情緒が酷く大変な事になりがちなのだが。


「な、ナージャ様、今の私はその、湿布のせいで臭いと思いますし」

「知りません」


 拗ねたような声で、ナージャは打撲している部分には触れないようにしながら一诺(イーヌオ)の胸に頭をぐりぐりと押し付けて来る。それは小動物が甘えようとしている仕草のようで、愛らしくて。


 ……どうか、聞こえていませんように。


 耳元に心臓があるんじゃないかと思う程、心臓がやかましい。

 胸に頭を押し付けられている今、ナージャに心音がバレてしまう可能性が高い。芋づる式にナージャへの想いがバレてしまうのではないかと思うとトキメキに不安が入り混じり、思わず信じてもいない神に祈らざるを得なかった。一诺(イーヌオ)が神のようだと思い信仰しているのはナージャだというのに。

 キリキリカチャカチャ。

 時計の歯車がやかましい。けれどその音に紛れているのか、ナージャは一诺(イーヌオ)の騒がしい心音には気付いていないようだった。

 それに安堵を抱くと共にそれが何だか寂しくもあり、何とも不思議な感覚がある。


「これはお仕置きですからね」

「お仕置き……ですか」

「怪我をしてるのに隠そうとしたり、放置しようとしたお仕置きです」

「はあ……」


 ……これはお仕置きというよりも、ご褒美に思えるが……。


 お仕置きのようなご褒美に一诺(イーヌオ)は一瞬疑問符を浮かべるも、ナージャからすればこれがお仕置きなのだろうと理解した。


 ……このようなものがお仕置きだと言うナージャ様を愛らしいと思えば良いのか、はたまた、密着する事がナージャ様にとってのお仕置きに等しいものなのか……。


 どちらなのだろう、と一诺(イーヌオ)は思う。

 前者であればにやけそうになる顔を必死に抑え込みながら満喫するだけ。しかし後者であれば、色々と複雑な気持ちを抱いてしまう。

 とはいえどれだけ考えようと、聞く気が無い以上どちらでも変わりはしないのだが。


一诺(イーヌオ)はもっと、自分を大事にしてください」


 ……それは、こちらのセリフだな。


 一诺(イーヌオ)は思わず苦笑した。


「……それなら、ナージャ様ももっとご自分を大事にしてください」

「私はちゃんとしてますよ」


 ……うーむ。


 幼少期を思えば確かに当時よりもずっと大事に出来ているが、それでも当時に比べて、だ。

 一诺(イーヌオ)はまだ自己犠牲が強いナージャに眉を下げつつも、けれど、それ故に手を差し伸べる機会が増えるとも思ってしまう。自己犠牲で雁字搦めになるナージャに、そんな事をしなくて良いのだという救いを与える立場。

 自己犠牲など無い人になって欲しいと思いながら必要ともされたいという自分勝手なエゴが強くある事を自覚し、一诺(イーヌオ)は己に酷い嫌悪感を覚えた。


 ……どうせ、こんな俺には手の届かない人だ。


 ナージャの背に手を添えながら、光の無い目で一诺(イーヌオ)はそう思う。

 こうして手が届く距離に居ても、届かない。そういうものだし、自分勝手なエゴに満ちている自分が手に入れて良い存在では無い。

 かといって、欲しかない豚が触れて良い存在でも無い。


 ……脂まみれの手でナージャ様に触れるなど、尊い龍の玉に手垢をつけるようなもの。


 酷く汚らわしく、天の怒りを買うような行い。

 そんな事を許せるはずもない。万が一があればそんな事になる前に、逆鱗に触れられた龍の如く暴れ狂って豚とそれに追従する虫を潰す。


 ……俺みたいな人間が、龍のようにと考えるだけでおこがましいが。


 それでも、一诺(イーヌオ)は強くそう思った。

 最近分家からの刺客が増えているからこそ、絶対に手出しなどさせないと。絶対に守り切ってみせるのだと。

 強く、強く、その気持ちを抱き直した。



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