一诺は素晴らしき秘密を得る
三年生になってからというもの、ナージャは酷く憔悴していた。
普段ならば下校時はもう少し余裕があり、多少疲れていても一カ所くらいであれば寄り道をするくらいは出来たのに。今日に至っては帰り道で会話をする余裕も無い程だった。
一诺は、それが心配でならない。
「……うぅ……」
自室に帰って来たと同時、ナージャはベッドに一直線だった。
疲労のあまりそのまま倒れ込むだろうと判断した一诺は流れるような動きでナージャの上着のボタンを外し、脱がせる。普段ならナージャは脱がされるのが恥ずかしいのと申し訳ないという感情がある為自分でやると言うだろうが、されるがまま一诺に身を任せて上着を脱いだ。
……これは、相当だな。
自分で上着を脱ぐ余裕すらも無い程に憔悴しているナージャを見て、学校関係ではほぼ出来る事が無い一诺は内心歯噛みする。せめて何か出来る事があれば良かったのだが、学校という場所に関してはどうにもならない。生徒でも教師でも無い一诺は、部外者でしか無いから。
上着を脱いだナージャは、そのままぼすりとベッドに倒れ込んだ。
「今日はまた、随分とお疲れですね」
脱がせた上着をハンガーに掛けつつ、一诺は言う。
「学校で何かありましたか?」
「……色々と……」
その声は酷く疲れ果てていた。出会ったばかりのナージャがまだ幼い頃も疲れ果てた笑みを浮かべていたが、まるであの時のように思える。
……ようやくナージャ様が気負わず笑えるようになってきたというのに……。
長年かけてナージャの心に安らぎを与えてきた一诺としては許せない。酷くはらわたが煮えくり返るような心地だった。
折角、折角ナージャの心にある拘束を解いてきたのに。
ナージャは聞き分けが良すぎるからこそ、心を拘束されていた。他人の何気ない言葉やナージャ自身の価値観で雁字搦めになっていた。一诺はそれを一つ一つ解きほぐして来たのだ。十年以上の時間を掛けて。
なのに、ナージャは酷く憔悴している。
……恐らくは、例の特待生。
ナージャとの会話で出て来る頻度が高く、ナージャが苦手としているだろうタイプ。その上ナージャに懐いているというのだから厄介だ。
……ナージャ様が素晴らしいと見抜くのは当然だが、それでナージャ様に心労を掛けるというのが腹立たしい……!
一诺は内心で舌打ちをした。
どうしてナージャの傍には理解者が現れないのだろう。どうして、ナージャにとって好ましくない動きをする者ばかりなのだろう。
……俺が、それを望んでいるから、か……?
理解者が一诺一人であれば、ナージャは一诺だけに心を開く。そんな浅ましい願いが無いとは言い切れない。一诺のそんな浅ましい思いが、天に届いたとでも言うのだろうか。
……それは、無いな。
そんな願いは却下する。叶って欲しい願いはただ一つ、ナージャの幸せ。ナージャ自身が幸せだと思える未来。一诺が願っているのは、それだけなのだ。
勿論その時一诺がナージャの傍に居る事が出来ればと思わなくはないが、それは二の次で良いだろう。
「…………懐いてくれるのは、嬉しいんです」
力の無い声で、ナージャはそう言う。ベッドに横になって、その辺りの空をぼんやりとした目で見ながら。
「そう、嬉しい。嫌われたくはありませんし、好かれる事は良い事ですから」
「本当にそう思いますか?」
圧を掛けないよう、一诺は目を細める。
本当はそうは思っていないのだろう。本当は良くないのだろう。本当を、一诺は知っている。そう告げるように笑みを浮かべる事で、ナージャが自分から言いやすいように。
そも、ナージャの青空を詰め込んだような髪色と同じく美しい青色をした瞳に影が差している時点で、それが本心では無い事が丸わかりだった。
……澄んだ青空のような瞳だからこそ、ナージャ様の美しさが映えるというのに。
どんな目をしていようと、ナージャはナージャ。けれど、澄んだ青空のような瞳こそがナージャ自身の素の瞳だ。こんな、感情を抑え込んで無理矢理自分だけでそれを飲み込もうと我慢した時の目は見たくない。
出会ったばかりの頃の、誰にも期待出来ない目は見たくないのだ。
「………………」
一诺がナージャの本心を理解していると察したのか、ナージャは一诺に視線を向けてへにゃりと笑った。一诺だけが知っている、ナージャらしい本当の笑顔。
「……正直、懐かれて困ってます」
「でしょうね」
これでも情報収集は得意な方なので、それはよくわかる。
一诺は記憶力が良い。その記憶力は分家の劣悪な環境の中で生き抜く為に自力でどうにか鍛え上げたものだが、情報収集にはとても役立つ。一目見れば暗記し、一度聞けば覚えて置けるのだから。
そして、世間話というのは最高の情報源だ。
基本的に一诺は自分で買い出しに出かける。ナージャと自分の分の食事は東洋風である為、東洋の食材を取り扱っている店に行く必要があるのだ。それらを直に買いに行き、他にも必要な物や土産などを購入する。
土産は、主に本などだ。
……疲弊が凄まじい分、ナージャ様は外出をする程の余裕も無いからな。
だから本屋に行って、ナージャが好みそうな本を買って土産として渡す。一诺が来る前は子供は子供らしく外で遊んだ方が良いからと言われ、ナージャは本を読ませてもらえなかったらしい。静かに本を読む事を好むナージャからすれば、それは娯楽を奪われるに等しい所業だっただろう。
故に幼いナージャは一诺に甘える事を覚えてから、寝る前に絵本の読み聞かせをねだった。
それはとても控えめな願いだった。けれど、今までそれすらも願えなかったのだろうとも思った。今でこそナージャはもう大きいので読み聞かせはしていないが、十歳を超えるまではほぼ毎晩読み聞かせをしていたものだ。
その為一诺は、ナージャが好む傾向の本もきちんと把握している。
……ナージャ様は人気の本よりも程々の人気で、恋愛物や冒険譚よりも雑学が豊富な本を好む。
勿論冒険譚や恋愛物も、ナージャは読む。
けれど強い英雄が強い武器と強い仲間と共に強い敵を倒す冒険譚よりも、地味に様々な雑学を用いるという生活感に満ちていて、戦う事を避けつつ目的地に行こうとする冒険譚の方を好む。
恋愛物も同様に、大人気である燃え上がるような恋の話はあまり好まないらしい。
……読むと勢いが強過ぎて疲れるから、と言っていたな。本当にナージャ様らしい意見だ。
思い出す度に微笑みが零れそうになるくらい、その時のナージャは微笑ましい笑みを浮かべていた。
閑話休題。
情報収集についてだがそれは購入時に店主や店員と少し話せばどうにかなる。世間話でそういえば、と言えば大体は自然な流れで聞き込みが出来るものだ。特に暇をしている女性や噂好きの少女、話し好きの男性などはよく話してくれる。
ナージャと同級生くらいの年頃でありそこらの店で働いている子などは特によく話してくれるからありがたい。
……学校の中の事まで教えてくれるのだから。
もっとも娘や息子から聞いたと言って、店主などが教えてくれる事も多々あるが。
ちなみに一诺、町の人達とは結構良好な関係を築けていた。ナージャに害が無いよう情報収集を怠らない為というのも大きいが、分家からのスパイじゃないかと疑われないのは、一重に分家での扱いが酷過ぎたせいだろう。
分家に居た頃の一诺は、それはもうみすぼらしかった。
同じ東洋人で年頃も同じとなれば、同じ町である以上分家に居た者だとすぐにわかる。買い出しにも出されていた為、それなりに顔を見られてはいたハズだ。けれど本家に雇われる為に一诺は身嗜みを整える事になった為、町の人達からするとイコールで繋がらなかった。
みすぼらしい東洋人と身なりが整えられている東洋人では、別人として映ったのだろう。
……万が一分家からのスパイじゃないのかと言われでもしたら、全てが終わる。
一诺は分家を裏切ったが、それを知っているのは一诺だけ。偽りの情報を流していると知っているのも一诺だけなので、それが本当に偽りの情報だと保証してくれる存在など居ない。
流された情報を確認すれば本人であるナージャは気付くだろうが、大事にされているナージャにそんな事が伝えられるはずもない。
つまり一诺は、バレた途端にアウトなのだ。他人から見れば、刺客であり続けているから。バレた瞬間に崩壊して、一诺はナージャに二度と会えなくなるだろう。
それだけは、嫌だ。
……こう思うと、分家での扱いが酷だったお陰とでも言うべきだろうか。
お陰で分家から本家に来たとは発覚せず、命を捧げたいとさえ思う主に出会えたのだから。もっとも一诺はナージャにもそこまで明かしていないので、誰もそれを知らないが。流石にナージャ本人に言うには重過ぎるだろう、と一诺は思っていた。
本人と、神のみぞ知る事だ。
「私、あの特待生が苦手です」
一诺がクローゼットから出したナージャの寝間着を椅子に掛けている時、ナージャはぽつりとそう言った。
「ぐいぐい来るし、声が大きいし、全然引いてくれませんし……」
ぎゅ、とナージャはベッドに倒れ込んだまま眉間にシワを寄せた。
「……多分、私が心を開きたいって思ってて、仲良くしたいって思っていたら、大丈夫な相手なんです。でも私、心を開こうとか、仲良くしようとか、思ってないです。怖いし、大変だし、そういう事に使うような体力も気力も無いですし」
……ああ、知っている。
ナージャの心の壁は酷く分厚い。一诺もそれはよく知っているし、一诺だけがそれをよく理解している。ナージャが心を開かない相手は、皆ナージャの愛想笑いを見抜けない者達ばかりだから。
だから、ナージャは心を開かない。
……もっとも、愛想笑いを見抜く人間が居たところで、歩み寄ろうとせずにずかずか入り込もうとする輩が相手の場合はより分厚い心の壁が形成されそうだが。
ナージャはそういう性格だ。
「他人と関わる事が苦行でしかないナージャ様からすれば、強制的に他人と関わる事になる学校は苦行の場でしかないでしょうからね」
学校に通えない生徒も居る。金銭的な問題だったり家庭の事情だったりとその理由は様々で、その為特定の年齢になったら必ず学校に、という法律は無い。無いが、折角なんだから学校に行くべきだと本家当主と奥方は主張した。
「ナージャにようやく同年代の子の友達が出来るかもしれないしな!」
本家当主は輝かしい笑顔でそう言った。随分と眩しくて、善意に満ちていて、まるで直視すれば目が死ぬ太陽のようだった。
太陽とは、適切な距離を保っていなければ灼熱過ぎて害しか無い存在だというのに。
「そんな中でもっと頑張れというのは、実質死ねと言うのと同じ事」
……このままだと本当に眠りかねないな。
一诺はナージャに覆いかぶさって抱き締めるようにして、抱き起こす。完全に体から力を抜いているナージャに一番負担が無い起こし方がこれだった。
役得だと思ってしまったのは、否定出来ない事実だが。
「…………」
ほぅ、と息を吐いてナージャはそのまま一诺にもたれ掛かる。
座る体勢も維持出来ず、誰かにもたれ掛からないといけない程にナージャは疲弊しているらしい。一诺はそう思い、ナージャの背に腕を回した。
使用人がして良い行動では無いが、ナージャが受け入れているのだから良いと思おう。
……誰にも触れようとしたがらないナージャ様が俺にだけこうして身を委ねてくれるというのは、男冥利に尽きるが……。
同時に、胸の奥が締め付けられる。異性として認識されていないようで、ギリギリと痛む。仮に異性と認識されていたとしても、使用人と貴族では結ばれるはずもない。こうして背に腕を回す事は出来るというのに、到底手が届かない相手。そう思うと、一诺の心はちぎれそうな程に締め付けられた。
けれどそんな感情を抑え込み、薄く引き伸ばして他の感情に混ぜ込む事で誤魔化す。
「……だから、無理をしなくても良いのですよ」
……あなたに無理を、してほしくはない。
泣いている幼いナージャにやったように、あの時よりも大きくなったナージャの背をぽんぽんと軽く叩く。大丈夫だと伝えるように。
「……本当に、嫌なんです」
昔と違って泣いてはいないけれど、泣きそうな声でナージャは言う。
「特待生は良い子で、それはわかってます。わかってますけど、駄目なんです。とにかく苦手で、苦手で、嫌なんです。仲良くなれないし、仲良くもしたくありません」
漢服に着替えていない為まだ使用人用の服を着ている一诺の上着を、ナージャはぎゅうと強く握った。きっとシワになるだろうが、それで良い。
シワになるのを気にして掴む事も縋る事も出来なかった幼いナージャを想えば、こうして掴めるようになれたのは大きな進歩だ。
「もし私が仲良くしたいという気持ちを秘めてたら、きっと丁度良かったんです。でも駄目なんです。私、私が隠してるのも、事実です」
そう、ナージャの心の壁は分厚い。分厚いから、心を開いている一诺以外に本心を話す事も無い。
「でも、誰も、一诺みたいにわかってくれないんです。私、嫌なのに。一人にしてって言っても、誰も聞いてくれません。確かにあんまりそういう、嫌な気持ちとか、出さないようにしてますけど、でも」
「大丈夫ですよ」
艶のあるナージャの青い髪。そのキューティクルに沿うようにして、一诺はナージャの頭を撫でた。
「苦手な物は仕方がありません。無理な物は無理で良いんですよ」
「……良いんでしょうか」
「アレルギーがある物を無理に食べても苦しいだけでしょう?それと同じ事です」
無理なものは無理なのだ。
一诺だって分家当主と仲良くしろと言われたら普通に無理だし、向こうだって嫌悪する東洋人である一诺と仲良くなど絶対に無理だろう。どうしてもというならあの見苦しく醜い性格がもう少しどうにかなれば、と一诺は思う。あちらもきっと、一诺が東洋人で無ければと思うはずだ。
要するにアレルギーを発症する成分がどうにかなれば、と言うようなもの。
……結局アレルギーと大して変わらないからこそ、相容れない相手は相容れない相手のままだろうな。
そもそも仲良くしたいとも思わない。
「無理をして苦しむより、無理をしないようにして心を安らかに保つ方が良いと私は思いますよ。もっともナージャ様がアレルギーがあろうとその食べ物が好きと言うなら他に手を考えますが」
「全然好きじゃないです!」
基本的に言葉を口に出すまでにシンキングタイムを必要とするナージャにしては珍しく、間髪入れずにそう叫んだ。普段なら数秒は脳内で口に出す言葉を精査するはずなのに。
けれど、いつものように考える時間を取れない程に無理なのだろう。
……ナージャ様は相手を傷付けないようにと、口に出す前に言い方を考えてトゲを削って丸くしようとする傾向にある。
だから言いよどむ事が多く、相手に待っていてもらわないと焦ってしまってより一層言葉が出ない。それはどう言えば良いかを頭の中で構築しないと口に出せないからだ。
そんなナージャが、耐えられないとばかりに叫ぶ。
「もう、もう姿を見るのも声を聞くのもしたくないくらいには嫌なんです!」
叫んでから、ナージャは言ってしまったとばかりに硬直した。ナージャを抱き締めているので一诺からナージャの顔は見えないが、きっと青褪めているのだろう。普段言わないように心掛けていた事を言ってしまった事実に怯えているのか、ナージャの体は強張っていた。
そんなナージャを、一诺は静かに抱き締める。
「なら無理という事で良いと思います。私は」
それが当然だと言うような声色で、一诺はそう告げた。ふ、と強張っていたナージャの体から力が抜ける。ナージャの体は再び一诺に体重を掛けた。
「イヤならイヤで良いんですよ。断る理由が無くて断れないなら、「使用人の一诺があまり他人と関わるなと言っていた」とでも言えば良いのです」
「……でも、それだと」
それだと一诺が悪者になってしまう。ナージャが体を起こそうとしたので、そう言いたいのだろうと一诺は察する。けれど別に本心では無いというわけでは無いので、良いのだ。
そう思い、一诺はナージャの頭を撫でるように押さえてそのまま肩に頭を預けさせた。
「悪者が居た方がわかりやすいのですよ。他人がそう言っていたからというのは理由として丁度良い。事実、ナージャ様の心に負担を掛けるような方とは無理に交流してほしくはありません」
「……一诺は、そう思ってくれますか?」
「はい」
不安げなナージャと目を合わせ、本心からそう思うと伝える為に一诺は薄く目を細めて微笑んだ。
……いっそ生理的に無理だとハッキリ言い放つ事が出来れば良いが、ナージャ様にそれを言わせるのは酷だろう。
酷というか、無理だという事がすぐわかる。
ナージャはそういうキツイ事が言える性格でも無い。下手にそういったキツイ事を言うのは、学校生活がまだ丸っと一年ある分面倒だ。ただでさえナージャは人付き合いを苦手としているのに、そのハードルを無駄に上げるというのは愚策にも程があるのだから。
「誰かと仲良くしている方が幸せだろう、とは思いません。それは誰かと仲良くする事が幸せな者の価値観です。ナージャ様はナージャ様しか居ないのですから、ナージャ様が幸せだと思える選択をすれば良いのですよ」
誰しもが己の価値観という尺子を持ってはいるが、人によってそれは様々。卵料理が好きな人間も居れば卵料理を嫌う人間も居るように、価値観は同じでは無いのだ。
ナージャの幸せはナージャ自身が幸せに思えるもの以外、全て他人の尺子による押し付けでしかない。
「…………でも、私、幸せな選択肢、わからないです」
普段から我慢しているナージャだから、わからないのだろう。自分の主張をしないようにしていた結果、自分の求めているものがわからない。
けれどそんな事、ナージャを見て来た一诺だってわかっている。
「そういう時は逆转主意」
「?」
だから、こう言う。
「イヤだと思う選択肢を拒絶していけば良いんです」
「……成る程……!」
例えば何が食べたいかと聞く時。
そんな漠然とした聞き方をしたら、何でも良いと答える他無いだろう。具体的にこういう材料で作れる物はアレとコレとソレだ、と言っているならばともかく。
そういう時は、何が食べたくないかと聞けば良い。
……そう聞けば、今日は胃に重い物はちょっと、と言える。
嫌だけど相手が好みなら、と思うタイプがナージャだ。けれど嫌は嫌で良い。それが好きだという事を否定する必要は無いが、ナージャ自身が嫌ならナージャだけでもそれを断ればそれで良いのだ。無理に付き合う必要などは無い。
消去法なその考え方はしっくり来たのか、ナージャは帰って来てから初めて明るい笑顔を浮かべた。
「…………ふふ、何だか、ちょっと元気が出てきました」
そう言ってクスクスと笑えるくらいには、ナージャの心は軽くなったらしい。その微笑みに、一诺は安堵に胸を撫でおろす。
ナージャに笑みを浮かべるだけの余裕が出来た事に、安堵した。
「ありがとうございます、一诺」
「いえ。私はナージャ様のその笑顔が見たいだけですので」
「あは、口説き文句みたいですね」
……そのつもりも多少あったがまったく意識されていないな。いや、口説き文句のようだと認識されただけ好极的。
異性としての意識が皆無では無いのだろうと思い、一诺は重畳だと笑みを深めた。
「……ん」
ナージャの頭がかくんと揺れる。
「あ、でも、気が抜けたらまたちょっと、眠くなってきました」
「寝間着は出してありますから、お休みください」
一诺が着替えさせても良いが、ナージャは昔から着替えさせられるのを恥ずかしがる。今は思春期で年頃なのだから尚の事だろう。
そう思い、寝間着は出してあるからすぐに着替えられるという事を告げた。
「ナージャ様は気を張り過ぎていますから。無理に起きていてもその状態では頭も動かないでしょうし、少し仮眠を取ってからの方が予習復習の為にも良いと思いますよ」
「そうします……」
船を漕いでいるのか頷いているのかわからないが、ナージャはかくんかくんと頭を揺らしながら髪留めを解こうとする。髪を結んだまま眠るのはと思っているのだろうが、眠気のせいか髪留めを捕捉する事すら出来ていなかった。
「……失礼します」
「すみません……」
このままだと先に寝落ちするだろうと判断し、一诺はさっとナージャの髪留めを解く。朝から結んでいたとはいえ元がストレートであり手入れもしっかりされている髪だからか、形状記憶かと思う程自然な動きでしゅるしゅると三つ編みが解けた。
それをぼんやり見ていたナージャは、眠そうに言う。
「……そういえば今日、髪に触れられそうになりました。特待生に」
「へえ」
一诺の喉から、思ったよりも低い声が出た。
……ナージャ様に心労を与えるだけでは飽き足らず、俺だけの特権を侵害しようとしたのか。
そうとしか思えない。
油断すると敵意が顔に出そうなので、顔に笑みを貼り付けた。いつものナージャならその違和感に気付くだろうが、今のナージャは寝落ち寸前なので大丈夫だろう。一诺はそう思った。
そもそも敵意を特待生にしか向けていない為、ナージャに敵意を向けていない以上警戒対象とは認識されないだろうが。
「その、つい、避けちゃいました。あまり触られるの好きじゃないですし」
「私が今触れているのは?」
……触れられるのが嫌だと言うなら、俺はどうなのか。
嫌ならナージャは嫌と言うだろう。一诺が相手ならば、特に。けれどナージャは髪と相性が悪く、上手く扱えない。上手く扱えないから仕方なく一诺に頼っているとしたら。嫌だけど、髪を梳いたり結んだりが出来ないという理由でやむを得ず一诺に頼んでいるのだとしたら。
それは無いと思っていても、一诺の頭にはどうしてもネガティブな発想が湧いてしまう。
「?一诺は好きです」
シンキングタイムも無しで、何を当然の事を聞いているのかと言わんばかりにナージャはそう言い切った。本当に自然に、そんな事も知らないのかと言うような声色で。
とても綺麗に透き通った、真っ青な瞳で。
「だから触れられても嫌じゃないですし、寧ろ一诺が相手だと、一诺が居るって思えて安心出来ますよ」
「それは良かった」
ナージャの言葉で、一瞬にして一诺の心が軽くなる。不安に霞がかっていた胸の中が、あっという間に晴れやかになった。嬉しさのあまり、にへらとしただらしのない笑みを浮かべてしまいそうになるのを根性で耐える。
もっとも嬉しさを堪えきれず、思いっきり笑みを浮かべてしまっていたが。
「それで、その時、どんな髪型でも似合いそうだって言われたんです」
自然に三つ編み状態から解けたと言っても多少癖が残っていたので、一诺は軽く梳いた方が良いだろうとブラシを手に取った。それを見てナージャも察したのか、完全にベッドの上へと乗りあげて一诺にその背を向ける。
さらりとした髪にブラシを通しながら、一诺は問い掛けた。
「違う髪型をご所望ですか?」
「いえ」
眠気のあまり時々ナージャの頭がかくん、どころかがくんと落ちている。
「ただ、一诺が好きな髪型が良いなって、思ったんです」
がくんがくんとなりながらも、確かにナージャはそう言った。
「だから一诺はどんな髪型が好みなのかが、気になって」
「……どのような髪型でも、ナージャ様はナージャ様ですから」
……ああ、愛おしい。
ナージャが一诺の好みを知りたいと思ってくれた事が、とても嬉しい。一诺は思わず手に取っている青く長い髪に、気付かれないようひっそりと口付けを落とした。
こうでもしないと、ナージャを抱き締めて愛していると伝えそうになってしまうから。
「どんな髪型にしていようとナージャ様がナージャ様である限り、私の愛するナージャ様です」
愛しているのはただ一人。一诺にのみ本当の笑みを見せてくれるナージャだけ。
「……えへ」
背を向けられているので、ナージャの顔は見えない。見えないが、とても愛らしい声だった。ふにゃりとした声で、きっと可愛らしい笑みを浮かべているのだろうと思わせるような。
……鏡の前ならば見えただろうか。
そう思うと、その笑顔が見れないのはちょっぴり勿体ないなと思った。
「ただ、出来れば髪を下ろした姿は私だけに見せるようにしていただければ、と」
ナージャは眠りに落ちかけている。聞こえていない可能性が高いし、聞こえていても覚えてはいないだろう。仮に覚えていたとしても、夢見心地のぼんやりした記憶としか残らないはず。
そう思い、一诺は溢れる想いを少しだけ口にした。
「折角ならその姿を独り占めして、私達だけの秘密として共有したい」
……他の誰にも見せたくはない。
「……ふふ、んふふ」
一诺の言葉に、ナージャはふにゃふにゃした笑い声を発した。
「……じゃあ、髪を下ろした姿は、ずっと一诺だけが知る秘密の姿、ですね」
「は……」
ナージャの体がふらりと揺れて、そのままぽすりとベッドの上に横たわった。どうやら完全に寝落ちしたらしく、規則正しい寝息が聞こえる。その顔を軽く覗き込めば、穏やかな寝顔をしていた。
「……犯规」
それは反則だろう、と一诺は顔を赤くした。直に三十路になるというのに、ナージャの言葉に翻弄される。顔が熱くて、じわじわとした汗が出た。
一诺は顔が赤くならないタイプだ。
本人に自覚は無いが、耳と首だけが赤くなる。なのに、顔が赤くなった。それはほんのりと赤くなった、血色が良くなった程度の赤さ。けれど耳と首が今までに無い程真っ赤に染まっている事からすると、今までに無い程照れたのだろう。
今までに無い感覚に人には見せられない顔になっているのでは、と一诺は思わず片手で顔を覆った。
……ああ、まったく!
歯を食い縛ってフゥゥゥと深い息を吐き、ぶわりと溢れ出しそうになるナージャへの好意を落ち着かせる。こんなタイミングで暴発させるわけにはいかないものだから。
……ナージャ様が俺の方を見ていなくて助かった……!
一诺は今まで、顔が赤くなった事など無い。けれど今は顔が熱い。きっと見せられたものじゃない顔になっているだろうと思うと、見られなくて本当に良かったと安堵した。
「……だが、このままというのは……」
ナージャはベッドに横になってすやすやと眠っているが、せめて掛布団を掛けた方が良いだろう。そもそも上着は脱がせても制服のままなので、シワになってしまう。
「…………失礼します」
そう声を掛けて、一诺はナージャのシャツのボタンを外す。
ナージャは時々疲労の余り制服のまま寝落ちする事があった為、そういった時は一诺がこうして着替えさせているのだ。ナージャとしてもそれが正解だと判断しているのか、嫌がった事はない。
「手間を掛けさせてしまってすみません……でも、あの、凄く、助かりました」
照れたように、恥ずかしそうにそうはにかんでいた。
使用人なのだから主を着替えさせるのは当然だ。けれどそれはそれとして、一诺はナージャを異性として見てしまっている。十以上歳の差があるというのに、だ。
「………………」
制服を脱がし終えて下着姿になったナージャを見て、一诺は眩しいものを見るかのように目を細めた。
手を出そう、などとは思わない。それをすれば分家の豚と同じ位置まで落ちてしまうから。そんな汚らわしい事は絶対に出来ないし、しようとも思わなかった。一诺はナージャの顔に掛かっている髪を指先で払いのけてから、椅子に掛けておいたナージャの寝間着を着せる。
寝辛いだろうからと首のチョーカーを外せば、花の飾りがしゃらんと鳴った。
「……ゆっくり眠っていてくれ」
ナージャに掛布団を被せ、その頭を撫でて一诺は部屋を後にした。
……確か、調味料が切れかかっていたな。
使用人服は外出着扱いであり、屋敷内では基本的に漢服を着る事にしている。けれど今日は帰ってからずっとナージャに付きっ切りだった為、まだ着替えていない。
折角だから、と一诺は調味料を買う為に町へと出た。
・
買い出しから戻り、一诺は思案する。
……買い出しに行く途中で感じたのは、間違い無く敵意だった。
下手に視線を向けたりしてそれに気付いたと知らせるのは悪手だろう。一诺はそう判断し、素知らぬ振りをしてそのまま歩いた。もし何かアプローチをしかけて来るなら、そのまま追いかけて来るだろうと思ったから。そうであるなら、その時に対処すれば良い。
けれど、何も無かった。
……ただ通りすがりに俺を嫌悪しただけか、俺に敵意を持ったものの今は好機では無いと判断したか……。
分家では東洋人嫌いばかりだった為、東洋人であるだけで敵意を向けられる事がある事は知っている。その可能性もあるが、長期的に一诺を仕留めようと隙を狙っている者が居る可能性もあるだろう。
普通、狙われるなら貴族であるナージャだ。
けれどナージャは一诺によって守られている。ならば守る側であろう一诺を先に仕留めようとするのは道理だろう。仕留めないにしろ、その生活を観察してパターンを見抜くというのも立派な手だ。
……射人先射馬、擒敵先擒王。
本命を仕留める為に周囲からというのは、昔からある考え方なのだから。
……警戒するに越した事は無いだろう。
ここのところ、酷く不安な心地になる事が多い。何かしら嫌な予感を感じ取っているのかもしれない、と一诺は心持ちを新たにした。
「……一诺」
「カーナ様」
調味料を置いてからナージャの様子を見に行こうと廊下を歩いていると、カーナが声を掛けて来た。珍しいと思いつつ、一诺は使用人らしく頭を下げる。
……何か用でもあるのか?
カーナは基本的に自己主張をしない。ナージャのように感情を抑え込んだりもせず、ただただ流されるように生きていると一诺は認識していた。
いつも通りのぼんやりした顔で、カーナは口を開く。
「…………俺はさ」
ゆっくりとした口調だ。
「一诺が姉さんについててくれて、良かったと思うよ。姉さんは俺と遊んでくれなかったけど、それは姉さんの判断であって一诺が言ったわけじゃないし」
何が言いたいのだろう。
「……ああ、これじゃ伝わらないか。ええと、そう、俺は一诺と姉さんで駆け落ちでもすれば良いのになって思ってるって事」
「は」
「恋愛感情があるか無いかなんて俺は知らない。でも、お互い他の人の隣に居られないのは見てればわかる。まあ、父さんと母さんはわからないと思うけどな」
「……何を、言いたいのでしょう。申し訳ありませんが理解が出来ません」
紺色の、深海のような静かな瞳。その目でカーナは一诺をじっと見つめた。
「姉さんは特待生であるリーリカと関わりたくないんだろ」
「!」
「だったら関われないよう遠くに行っちゃえば良いと思ってさ。リーリカにはそこまでの機動力、無いから」
「……カーナ様は、私に何を言いたいのですか」
「姉さんがリーリカと接触せず、一诺と幸せになる。そうなってくれれば俺も幸せになれる」
廊下の壁に掛けられた時計が秒針を動かす。
「そうなってくれれば、そうすれば、俺の幸せが手に入るんだよ」
そう言って、カーナは一诺に背を向けた。
「俺は一诺みたいな人間になりたい。その為には二人に幸せになってもらわなきゃ困るんだ。その方が俺の幸せは完全な形で叶えられる」
顔だけが一瞬振り向く。カーナは薄い笑みを浮かべていた。
「言いたいのはそれだけ。一応、覚えておいてくれると嬉しいな」
言うだけ言って、カーナは立ち去った。
……駆け落ちなど、するはすが無いだろう。
けれど、ナージャがもし望んでくれたなら。同意さえあれば。うっすらとそんな考えが脳裏をよぎる。
キリキリカチャカチャ。
壁掛け時計の歯車がうるさい。笑っているかのような、手を叩いているかのような。まるで観衆が響かせる音のように、歯車が鳴った。