一诺は外へと誘う
折角の休日だというのに、ナージャはずっと憂いた表情でぼんやりと座り込んでいた。
一诺は胸に心配を抱きながら、それを見つめる。
……疲労が溜まっているんだろうな。
無理も無い。
ただでさえ不特定多数と接する必要がある学校。その上ナージャは人に好かれる性質故に、必ず誰かがそばへとやってくる。必然的に一人の時間が少なく、護衛も兼ねている従者の身としては主が誰かに狙われかねない単独行動をせずに済むのは助かるが、しかしナージャの気持ちを想うとそうも言ってはいられない。
他人に対する心の壁が厚いナージャからすれば、それらはただ息苦しいだけの苦行でしかないのだから。
……特に厄介なのは、あの女。
一诺が思い出すのは魔法は使えないものの予知能力がある為にロマーシカ魔法学校へと特待生として入学し、ナージャに迷惑をかけまくっているリーリカの事。
ナージャの素晴らしさを見抜いたのは良いが、付き纏うのはいただけない。他の生徒達だってもう少しナージャに気を遣った距離感と態度だというのに、リーリカだけは酷く距離が近くて馴れ馴れしい。
その結果ナージャがより一層弱るという酷い悪循環。
……何よりあの女、やっている行動が信用ならない。
先日、学校から帰って来たナージャが制服姿でそのまま寝落ちしてしまった時の事。
抱きかかえて仰向けにしようとした瞬間、酷い視線と敵意を感じた。明らかに覗かれているとわかる視線。寝ているナージャを着替えさせるのを即座に止め、視線がする方を睨みつけた。
……基本的には外からの侵入に気を配る為、見張りが屋敷側を見る事は無い。
けれど視線を感じたのは見張り用の塔。睨みつけた先の窓にも、ハッキリとした姿を見る事が出来たわけではないが人影があった。
その影では誰なのか特定出来なかったが、しかし一诺は既にそれがカーナとリーリカだった事を知っている。
……その時見張り用の塔に居た警備員に、誰が来たかを聞けば良いだけだ。
そしてカーナがリーリカを連れて塔に登ったという証言を得た。
……しかし、あの男はあの男で底が知れん。
「ああ。確かにリーリカが見たいって言ったから覗いた」
一诺が視線について問えば、カーナはあっさりとそう肯定した。
「一诺が相手である以上、すぐにバレるのはわかってるし。わかりきってる事を否定するのは無駄だろ?」
いつも通りのその態度。それがまたよくわかなくさせてくる。何故あの女にそう協力しようとしているのか。
リーリカに対し本能的に嫌悪感しか抱けない一诺には、理解出来なかった。
……しかし、ナージャ様に関してはこのままというわけにもいかない。
ナージャはずっとぼんやりしている。
休日のナージャは基本的にのんびりしていて、本などを読んで日頃の心労を癒す事が多い。自分一人の世界に入り込む事で、他者との接触によるストレスという毒を排出している。
けれど今日はいつも以上に疲労が溜まっているのか、ナージャは本を読む余裕すらも無いようだった。
……疲労が溜まり切ると、まず必要以上に気疲れしないようにと感情が死ぬ。
より正確に言うなら、封印されたような状態になる。
他人から向けられるものを受けて心労が募るからこそ、受ける事を拒絶するようになるのだ。結果文字すらも脳が受け付けなくなり、読めはしても頭の中に内容や意味が入っては来ない。文字は読めても内容が読めない。
それがわかっているからこそ、もしくは文字を読む程の余裕すらも無いからこそ、ナージャはただただ椅子に座って佇んでいるのだろう。
「ナージャ様」
「はい?」
声を掛ければ、反応する。慣れたように目を細めて微笑んで。
けれどその笑みが本心からでは無く、表情筋が反射的にその形にしただけのものだとすぐにわかった。
……俺もまた、似たような顔をしていたな。
そうする事で大丈夫だと伝えるもの。何も問題は無いのだと他人を誤魔化すもの。そうすれば、誰も何も言いはしない。誰かと関わる事すら億劫な状態だからこそ、笑みを浮かべて他人を拒絶する。
心配という感情を向けられ、それで感情が揺れるのが嫌だと。
……当然ながら、無意識の防衛本能によるものだろうが。
わかっているから、一诺は大丈夫ですかと言いはしない。
「気が滅入るようでしたら、外にケーキでも食べに行きますか?」
ただ気分転換の方法を提示するだけだ。
「……わかります?」
「それはもう」
眉を下げたナージャの言葉に頷けば、ナージャはへにゃりとした力の無い笑みを浮かべていた。
「溜め息が多いのもそうですが、上手く力が抜けていないようでしたので。休日は回復の為にゆっくりする事が多いとはいえ、それは心を休ませる為のもの。ですが、今日のナージャ様は」
「休まってない、ですよね」
「そのように見えました。私の勝手な判断ですが」
「いえ、その通りです」
先程の一瞬緩んだのか無意識に浮かんだのだろう笑みとは違い、ナージャは無理に浮かべたような笑みを見せる。力の無い笑みである事は同じだが力が抜けきっていた先程とは違い、力が入らない部分に力を入れて無理矢理浮かべた笑顔にしか見えなかった。
「何というか、こう、疲れているというか……気力が疲れてる、みたいな感じなんです」
ナージャは椅子の上で膝を抱え、眉を下げながらそう言った。
「特待生の熱量についていけなくて消耗が激しくて、マイナスを回っちゃったみたいな……」
「接触禁止でも言い渡しますか?ナージャ様が辟易していると告げれば当主様も奥方様も味方になる事でしょう」
「さ、流石にそこまでは、うん、無いです」
……微妙に躊躇したな。
基本的に他人に何かを言うよりも自分が我慢すれば良いという性格のナージャが、躊躇った。
誰かに対し公的に接触禁止を言い渡すという事は、相当な理由でも無ければナージャは厭うだろう。けれどその案を却下するまでに一瞬の躊躇いがあった事に、一诺は気付いていた。
それ程までに、リーリカによる心労が酷いという事なのだろう。
「あれはいっそそのくらいした方が理解すると思いますが……」
「でも、それをしたら特待生がやりにくくなっちゃいます。先輩に公的に接触禁止を言い渡される、なんて……変な噂がついちゃったら、申し訳ないですし。私が我慢すれば、来年には終わる事ですから」
……原来是这样。
ナージャの言葉に、一诺は納得した。
要するにこの先もまだ数年あるリーリカの学生生活が滞ってしまう可能性があるからこそ、耐えようとしているのだろう。学校という隔離された施設内では、噂の一つが命取り。その瞬間からリーリカはナージャに拒絶されるような人間だと学校中に知られ、距離を取られる事が多くなったりするかもしれない。
……事実感情が死にかける程ナージャ様の心に負担が掛かっているのだから、接触禁止を言い渡すくらいで丁度良い対応だと思うのだが……。
どうにも我慢しいなところがよくないと、一诺は思う。
ナージャは自分が我慢すれば丸く収まるからと耐えてしまう。貴族であり、親に溺愛されている自覚があるから。そして相手が貴族では無いと知っているから。ナージャの拒絶一つが大ごとに発展する可能性が高いと理解しているからこそ、自分の影響力が望んでもいないのに大きいという自覚があるからこそ、ナージャは耐える。
攻撃に転ずれば思っている以上に過剰な結果になってしまうとわかっているから、ナージャは受け身に徹するのだ。
……それであなたの心が壊れてしまっては、元も子も無いだろうに。
心が本当に壊れれば、治るまでに相当な時間が掛かってしまう。数年の学生生活など比べ物にもならない程に。ナージャにはそうなる危険性に自覚が無いのかと思い、ふと一诺は気付いた。
それ以上に、誰かを傷付けるのが嫌なのだと。
「良いんです」
だからこれで良いのだと、ナージャは笑う。
具合が悪いのか血の気が引いている顔色で、無理な笑みを浮かべていた。ナージャの苦手なタイプであるリーリカが接触してくる度に、ナージャは槍のようなものであちこちを刺され貫かれているような辛さを感じているだろうに。心のあちこちが最早修復も追い付かない程に傷ついているだろうに。
それでも笑うナージャに、一诺の心は締め付けられるように痛んだ。
「そうは思えません」
……そんな痛々しい笑みは、見たくない。
「……酷い顔色になっていますよ」
ナージャの頬に手を添え、親指でナージャの目の下をなぞる。隈が出来ていたりもしない白く美しい肌だが、しかし疲れ切っているのは一目瞭然だった。
「…………あは」
目と頬をほんのわずかに緩ませ、ナージャは一诺の手に頬を擦り付けた。到底気持ち良さなど無い硬い手の平だろうに、これ以上に安堵出来るものは無いとばかりにほんのり緩んだ表情で。
「じゃあ、そうですね……気分転換に、ケーキ、食べに行きたいです」
「希望のものはありますか?それがある店に向かいましょう」
「品物、把握してるんですか?」
きょとんとした表情のナージャに、一诺は答える。
「勿論です」
……他でもない、あなたの為なら。
「知っていて損はありません。それに、こういう時に知っていればナージャ様のお役に立つ事が出来ます。あらかじめ把握しておけば、ナージャ様が望む店に直行出来ますから」
そう、直行出来るかどうかというのは最重要。
人によっては行き先未定のまま町を歩き、探し出すのを好むだろう。今日は当たりだった今日はハズレだった、と。けれどナージャにそこまでの体力は無い。否、体力だけならば一応ある。無いのは気力だ。
人が多い場所を苦手とするナージャからすれば、通行人が行き交う町は酷く酔いやすい場所でしかない。
……行き先未定のまま歩くというのは、ナージャ様からすればただの苦行。
だから一诺は調べておく。
ナージャが気分転換に少し外に出たいとなった時、憂いが無いように。目的も無く歩くのは時間の無駄じゃないか、その時間で何か本を読んでいたりする方が良いんじゃないかと焦ってしまうナージャの為に。目的があればそこを目指せるナージャだからこそ、一诺が目的地を把握しておく。
目的地が休みの日だというだけで一诺に無駄足を踏ませてしまったと顔色を悪くするナージャをもう二度と見ない為にも、それらの情報全てを把握しておけば良いだけだ。
……幸い、俺は記憶力が高いからな。
「……えへ、嬉しいです」
嬉しそうに、ナージャはへにゃりとした笑みを浮かべていた。その嬉しいという感情が出たという事は、感情の揺らぎが生まれたという事。動かなくなっていた感情が動き始めた証拠。
しかしそれよりも何よりも、嬉しそうに微笑みかけながら一诺の行いを喜んでくれた事が、嬉しくて仕方が無い。
その笑みと言葉に一诺の胸の奥の一点が、熱した石でも放り込まれたかと思う程に熱くなる。とても熱く、けれど不快ではないその心地。いっその事ずっとこの熱に身を焦がしていたいと思わせるような、そんな熱だった。
「じゃあ、あの、その、ナポレオンケーキがあるお店……わかりますか?」
「勿論」
……そういえば最近ナージャ様が気に入っていた小説に、ナポレオンケーキが登場していたか。
書庫にある本は経済学やマナーについての本が多い。図鑑や事典なども多いが、しかし小説などの類は相当に有名なものくらいしか置かれていない。個人で欲しいものがあれば個人で買い、自室に置くからだろう。
要するにナージャが好みそうな小説を代わりに買う為にも、一诺は中身を把握しているというだけの事だが。
……ナポレオンケーキを取り扱い、かつ今日が休みでは無い店は……。
まずナージャが徒歩で行ける範囲内の店を思い浮かべる。次に休みの店だが、ケーキ屋が休日に休むはずもないのでどの店もセーフだ。
「近い距離になら二店舗あります。ナージャ様好みの味であれば、ここから近い方の店でしょうね」
「わあ……!」
一诺がそう告げれば、ナージャは両手の指先を合わせて嬉しそうに表情を明るくさせた。
・
一诺は漢服から使用人服へ着替え、ナージャは私服から外出着に着替えてケーキ屋へと来た。中がカフェになっているタイプであり、尚且つ時間帯のお陰か中は混み合っていなかった。
……これなら心配は無いな。
この店は貴族だと伝えて証拠を提示すれば貴族用の個室へと通してくれる店でもある。
けれどナージャはそういった特別扱いに委縮する性格。とはいえそれ以上に人混みを苦手とするので、あまりに人が多いなら個室を頼む必要があった。
客の少なさを見る限りその必要は無さそうで、一诺は端の人気の無い席に座りながら安堵した。
「お待たせいたしました」
「わあ……!」
注文してから席で待っていれば、すぐにケーキが用意される。前に置かれたナポレオンケーキを見て、ナージャは暗い色が灯っていた青い瞳を喜びにキラキラと輝かせた。
崩さないよう丁寧にフォークへと載せそのケーキを口に含んだナージャは、とても嬉しそうな笑みを浮かべる。
……やはり、愛らしい。
可能なら自分が作る物以外は食べないで欲しい。
そう思うのも事実だが、それはただのワガママだ。東洋の料理以外はあまり得意では無い一诺が、そんなワガママを押し付けるわけにもいかない。言うならせめて、作れるようになってからだろう。だから一诺は、それを言わない。
何よりそれ以上に、時々違う物を食べてその新鮮さに喜ぶナージャの顔は普段見れない笑顔だからこそ、自分の作った物だけをという気持ち以上に胸がぽかぽか温まるのだ。
「……好みの味でしたか?」
「はい!」
一诺の問い掛けに、ケーキで元気が戻って来たのかナージャはしっかりとした良い返事を返した。しかしすぐに不思議そうな表情になり、首を傾げる。
「でもこれ、私好みの味だって一诺わかってましたよね。食べた事があったんですか?」
「まさか。この店の傾向から、ナージャ様好みの味だろうと推測しただけですよ。色々な人と話をするとその人の嗜好、味覚は大体把握出来ますからね」
人との会話、そして相手の人となりや好み。それを知り覚えておけば、大体わかる。
「そしてその人達の好みを把握した上でどこの店のケーキが好みだったか、好みじゃなかったか。それらを覚えておけば、必然的にナージャ様の味覚に合うだろう店を割り出すくらいは出来ます」
「……何というか、一诺って本当にすっごく凄いですね」
……そういう反応を返してくれるから、俺はあなたに尽くしたいと思えるんだ。
引くでも無く恐怖するでも無く怒るでも無く、感心したように言うナージャ。
これらの情報全ては、一诺の努力によるものだ。故にそれを嘘だと断じずちゃんと本当だと信じてくれて、素直に感心してくれる事がとても嬉しい。
部下の方が優れているなど、と言いもしない。
……そもそも、言うはずが無いか。
「優れた使用人……っていうのは、良い事だと思います」
前にそんな話をした時、ナージャはそう返した。
「例えば貴族がその貴族の階級よりも下の階級の服を着てたら、貧乏かなって思いますよね。人望が無いのかなっていうか、そういう、あんまりかな、みたいな。でも貴族が合ってる服や、それ以上の服を着ていたら、そして着こなせていたら、ちゃんとした人だって思えるはずです。服に着られてたら駄目ですけど、着こなせてたら本来よりも上に見えますから」
つまりは使用人も同じ事。
主より優れた人間が使用人になるからこそ、主にはそれだけの才があるという事になる。使用人が主を見下していれば、主にその才は無いという事になる。
そして使用人が主に忠誠を誓っていれば、主にはそれだけ上に立つ才があるという事だ。
「私もそういう、一诺の隣に立っても恥ずかしくないような、そんな人間になれれば良いんですけど」
私の主はあなたです。
そう言いたかった。言えれば良かった。けれど契約上の主は本家当主。心はナージャにのみ仕えているが、契約上は本家当主の部下なのだ。更にナージャを守る為とはいえ、分家からのスパイ状態も続いている。
……何一つとして分家に本当の情報は流しておらず、曖昧な情報しか与えていないが……。
それでも、立場が曖昧なのは明らかだった。だから一诺は「ナージャ様は既にそのように素晴らしい人ですよ」としか言えなかった。
私はあなたの隣にしか立つつもりはありませんと、言えれば良かったのに。
「私はナージャ様の専属の使用人……従者ですから」
後悔を胸に抱きながらもどうせ言えないんだろうなと冷静に自分を判断しつつ、その時の一诺はそう言った。
「ナージャ様に過不足が無いよう、そして憂いも無いよう動くのが私です」
不足はいけないが、過剰も良くない。
本家当主と奥方、そして忌まわしき特待生は過剰な感情をナージャに注いでいた。それはもうわかりやすい程過剰に。一诺もまたナージャに対し強い感情を抱いてはいるが、それをナージャに伝えはしない。
過剰な感情は、ナージャにとっての憂いとなってしまうから。
「……あと」
「あと?」
けれど過剰だからなのか、溢れてしまう気持ちのままに口から零れる。
「……つい、殆どの事をナージャ様に関連付けて考えてしまうという、そういう癖があるので、つい、ですね」
「えと……ついで、ずっと私の事を考えててくれてるんですか?」
無意識に零れた言葉にそう問い掛けられ、一诺の血の気がザァッと引いた。
だっておかしいだろう。十歳以上離れている異性の使用人が、仕事外でも主の事を考えているなど。買い出し時でも何でも仕事外というわけでは無いが、けれど一诺は本当に常にナージャの事を考えてしまっている。
全ての行動や思考の根底に、ナージャが居るのだ。
……恶心。
それは、気持ち悪いと言われて嫌われるものではないだろうか。
一诺は自分が優れているという自覚がある。けれど自己肯定感が薄い。自分の才能や努力を否定する気は一切無いが、東洋人というだけの理由で与えられた劣悪な環境の中十年間生きて来た経験がまだ根付いているのだ。
その為どうしても、否定され拒絶されるのではという気持ちで頭も胸の中も埋め尽くされてしまう。
「申し訳ありません」
「え、や、あの、怒ったりとかは全然してないですよ?」
「……ですが……常にナージャ様を考えるのも仕事とはいえ、最早仕事など関係無く生活の基盤になっているというのは酷く気持ち悪い事でしょう」
ナージャの表情や声色から、怒ったりしていないという言葉は事実なのだろう。けれどそれでも、不安が出て来る。
……俺はあなたに、ナージャ様にだけは嫌われたくないんだ。
もしナージャに捨てられれば、一诺の未来は無くなるだろう。ナージャに万が一があれば一诺は役立たずの己を嫌悪し、自分で大嫌いな自分自身を殺すだろう。そのくらい、ナージャから離れる自分が想像出来ない。
そうなれば生きる希望も何も無くなるとわかっているからこそ、嫌悪されたらというもしもを想像して頭がそれに埋め尽くされて真っ白に、否、真っ黒になっていく。
「……一诺」
「申し訳ありません」
「一诺、ちゃんとこっちを見てください」
……っ……!
謝罪をするしかないという感情に埋め尽くされていた一诺は、ナージャの声色が変化した事に密かに肩を跳ねさせた。一诺に向けられる事は今まで一切無かった、不機嫌な声。
不機嫌になる事はあれど、それが一诺に向けられた事は無かったのに。
……やはり、嫌われ、たのか……?
親に捨てられた子供のような酷い不安感に包まれながらも、しかし逆らう事も出来ずに一诺は恐る恐る顔を上げる。
ナージャは不機嫌そうな表情のまま、射抜くかのようにその青く澄んだ瞳で一诺をまっすぐ見据えていた。
「一诺はよくそうやって、気持ち悪がるんじゃないかって言いますけど」
拗ねたように、怒るように、ナージャの眉間にシワが寄る。
「私は、一诺に私の事を考えて貰えるの、嬉しいです。今だって一诺がずっと私の事を考えてくれてたってわかって、嬉しかったですよ」
「ですが……」
その言葉は嬉しい。何よりも嬉しい。ああ嬉しいとも。
けれど、駄目なのだ。
ナージャに喜んでもらえる自分でありたい。けれど自分はそう綺麗な自分でも無い。ナージャに出会う前とはいえ、ナージャをおぞましい危険に晒す計画に是と答えた事が忘れられない。心の中に、ずっと負い目があり続ける。ナージャも知らない、一诺が勝手に抱いている負い目が。
それを思うと、ナージャの言葉を素直に喜び受け止める事が出来なかった。
「……それはまあ」
「?」
引こうとせず食い下がる一诺に、ナージャは悔しそうな表情で視線を逸らした。一诺くらいしかわからないような、けれど確かに悔しそうな表情で、ナージャは言う。
「一诺が私から離れている時とかは私の事を考えたりしたくないって思ってるなら、申し訳ないですけど。でもそれなら謝罪するのは私の方であって一诺では」
「そんな事はありえません!」
気付けば、叫んでいた。
……しまった。
店内である事を思い出して慌てて周囲を確認すれば、どの客も我関せずを貫いていた。それに安堵しつつ、一诺は気持ち声を抑えてナージャに告げる。
「……とにかく、それだけはあり得ません」
……あなたから離れた俺が、生きていけるとは思えない。
役立たずの自分を嫌悪し自分を殺すという自殺。不要とされた己の人生に意義が見出せず行き倒れ。良くても生きる意味がわからずただ生存しているだけの廃人と化すだろう。それ程までに、一诺にとってはナージャが自分の全てだった。
ナージャの事を考えない、考えたくないと思う一诺など、それはもう一诺とは言えないだろう。
「私はナージャ様を大事に想っています。想っているからこそ、考えてしまう。厭う事などありません」
「なら私だってそうです」
どもる事の多いナージャにしては珍しく、ハッキリとした断言だった。
「私も一诺の事が大好きなんですから。一诺が私の事を想ってくれる事の何を厭えば良いのかもわかりませんし、」
ナージャは一瞬叫ぶように何かを言おうとし、声にはせずケーキを口に含んだ。
恐らく叫ぼうとしたのは無意識なのだろう。何を言いたいか、自分ですら自覚していないのは表情からわかった。けれどナージャの中で言わない方が良いとなったのか、定まらなかったのか。その言いかけた部分を飲み込む為に、ケーキを食べたようにしか見えなかった。
口に含んだケーキを飲み込んでから、ナージャは静かに告げる。
「……一诺はもうちょっと、私からの気持ちを信じてください」
「信じてますよ」
そう、ナージャの気持ちは信じている。
……俺が信じられないのは、俺自身だ。
自分自身だからこそ、自分がどれ程信用に値しないか、わかっているのだ。
だから駄目だ。駄目だった。受け取れない。受け入れられない。大好きだと言ってくれたのはこの上なく嬉しい事のはずなのに、いっそ自惚れても良いくらいなのに。
自惚れで過剰に良い意味として、都合の良いように受け取りかねない自分の事は誰よりも知っているから。
ついうっかり欲望のまま、その大好きの意味を勘違いしそうになってしまう。勘違いしたくなってしまう。親愛や信頼という意味での好きだとわかっているのに、恋愛であればという欲望から恋愛の意味なのではないかと思ってしまう。
……ハ、人の事を言えやしない。
自分に酷く都合の良い解釈。
それはナージャが苦手とする人間達の最たる特徴だった。本家当主も奥方もリーリカも、皆皆そういう受け取り方をする。一诺はナージャが嫌うような、そんな人間にだけはなりたくない。
誰よりも自分を信じる事が出来ない一诺は、そんな気持ちを秘めながら目を細めて微笑んだ。
「そんな顔をしないでください、ナージャ様」
一诺の表情から違和感を感じているのだろう、けれどその理由がわからなくて疑問に思っているのだろうナージャに、一诺は苦笑した。
「……どんな顔してるんですか?私」
「不満そうな顔を」
「むぅ……」
唇を尖らせたまま、ナージャは頬を揉み始める。
「ふは」
その動きがあまりにも可愛らしくて、一诺は思わず笑ってしまった。
「不満げな顔をさせてしまい、申し訳ありません」
そう言って、一诺はフォークに載せた自分のケーキを差し出す。
「良ければお詫びとして、こちらのケーキも食べてみますか?ナージャ様には少々甘すぎるかもしれませんが」
「……いただきます」
ナージャが軽く目を伏せれば、睫毛の影が頬に掛かる。それにざわりとした物を感じながら見ていればナージャはケーキを口にして、
「んむぅっ!?」
驚いたように口元を手で押さえた。驚きつつもゆっくりと味わってから飲み込み、ナージャは紅茶を飲んで一息つく。
「……とっても甘いんですね、これ……!」
「はい」
一诺からしてもかなり甘いと思うケーキ。
「ですが私は、これの食感が好みでして」
そう、柔らかい口溶けが癖になる。あまりの甘さなので何度も食べたいとはならないが、時々食べたいと思わせる食感なのだ。
「ああ、成る程」
一诺の言葉に、ナージャは納得したように頷く。
「一诺、白くて食感が柔らかい物を好みますもんね」
「……特に自覚は無いのですが、そうでしたか?」
「私が知っている限りでは」
クスクス微笑むナージャを見つめながら、一诺は思わずきょとんとしてしまう。
特に好き嫌い無く、というよりも好き嫌いだの言ってられない生活をしてきた身。奶奶の存命時は貧乏で、奶奶の死後は分家での迫害生活。食べられる物を食べて生きる事を最優先としていたので、一诺は自分の好き嫌いを知らなかった。
そもそも、自分の食の好みなど気にした事も無い。
「マシュマロなどを好んでいる辺りから、そういう系統が好きなんだろうな、と」
けれどナージャは、当然のようにそう言った。
一诺すらも知らない、一诺の事。それは一诺の事をちゃんと見て、理解してくれているという事。
……言われてみれば、ケーキもスフレなどの系統をよく頼んでいる気がするな。
「……そういえば、そうですね」
自分ですらも知らない事を他でもないナージャが知ってくれている事が、何だかとっても嬉しかった。
・
帰路の途中、ナージャは疲れたように溜め息を吐く。
「大丈夫ですか?ナージャ様」
「一诺が守ってくれましたから。ただちょっと、ビックリしちゃって」
……難怪、誘拐されかけたのだから。
先程、誘拐犯らしき四人組の襲撃を受けた。足止め二人に誘拐二人。即座に攻撃を入れて四人をふん縛り転がしたは良いが、あれは分家の者だろう。ここ最近ナージャを無理矢理手に入れようと、分家当主がやたら送ってくるようになった敵。
一诺がナージャを守る事をわかっていて、その上であわよくばを狙っているのだ。
……信頼と信用の為にも全力で守るとは言ってあるし、嘘では無い。しかしいつまで誤魔化しきれるか……。
思考の深さは無いが、浅はか過ぎて思いもよらないような発想をするのがあの豚だ。まったくもって忌々しいとあの豚に対する敵意が膨らむが、今はそんな事よりもナージャの具合の方が優先されるべき事。
そう思い、一诺はナージャの頬へと手を添えた。
「……顔色があまりよくありませんね」
ケーキを食べて良くなっていた顔色が、血の気が引いたように白くなっていた。ナージャの肌は元々白いが、それは健康的な白さ。こんな、不健康的な白さでは無い。
そう思いながらナージャを見つめる一诺の表情が心配そうだったのか、ナージャは無理にへにゃりとした笑みを浮かべた。
「すみません。折角気晴らしに付き合ってもらっちゃったのに」
「いえ」
……気を遣わせない為なのだろうが、俺に対してまでそんな無理に浮かべた笑みを見せないでくれ。
必要以上に迷惑を掛ける事を厭うナージャは、未だあまり頼ってはくれない。
昔に比べればかなり頼ってくれるようにはなったものの、自分の中に溜め込む癖はどうにもならなかった。今の笑顔も、それだろう。大丈夫だから心配しないでという、頼らなくても大丈夫だという善意によるやんわりとした拒絶。
一诺には、それがわかった上で尚指摘するような心の強さは無かった。
……せめて家に帰る前に、少し休める場所を探すべきか。
目を伏せながらそう考えていた一诺は、目を開けて周囲を見渡す。
「ナージャ様、あちらにベンチが。すぐそこの屋台でドリンクを購入してきますので、少々そこで休んでいてください」
「すみ……ううん」
口癖のように謝ろうとしたナージャは、チョーカーに指先で触れながらふるりと首を横に振った。チョーカーの花飾りがしゃらんと揺れる。
「……ありがとうございます、一诺」
「私がそうしたいだけですよ」
……ああ、よかった。
謝罪では無く、礼を言って貰えた。
一诺はそれがとても嬉しかった。謝罪はしなくても良いと言っても、ナージャはどうしても謝罪を口にしてしまうから。一诺は謝罪が欲しいわけでは無いのに。
かといって、礼を求める事は浅ましいのではと思ってしまった。
謝罪では無く礼が欲しい。そう言えば話は早いだろう。ナージャだってそれはそうだと納得し、謝罪では無く礼を言ってくれるようになるだろう。けれど、駄目だった。言えなかった。だってそんな、礼を言ってくれと求めるような事をすればナージャは応えてくれるだろう。
けれどそれでは、ナージャ自身が伝えたいと思っての本心からの礼なのか、わからなくなってしまう。
それが嫌で、浅ましいと思われたくも無いから一诺はそれを要求しなかった。だがナージャは自ら考え、礼を言ってくれた。一诺が礼を求めた結果の言葉では無く、ナージャ自身が言おうとして、言ってくれた言葉。
その事がとても嬉しくて、胸の奥が高温になった気がする。
「……これで良いか」
一诺は近くの屋台でドリンクを二つ購入した。ナージャ用と自分用だ。一诺は我慢が出来る方なので別に飲まなくとも平気なのだが、昔ナージャに言われた事はまだハッキリと覚えている。
「そういう事をしてもらうと……いえ、されちゃうと、私は一诺が心配になります。大丈夫なのかな、って。それに私一人だけで飲むよりも、一緒に飲んで味の感想を言ったりとか、したいです。だから、あの、私の為にも、ちゃんと自分の分も買ってください……!」
確かに心配症なナージャならそう思うかと納得し、一诺はそれ以来自分の分も購入するようになった。
一诺はドリンクを両手に持ちながらさあ戻るかと思った瞬間、チョーカーからの反応に気付く。ナージャの近くに誰かが居るらしい。把握出来る相手の動作から誘拐しようとしている敵では無いようだが、しかしそうでは無いと断言は出来ない。
つい先程ナージャが誘拐されかけたというのは、思った以上に一诺の心に負荷をかけていた。
「お気遣い、その、ありがとうございます」
どうやらナージャを心配して声を掛けたらしい男は、「だから気にせずさっさとどこかへ行ってくれ」という意味が含まれた言葉に気付かずそこに居続けている。男のすぐ斜め後ろに一诺が立った事にも気付いていないらしい。
「でも本当に顔色が~」
「失礼」
「!」
思ったよりも低い声が出たなと思うと同時、突然背後から声を掛けられた男は驚いたように振り向いた。その顔やその他の特徴には、覚えがある。
……コイツは、時々あの特待生と会話しているらしいパトソールニチニク魔法学校の生徒か。
ただでさえ警戒を強めている最中であり、挙句に一诺からすれば天敵でしかないリーリカの友人。それだけで一诺が敵意を抱くのには充分だった。
殺意までは滲ませないよう、けれどさっさと去ねという念を込めながら微笑んで見えるように目を細める。
「私の主に何かご用でしょうか」
「いえ、そういうわけでは無いのですがぁ……具合が悪そうだったので」
「ご心配、感謝いたします。ですが私がおりますので結構です」
「あ、あの、えと……!その、すみませ、あの、さっき私が、ゆ、誘拐、されかけて、それで彼、あの、ちょっとピリピリしてて、ごめんなさい……!」
貴様に見せる隙は無いとばかりにトゲトゲした態度の一诺を見かねてか、争いになるのを心配したのか、ナージャはそうフォローした。
「誘拐」
もっともあまりにも事実過ぎてフォローになっていない言葉に男……ゴーシャ・ボーンは目をパチクリさせる。
「ああ、だから具合が悪そうにぃ……それなら僕が不審者に見えてしまうのは当然ですね~」
ナージャの弟であるカーナに似たぼんやりした雰囲気で、しかしカーナのように裏で何かを考えているような感も無く、ゴーシャは頷く。要するに雰囲気が考え無し系だったという事だが。
考え無しな人間はナージャの周囲に多いので、一诺からすればわかりやすい。
「では何だか強くて怖そうな護衛が居るから大丈夫でしょうと思い、この場は失礼します」
正直過ぎる程あけすけにそう言って去ろうとし、あ、とゴーシャは振り返る。
「僕はゴーシャ・ボーンです。貴族って高飛車だったりやたら睨みつけてきたりして苦手ですがぁ、あなたはそうじゃないので~……個人的にはまたお話してみたいですねぇ」
「え」
何も考えずただ思った事を言ったとしか思えない表情と声色でそう告げたゴーシャに、ナージャは一瞬酷い顔をした。
物凄く嫌だと言うような、絶対にお断りだと言うような顔。突然誘拐された先で人間の死体を見せられ、捌けと言われたような顔だった。そんな顔は一诺だって別に知らないが、恐らくそのくらいの顔だろう。
けれどほんの一瞬無意識に出たのだろう表情には、ゴーシャもナージャ自身も気付いてはいないようだった。
「ああいえ、今のはただの僕の気持ちです」
しかし好意的では無い空気には気付いたのか、ゴーシャはさらりとそう言った。
「ちょっと思った事を言い過ぎるというか、間がおかしいとよく言われるので~。混乱させてしまったなら申し訳ありません。それではぁ」
リーリカのあの勉強会に来る度の面倒臭さやしつこさは何なんだと思うくらいあっさりと、ゴーシャはその場を立ち去った。
……あの男と交流があるのなら、あの女ももう少しこの引き際の良さを見習えば良いものを……。
そう思いつつ、一诺はナージャに声を掛ける。
「……ナージャ様」
「はい?」
まだ少し顔色が良くないナージャを見て、一诺は思わず無言になる。
……いくらナージャ様の位置を把握出来るチョーカーを身につけさせているとはいえ、誘拐直後に一人にするものではないな。
己の不甲斐なさについてを謝罪しようとして、謝罪されてもナージャは困るだけだろうと判断し、口から出そうになった謝罪の言葉を押し止める。かといって他に何を言えば良いのかもわからない。
わからないまま一诺は無言で目を伏せ頭を振った。
「……いえ、何でもありません。それよりもお待たせしてしまいましたが、ドリンクです」
「ありがとうございます」
明らかに違和感を抱かせるだろう態度。けれどナージャはそれに対し何も言わず、一诺が差し出したドリンクを受け取った。そのわかっている距離感がとても居心地良くて、けれど不甲斐なさは消えなくて。
キリキリカチャカチャ。
近くにある露店の商品が、歯車の鳴る音を響かせる。その音は一诺の頭の中で、酷くうるさく響いていた。




