一诺は幸福を祈る
学校から帰って来て寝間着に着替えたナージャは、髪を下ろしながらふと思い出したように声を上げる。
「あ」
「どうかされましたか?ナージャ様」
ナージャが着替えている間にいつもの漢服へと着替え終えた一诺がそう問い掛けると、ナージャは口を開いた。
「あの、そういえば今日、特待生が私にチョコレートを渡して……」
「人体に有害な毒物かもしれないので捨てましょう」
「わあ…………」
一诺が笑顔で告げた反射的な言葉に、ナージャはちょっと理解出来なくて感情が追い付いていないとわかる声を出した。
しかし一诺がそういう態度を取るのも致し方なし。何せ相手はあの特待生。好意による行動や言動だとはわかっていても、ナージャへ心労を掛ける事が許せない。あと何だか生理的に無理なので、そんなヤツが用意したチョコレートというだけで一诺からすればほぼ産業廃棄物。
まあ流石に産業廃棄物の可能性が高いので捨てましょう、とまでは言わなかったが。
……本当に、あれは要らない事しかしない……!
一诺は内心で、ギリリと歯を食い縛った。
別にチョコレートの一つや二つは構わない。そりゃ可能ならナージャの口に入る物全て一诺が管理したいが、そこまで束縛するつもりもない。世話をするのが仕事だが、束縛や管理などを出来る立場でも無いのは事実。
だから、お菓子くらいは構わない。
ナージャが三年生になる前であればリーリカが居ない為にナージャにも心の余裕が多少あり、カフェなどに寄り道する事も極稀だが確かにあった。そういった場所で、一诺が作らないような西洋風のケーキを食べる姿。ちまちまと食べながら嬉しそうに微笑むナージャを見るのが好きだから、一诺は構わない。
そも一诺は東洋料理に特化しているので、西洋料理は初心者向けのものしか作れないのだ。
……いっそ、作れるようになるべきだろうか。
しかしナージャは基本的に東洋の味が好みなのか、西洋風の物はあまり食べない。
月に一回から半年に一回カフェなどでケーキを食べるかな、程度だ。昔一诺がお土産としてケーキを買って来た時も、フォークの進みは微妙だった。
……恐らくナージャ様は、生クリーム系をあまり得意としていない……。
だからなのかケーキを食べる時は小さいサイズの生クリーム系か、チョコレート系。もしくは果物がメインとなっているものかタルト、パイなど。つまりチョコレートであれば問題は無い。一诺だって、時々一诺が作る物以外食べる時に見れる、普段と違うナージャの笑顔が好きだ。
いつものように噛み締めるようなふわりとした笑みとは違い、子供がニコッと微笑んで音符を飛ばしているような笑顔。
どちらかというと一诺が作った物を食べている時の方が、素の笑顔に見える。それにニコッと笑う時は一口目を食べた時だけだが、一诺が作った物を食べる時はずっと優しい微笑みを浮かべているのだ。
それはまるで一诺の料理の方が好きだと言ってくれているようで、一诺の心はトクトクと脈打つ。
……ただの自惚れである可能性も高いが。
けれど、そうだったら嬉しい。
その笑顔の差に、一诺は勝手な優越感に浸る事が出来る。自分の方がナージャに求められているのだと思えるから。例え勝手な思い込みでただの自惚れでしかなくとも、一诺の心は満たされる。だから一诺は、自分が作った物以外を食べても構わない、と思うのだ。
ただしあの特待生から送られた物はアウト。
「でも、ええと」
おろおろとしながら、ナージャは言う。
「既製品って言ってたので、その、わざわざお金を支払って用意してくれた物を捨ててしまうのは、その……」
「あれが勝手に用意しナージャ様に押し付けただけの物なのですから、あれの財布事情などナージャ様が考える事ではないと思いますが……」
……ナージャ様は、物を粗末にする事を嫌う。
分家での十年間により、一诺にとって貴族は物を粗末に扱う存在だという印象だった。
けれどナージャは違う。気に入った服を着もしないのに片っ端から購入し、一度着ればそれで終わり、とはならない。学校がある日は倒れ込むように眠るし休日は普段の疲れを癒す為に自室でまったりしているから外に出ないという理由があるからか、滅多に服を買わないのだ。
どころか放っておけば多少ほつれた服は直せば着れるからと直そうとする。
静かな時間を過ごせる上にそれに集中して時間を潰せるからという理由でナージャはよく刺繍や裁縫をするし、実際その腕は良い。だがしかし、だからといってさせるわけにはいかない。
……流石にナージャ様自身に服を直させたり、着古した服をわざわざ縫い直してまで着せるわけにはいかないから新しいのを用意したが……。
新しいのを買うのは勿体ないと言い、直そうとするのがナージャだった。そして一诺も当然ながら裁縫が出来るので、ナージャが直そうとするのを止める度に「じゃあ、あの、一诺、これ直せます、か?」とよく問われる。
まあ、流石に貴族の令嬢に一度破れた服を着せるわけにはいかないので新しい物を用意するが、
……問題は俺が選んだ服という事だな。
ナージャに似合い、そして気に入りそうな服を選んでいるのは確かだ。
ナージャもそれを嫌がらず、嬉しそうに着てくれる。しかし自分で買ったりしたいのでは、という気持ちも無くはない。
聞き分けが良すぎて自分の願いを主張しないナージャなので、その辺りが一诺ですらよくわからないのだ。
……しかし物を粗末にしない為とはいえ、あれが用意した物など……。
ナージャは勿体ない事を嫌う。物を粗末にする事を嫌う。だから食べ物も残そうとはしない。
「食べる為に育てられて屠殺され肉になったというのに、その為に家畜達は育てられ、そう育てた人達も居るというのに、こちらの都合で残して駄目にしてしまうのは申し訳ありません」
そうして無理に食べようとするので、無理な分は一诺が食べる事にした。
幸い一诺に好き嫌いは無いので、丁度良い。余らせるのが勿体ないと無理に腹に詰め込んで気持ち悪くなっては、肉になった動物やそれらを育てた人達も困るだろう。
残飯を食べさせるなんてと渋ったナージャは、そう告げれば納得したように頷いた。
……もっとも、無理にでも食べようとする癖を知ってからはナージャ様が食べ切れる量で作るようにしているが。
しかし困った。
リーリカから貰った物以前に、ナージャからすればそれは食べ物。自分に贈られた食べ物にまったく手を付けないというのは、という考えがナージャにはある。そして食べ物を残して駄目にしてはいけないという考え方もある為、捨てる事には賛成しないだろう。
いっそ誰かに渡してしまえばとも思うが、自分宛ての物を一つも食べずにというのは、という考えがナージャの中にある事も一诺は知っている。
……没有办法。
仕方がない、と一诺は諦めた。
「ナージャ様が勿体ないと言うのでしたら、一応確認しましょう。カバンの中ですか?」
「はい」
「では失礼します」
カバン掛けにあるカバンの中を確認し、見覚えの無い箱があったのでそれを取り出す。
「……ふむ」
……開けた痕跡も、何かが仕掛けられているという痕跡も無いな。重さからしてチョコレート以外の物が仕込まれているという事も無いだろう。箱の隙間から香る匂いも確実にチョコレートで間違いない。
いっそ痕跡があれば捨てる理由になったのにと思うと、舌打ちをしたくなった。細工が無いせいで逆に厄介だ。細工があれば一発で終わらせる事が出来たと言うのに。
「……既製品である事は間違い無いようです。開けた痕跡も無いので、中身を入れ替えたりも恐らく無いかと。しかし念の為私が開けますが、良いでしょうか」
「はい」
ナージャの許可が出たので、一诺は箱を開ける。
正直言って周囲を感知出来る追跡魔法の応用で中身を確認するくらいは出来るのだが、相手はあの特待生だ。魔法が使えなかろうが関係無い。あれは一诺の天敵だと、本能が叫んでいる。
過剰な程警戒するくらいが丁度良いだろう。
……この形とサイズに、箱のロゴや香りからしてあの店か。
一诺はナージャの為、そして今まで生き抜く為だった癖で沢山の情報を収集している。
その為大体の店は把握しているし、商品も期間限定の品から新商品までしっかりとチェック済み。当然ながら手の中にあるチョコレートを購入したのだろう店も特定した。それなりに人気があり、学生でも手を出しやすい値段の店だ。
……間違い無く既製品だな。
捨てる理由が無い事が忌々しい。が、一诺はそれを顔に出さないようにしてわかった事をナージャへと告げる。
「……中身も問題は無いようですね。ただしこれは店、形状、香りからするとアルコール入りのチョコレートです」
「お酒、ですか」
……やはりこれは処分……はナージャ様が嫌がるだろう事を考えると、他の使用人にでも押し付けるのが良いだろうか。
先輩であり年上だからこそ大人っぽい物を、となった可能性はある。あるが、酒は酒だ。そしてノヴィコヴァ家の本家当主と奥方は酒に弱い為、ナージャにその酒の弱さが遺伝している可能性もある。
分家の豚もまた泥酔しがちだった辺り、遺伝なのだろう。
酒が駄目という可能性が高いナージャに食べさせるのはと思っていると、ふと一诺はナージャがじっと一诺の手の中を見ている事に気が付いた。ナージャは興味深そうに、一诺の手の中を見つめている。
「酒に興味がありますか?」
「お酒、というか……お酒の耐性が気になって。今まで飲んだ事がありませんでしたから」
「……まあ、それはそうですね」
ナージャは親である本家当主とその奥方に対する興味がまったくもって無い。故にそれなりに知られている酒の弱さも知らないのだろう。
その酒の弱さが遺伝していた場合、ナージャもまた酒を一舐めするだけで酔うという可能性も。
「それに大人になった時、万が一両親が無理矢理パーティに連れ出してお酒を飲ませようとしてきたらどうしよう、という心配もあるんです」
ナージャは困ったように眉を下げ、顎に手を当てながらそう言った。
「もしお酒に弱くて変な酔い方をしてしまったらと思うと……」
……まあ、酒に強いという思い込みが無いだけ良いか。
下手に自分は酒が強いと勝手に思い込み無理な飲み方をすれば、最悪命が失われる。そう思えば、酒に弱いんじゃないかという思考があるのは良い事だ。
大丈夫だろうではなく、大丈夫じゃないかもしれないの方が安全を得る事が出来るのだから。
「……ではまず私がこれを味見し、味が問題無いようでしたらナージャ様が食べるという事に致しますか?」
「えと、良いんですか?」
「ええ」
一诺は目を細め、ニッコリと微笑む。
……あれが寄越した物である以上、警戒はしておいた方が良い。
味見と言ったが、要するに毒見だ。ランダムに毒が入っていれば厄介だが、しかしそこまではしないだろう。そもそも、毒を入れたりもしないはずだ。あれのナージャへの好意は本当だから。
……ああ、わかっている。わかっているんだ。わかっているが、信用ならない。
リーリカを見ると、酷く嫌な気分になる。全てを壊されるような、そんな悪寒。崖崩れの下敷きになる寸前というのはこんな気持ちになるのだろうというような不安。嫌悪を煮詰めればこうなるのだろうという憎悪。
憎しみを抱く理由などそう無いはずなのに、それ程までに本能が嫌がった。
……細工の痕跡も無かった事から、何かを仕込んだりなど出来るはずもない。この店は信用第一を売りにしている為、何かを仕込むよう言われても絶対に頷かない事も知っている。
それでも、拒絶が先に来てしまうのだ。
「チョコに使用される程度の酒でしたら酔う事も無いでしょう」
味見の後でなら食べて良いのかと問うナージャに、一诺は内心湧き上がるリーリカへの嫌悪を抑え込みながらそう告げる。
「万が一それで酔うようならば、普通の酒を飲み酒の許容量を知ろうとする方が危険です。それが例えどれだけ少量の酒であろうと、菓子に含まれる酒で酔う程に弱ければ猛毒に等しい物でしょうから」
「成る程……じゃあ、ええと」
「はい、まず私が」
「お願いします」
頭を下げたナージャに苦笑しつつ、一诺はチョコレートを口の中へと放り込む。
……チッ。
本当に普通の酒入りチョコ。度数もそう高く無い、一般販売だとわかる味。チョコレートの部分はシンプルかつ滑らかで、ナージャが好みそうな味だった。
そしてナージャ好みの味のチョコレートを用意したのがリーリカだと思うと、一诺は酷く不愉快な気分になった。
……瞧不惯。
酷く気に食わなくて、チョコレートを食べても落ち着かない程にイライラする。寧ろチョコレートを飲み込むと同時、その苛立ちが増したような気分だった。
控えめに、しかし深い深い溜め息を吐いて一诺は言う。
「……あれが用意したと思うと癪ですが、味としては問題無いかと。ナージャ様好みのシンプルなチョコレートでしたよ」
「あ、ひゃい!」
その返答はまるで意識がぼんやりしていた際に突然話し掛けられたかのようで、違和感を覚える。
……ん?
一诺がナージャに視線を向けると、ナージャは顔を真っ赤にしていた。
裏返った大きな声での返事に加え、ただでさえ赤い顔はどんどん赤く染まっていく。瞳は潤んでいるし、汗がたらりとナージャの喉を伝うのが見えた。潤んでいるその青い瞳にはうっすらの涙の幕が張っている。
「?」
が、一诺には何故そんな事になっているのかわからない。一诺がチョコレートを食べている間に何故そこまで変化が起きているのか。ここまでのほんの一瞬の間の差と言えば、一诺がチョコを食べた程度。
「……まさか、酒の気配がするだけで酔ったのですか?」
一诺がチョコを食べた際、中の酒の香りが一瞬広がったのかもしれない。それにより酔ってしまったのではないだろうか。流石に無いとは思うが、他に思い当たる事も無い為一诺はそう思った。
「ち、ちが、違くてですね、その、あの」
「落ち着いてくださいナージャ様。私は急かしたりしませんから」
ベッドの上でわたわたと手を動かすナージャに落ち着いた声色でそう告げれば、ナージャの肩が安堵したように少し下がった。
「…………そ、の」
安堵したにしろまだ多少混乱しているのか、一诺でもわからない程度の酒の香りにやられたのか、ナージャは顔を赤くさせて告げる。
「ちょ、チョコレートを飲み込んだ時に、一诺の喉が動いてて、何だか凄く男らしく見えて、こう、ドキドキしちゃったんです……!」
「へ」
……え?
一诺がその言葉を理解するまでに、たっぷり五秒は必要だった。
理解すると同時、じわじわと体温が上がっていくのがわかる。体を流れる血の動きが変化したような、慌ただしくなったような、そんな感覚。
「……そう、ですか」
出来るだけ冷静に聞こえるだろう声色でそう告げるも、一诺の心臓は激しい鼓動を演奏していた。
だって、ナージャは一诺の好きな人だ。幼い頃から世話をしている主であり、十年以上年も離れているのにとは何度も思った。それでもその想いは消せなかった。無くす事は出来なかった。
異性として認識されていないと、わかっていても。
一诺という人間として認識されているだけで嬉しかった。名前を呼んで貰えて、信頼して貰えるのが嬉しかった。それだけで充分だと、そう思った。もっともっとと願う気持ちもあったが、過剰な願いは全てを失い己を滅ぼす。
わかっているから、一诺はその気持ちを仕舞い込んでいたのに。
……それは、異性として見て貰えたという事だろうか。
そうだったら、嬉しい。
異性として認識して、ナージャがドキドキしてくれたなら。それならまだ希望はあるんじゃないかと思えてしまう。期待するだけ無駄だとわかっているのに、分不相応にも程がある願いだという自覚もあるのに、それでもを期待してしまう。
「ええ、と、そう、ですね」
恐らく今のはナージャにとって失言だったのだろうと、一诺は察した。察したが、同時に本音なのだろう事も察した。だから困る。とても困る。どうしたら良いかわからない。
どう返せば、良いのだろう。
……俺の気持ちを伝えれば、きっとナージャ様の負担になる。
貴族と使用人である以上、無理なのだ。そもそもナージャが異性として認識して、だから一诺に恋をしたという事にはならない。一诺がナージャに恋をしているのは間違いないが、ナージャが同じ気持ちとは限らない。
そして真面目なナージャだからこそ、一诺の気持ちに真摯に応えようとしてくれるだろう。
立場などで悩むだろう。傷付けないようにと悩むだろう。恋ではなく親愛という意味なのではと悩むだろう。気持ちを伝えたいけれど、ナージャの負担にだけはなりたくない。押し付けたくない。困らせたくない。
だから一诺は、当たり障りのない返答を選んだ。
「私は男なので、男らしく見えるのは当然かと……」
「ですよね、そうですよね、すみません……!」
つつきもせず告げもせず、ただそう言った。
そう言えばナージャは顔を真っ赤にして謝罪した。女扱いをされているようで大変遺憾ですという意味に捉えたのだろう。一诺は異性同性以前に「一诺個人」として認識されている事をわかっているので、特に気にしていない。
寧ろようやく異性と認識してくれた事が嬉しくて、気にならない。
……元々異性と認識されていない事は、自覚があったからな。
だからこそ、だからこそ、実りはしないとわかっている期待に縋りつきたかった。
実らないとわかりきっていても、期待だけであれば誰であろうと抱くのを許されているはずだから。
「あ、えっと、チョコ!」
顔を真っ赤にさせて目をぐるぐるさせたナージャは、空気を変えようとしてかそう叫ぶ。
「チョコ、あの、いただきます!」
「は、はい」
一诺もまた己の中の思考に呑まれそうになっていた為、慌ててチョコの入った箱を差し出した。毒が入っていないのはわかっているし、大丈夫だろうとそう思って。
「い、いただきます」
「どう、ぞ」
ナージャは細くすらりとした白い手指でチョコレートを一つ摘まんで、それを口元へと持って行く。ぷるりとしたピンク色の唇に触れ、チョコレートはその中へと入って行った。
そのまま口元を手で隠しながら小さな動きで咀嚼し、
「 ふ ぇ … … ? 」
少し落ち着き始めていた顔の赤みがぶり返し、その声と共にナージャはベッドの上へと倒れ込んだ。
「ナージャ様!?」
……まさか本当に毒を仕込んだのかあの贱人……!
「……くぅ……」
「は」
慌てて駆け寄って抱きかかえ顔を覗き込めば、ナージャは顔を赤くしながらも穏やかな寝顔で寝息を立てていた。
「……酔っただけ、か」
……ああ、心臓に悪い……!
先程までとは違って嫌な響き方をする心臓を抑えながら、一诺は深い安堵の溜め息を吐いた。
腕の中にある重みと温もり、寝息と共に僅かに振動する、生きた体。痛みを感じさせないよう気をつけながら、しかし強くその体を抱き締める。
「……本当に、良かった」
万が一があったら。そう思うだけで血の気が引き呼吸が浅くなり、頭がガンガンと頭痛を訴えた。幸いにもナージャはただ酔って眠っただけだったが、もしこれが毒だったら。そう思うと酷く恐ろしくなった。
「ナージャ様。ナージャ様。どうかあなたに幸いがありますように」
ナージャを抱き締め顔を伏せ、縋るように一诺は祈る。
「俺を救ってくれたあなたに幸あれ。幸福あれ。祝福あれ」
もしもを想像し内臓が引き攣れるような感覚の中、吐きそうな不安を抱きながら一诺は願う。
「あなたは俺の希望なんだ。俺の全て。あなたが幸せを感じながら生きてくれる事こそが俺の幸福。どうか幸あれ。無事であれ」
腕の中の温もりを狙っている豚が居ると知っている。その清らかな体を狙う下衆が居ると知っている。穢そうとする存在が居ると知っている。心を壊し体と全てを奪おうとする外道が居ると知っている。
一诺は、酷く鈍い汗を掻きながら酷い顔色になっていた。
……俺は守る。守るんだ。憧れの侠客のように守ってみせる。守り切る。俺の全てを懸けて、絶対に。
本当に守れるのか。刺客として近付いた自分が。そんな声が脳内を巡り、ガンガンと内側から痛みを訴える。
「……祝你幸福」
やり遂げる。やり遂げてみせる。腕の中の温もりに何度目かの誓いを立て、不安を追い出した。
「晚安」
すよすよと寝息を立てているナージャをベッドに寝かせ、布団を掛ける。
……ただ寝ているだけ、だが。
いつ起きるかわからない。体の具合は大丈夫なのかもわからない。不幸中の幸いは、菓子用の僅かな酒だった事くらいだろう。
「……早く、何事も無く目覚めてくれ」
そう言い、一诺はナージャの前髪に軽く触れるだけのキスを落とした。額には出来ない臆病者の口付け。けれど、ナージャに幸あれと願う想いは本物だ。
ベッドの横にある椅子に座り、一诺はナージャの白魚のような手を両手で握る。
……ただ酔って寝ただけだろうが、もし具合を悪くしたら……。
キリキリカチャカチャ。
室内の時計の歯車がやけに響く中、一诺はナージャを見守る。夕焼けが落ちて日が暮れて、月が昇っても。一诺はすやすや寝息を立てるナージャの寝顔をずっと見ていた。
・
朝日が昇り部屋が明るく照らされる頃、ナージャの長い睫毛がふるりと震え青空のように美しい瞳が姿を見せた。
「……ええと、あれ?」
「お目覚めですか、ナージャ様」
一晩中ナージャを見守っていた一诺がそう問い掛ければ、昨日の記憶が曖昧なのかナージャはきょとんとした顔になる。
「具合が悪いなどはありませんか」
「いえ、特にありませんが……」
「……良かった」
……本当に、良かった。
一诺はナージャの手を握りながら、安堵に背を丸めその手に額を押し付ける。温かいその温もりが伝わってきて、不安に凍えていた胸の奥がほんのりと温かくなった。
そんな一诺の様子を見て、よくわからないと言いたげにナージャは首を傾げる。
「……私、どうしたんでしたっけ?」
「アルコール入りのチョコレート一つで酔い、眠りに落ちました」
「うわあ……」
ナージャ自身もそこまで酒に弱いと思っていなかったからか、一诺の言葉に苦笑を浮かべていた。
「あ、もしかしてそれで一诺、ずっと部屋に?」
ナージャの言葉に、一诺は一瞬ピタリと止まる。
「……申し訳ありません」
「え?」
……年頃であるナージャ様の寝顔をずっと見ていたというのは、気味悪く感じられるだろう。
「不快だったでしょう」
「な、何がです?」
「……一晩中、寝顔を見られる、というのは」
それを肯定する顔を見たくないと目を伏せる一诺の言葉に、ナージャは本気で言葉の意味がわからないとでも言いたげな表情になった。
「それ、私がチョコに入っていたお酒で倒れちゃったからですよね?」
「!」
一诺はその言葉に、思わず目を見開く。
確かにその通りであり、それこそが事実。だが年頃の乙女であるナージャからすれば、それで納得するのは難しいという気持ちもあるだろうに。
「万が一が無いようにと、一诺は自分の睡眠まで削ってくれました」
なのにナージャは聖母のように優しい微笑みを浮かべ、握られていない方の手指で一诺の目の下を軽くなぞるように撫でた。
「申し訳ない気持ちや感謝の気持ちが溢れはしますけど、不快だなんて思いませんよ。寧ろ一晩中心配を掛けてしまって、すみません」
「……いえ」
へにゃりと笑うナージャに、一诺はどうにかそう返す。
……很高兴。
察してくれた事が嬉しい。理解してくれた事が嬉しい。受け入れてくれた事が嬉しい。無事であった事が嬉しい。色んな嬉しいが胸の中からあふれ出て、胸の奥をその嬉しさがぎゅうと締め付ける。
心地良いかはわからないが、胸の奥がぽかぽかして嫌じゃない感覚だった。
「……本当に」
心からの安堵で、声が震える。
「何事も無く、幸いでした」
「……ありがとうございます」
「次からは二度と酒入りなどという猛毒物はナージャ様の前に出しません」
そしてリーリカによる提供物も全て拒絶するようにしなくてはいけない。
……あれは本当に油断ならん。
「わ、私が特別弱いだけで猛毒物では無いと思いますよ?」
「特別弱いナージャ様からすれば猛毒物に等しい物です」
フォローしようとしていたナージャだが、一诺の言葉を否定出来ずに何とも言えない顔になっていた。
「ぅぁ」
「おや」
途端、意識だけではなく体も起きたのか、ナージャの腹から小さな音がした。ナージャは咄嗟に腹を押さえ、その顔を昨日のように真っ赤に染める。
「……そうですね」
……腹が空くというのは、健康的な証拠だ。
「では食事の準備を致しましょうか」
ナージャの具合が悪いとかも無さそうな事に安堵し、一诺は柔らかい微笑みを浮かべてそう言った。
「しっかりと、けれどサッパリとした物にしましょう」
「あ、ありがとうございます」
一诺が立ち上がり食事の準備をしようと扉の方へ歩き出せば、ナージャも起き上がろうとし、
「じゃあ私はその間に、着替っ!?」
酒がまだ残っていたのか足に力が入らなかったらしく、綺麗に床に倒れ込んだ。額が床とぶつかったのか、ゴヅンという鈍い音が部屋内に響く。
「………………忘れてください……」
「そういうわけにもいきません」
床の上で小さく丸まろうとするナージャにそう声を掛け、一诺はナージャの細い体を抱き上げる。
……あまりにも予想外過ぎて、間に合わなかった。
ナージャの前髪を指先で払いその額を確認しつつ、一诺はそう思った。ナージャの白く美しい額は、床とぶつかった事で赤くなってしまっている。
腫れてはいないが、一诺がもう少し素早く反応出来ればこんな怪我もしなかったのではと思うと何とも不甲斐無い。
「……腫れてはいないようですが、赤くなってしまっていますね。冷やしますか?」
「いえ、えと、ちょっと痛みはありますけど、でもそこまでじゃないので大丈夫、です」
……痩せ我慢をしている時の表情では無いな。
「了解」
ちう、と。
一诺は無意識にその額に顔を寄せ、口付けを落としていた。
「ひゃ」
「いっそこれで治れば良いのですが……やはりそうは行きませんね」
すり、と親指で口付けを落とした額の赤み部分を撫でる。
「ですが今ので少しでも、はや、く、に……」
ナージャと目が合った瞬間、逸らされる。あまりにあからさまな目の逸らし方に何かしてしまったかと寝不足で回らない頭を働かせ数秒程かけて行動を思い返し、
「ァ」
一诺はナージャの額にキスをしてしまった事に気が付いて、引っ繰り返った小さな声を上げた。
……バカか俺は……!
寝ているナージャの前髪や手の甲などに時々口付けを落としていたせいで癖になってしまっていた。徹夜をした為寝不足で頭が回っていなかった。ナージャが無事起きた事への安堵で気が抜けていた。腫れてはいないが痛みがあるだろうその赤みが早く引けば良いと思った。
そんな理由が一诺の脳内をぐるぐると駆け巡る。
……そんなものを口に出しても、ただの言い訳でしかない。
事実だが、だからキスをして良いとはならないだろう。
いっそ奶奶が幼い頃にこうしてくれた、こういうおまじないを教えてくれたと言うべきか。そんな案が一瞬一诺の脳裏に浮かぶが、即座に却下した。だってそんな事実は無いという事を、一诺自身がよく知っている。
頭を撫でてくれた事はあっても、額にキスを落とされた覚えは無い。
……ここで俺が偽りを奶奶の言葉として伝えれば、全てが嘘になってしまう。
祖母の言葉は、今も一诺の中に根付いている大事な言葉ばかりである。
ナージャにもそれを伝え、共有している。だから一诺が言えばナージャは信じるだろうが、嘘を混ぜる事は良くない事だ。
「信用は崩す事こそ容易いが、築くのは酷く大変なもの。一つの嘘と九十九の本当。一つの本当と九十九の嘘。そのどちらが嘘と認識されるかと言えば、両方が嘘と判断される。毒に水を一滴垂らそうがそれは毒。湖に毒を入れればそこは毒に侵され毒の水になる。本当を言えとは言わないが、嘘は猛毒だ。使いどころを誤るな」
そう、祖母はそう言っていた。
ここで一诺が祖母の言葉を偽れば、祖母の言葉は全て作り話になってしまう。偽りとはそういうものだ。だから言えない。言いたくない。
……毒は、分家当主にだけ。
毒を主に用いるなどあり得ない。用いるならば敵相手。使いどころを誤るなとは、そういう事だろう。
「も、申しわけありません!」
だから偽らず、一诺は即座に謝罪した。寝ている際無断で、前髪越しや服越しであろうと勝手な口付けだけで完全にアウト。だというのに起きているナージャに対し、勝手にキスをしてしまった。
額であろうと、使用人がして良い行為では無い。
「今のは、その、つい、いえ、あの」
「だ、大丈夫です!心配してくれたのわかってます!|今の一诺は睡眠不足でもあるんですから無理もありません!寧ろそこまで無理をさせてしまってごめんなさい!」
「いえ、ちが、今のは、あの」
言えない。
嘘は吐けない。吐きたくない。けれど本当の事も言えやしない。自分の気持ちがどれだけ重かろうと、ナージャがそれを軽く受け止めて流してくれるなら良い。けれどナージャは軽い気持ち相手でも重く受け止めてしまう。一诺はそれを知っている。
重荷を背負わせてしまうとわかっているから、言えない。
「……すみませんでした」
言うに言えず、一诺は頭を下げて鈍い汗を掻きながらそう告げるだけで精一杯だった。
「いえ、気にしないでください」
「従者失格です」
寝ている間に勝手に口付けを落としている時点でアウトだろう。挙句にこの失態。クビにされても文句は言えない程の行いだ。
「そんな事はありません」
一诺の頭に、何かが触れた。細い手指が一诺の髪を梳くように撫でる動きから、それがナージャの手だと理解する。
ナージャの声は、とても優しい声色をしていた。
「寧ろ」
頭を下げたままの一诺には見えないが、ナージャはへにゃりとした笑みを浮かべる。
「えへ」
それはとても嬉しそうな、幸せそうな笑みだった。
「ちょっと、嬉しかったです。早く治るようにってやってくれて」
その言葉に一诺の胸の中に感情が溢れ、一気に胸の内側からの圧が強くなる。体温が上がる。嬉しいと叫びたい気持ちが暴れ出すのを、一诺は必死で抑え込んだ。
あまりにも胸の奥が焼けるような、焦がれるような熱が湧き上がる。
……どう、すれば。
喜びのあまり、自分が情けない顔をしているのがよくわかる。嬉しくて緩んでいて、喜びで泣きそうな、そんなくしゃくしゃな顔。歪な顔。そんな顔は見せたくない。
一诺は感情や熱が落ち着くまでの数分間、ナージャに頭を下げたままの体勢で居た。
一诺は考え込み過ぎている上にマイナス思考なので内面が結構面倒臭いタイプ。




