290 夜明けの約束
「……何故、そう思う」
私の「悪い竜」の話を受けて、アベルさんは慎重に聞き返してきた。
それに、私は確信を持って答える。
「アベル様は悪い竜ではありません。ならお話の中には、アベル様を悪い竜に変えてしまう悪い魔法使いが居たはずです。それはきっとあの皇子か、その後ろにいる人なのだろうと思ったのです」
それには同感なのだろう、アベルさんは沈黙で話を促している。
「イレ皇子がタロットを手にして何をしたいのかはわかりません。でも、おとぎ話の通りならばこの国に大きな混乱が訪れます。この国の皇子なのに混乱を望むなんて、正気ではありません。タロットが全てその手に渡ったら良くない事が起こります」
「……そうだな」
金薔薇にはRPGパートがある。
つまり……戦闘がある。
そして貴族の陰謀があり、魔法があり、ラスボスと称されるアベルさんがいる。
ということは、戦争、あるいは内乱、クーデターのようなものがシナリオに組み込まれていてもおかしくは無い。
「隷属の魔法をかけられて〝悪い竜〟になってしまうのか、あるいは知識だけ抜き取られるか、相当な弱みを握られて自ら竜になってしまうのか、それは分かりません。でもいずれにせよ最悪なことになってしまうでしょう」
これを、これらを説明したかった。
……言いたく、なかったけれど。
こんなことを、アベルさんにだけは、本当は頼んではいけないのだけど。
これを頼めるのは、側近たちでもなく、事情を知るようになったばかりのレイ先生でもなく、アベルさんしかいないと思うから。
「だから、もし私が悪い竜になってしまったら……大好きなこの世界に害をもたらす前に。そのきっかけになってしまう前に殺してほしいのです。そしてイレ皇子を止めてほしいのです」
……今日の出来事を通して、私は確信してしまった。
この世界には夢があって、魔法があって、きらきらしていて。
そして思っていたよりずっと残酷だということを。
それはルージに呪われていた時も感じたし、アベルさんに襲い掛かった不幸のことを考えても、レイ先生の事情などからでも分かることだ。
この世界には、等身大の残酷さが溢れている。
人間の私利私欲や陰謀が渦巻いて、予告もなく人が人を不幸にする。
そういう恐ろしい場所だ、ここは。それは前世となんら変わらない。
知っていたはずのこと。
でも私は……今日、遅すぎるその事実を、一番身近に感じた。
それはきっと「ゲームのシナリオ」には無いはずの大きな危険を感じたからだ。
もうこの世界は、原作とはまるで違う方向に走り始めている。
ガブリエラは正義の悪役令嬢ではないし、私は中身が違うし、ローリエ様も、オルリス兄様も、レイ先生も、アベルさんも、主要人物の誰もかもが原作とは違う状態にある。
──だとしたら、この世界を危険に陥れるきっかけは、一歩間違えば私かもしれないんだ。
何故なら、私とアベルさんは似ているから。
禁断の魔術を知っている、訳ありな、ゲームのメインキャラクター。
その属性は近い。
なら、私が「原作のアベルさんのポジション」に……。
つまり、脅威の根源になってしまうことも、十分に考えられるのだ。
「私は拷問に耐える訓練なんてしていません。催眠や、毒や、あるいは見知らぬ魔術に抵抗できるか確証がありません。親や友達を人質に取られたら、正直言って何をするか分かりません。……だから、どうか約束してください」
祈るように言うが、アベルさんは酷く苦しそうに拒否した。
「嫌だ。それならいっそ、二人とも魔術の知識を消せばいい。モシュネの小箱だってある」
「駄目なんです。だってそれをしてしまったら、イレ皇子が今持っている力で何かを始めた時に、対抗することが出来なくなります。小箱だって破壊されたらそれまでです」
私たちはイレ皇子サイドがどれほどの力を持っているのかが分からない。
それだけじゃない、グラツィアーナだって何かを知っている。モシュネの小箱のことだって、所在は知らなくとも存在は知られている。
イレ皇子とグラツィアーナはどうやら一枚岩ではない……どころか密かに対立しているようですらあるけれども、どこでどう情報が錯綜するかはわからないのだ。
だから、敵の企みを阻止したいのなら最後まで知識を持っていなければいけないのだ。
それも、圧倒的な知識を。
それが諸刃の剣だとしても、イレ皇子サイドよりも、少しでも有利でいなければならない。
そう言っても、アベルさんは沈黙している。
答えてくれないことに焦りながら見上げる。
すると、ゆっくりとまばたきしたアベルさんの赤い瞳から……。
──ひと粒だけ、涙が零れた。
それがぽとりとアベルさんの手の甲に落ちて。
その手が痛々しいほど固く握りしめられるのを、私は見た。
「──悪い魔法使いがいるとしたら、それは君だ。君を殺せば私は悪い竜になるだろう」
その言葉に息が詰まった。
低く苦し気な声が響く。
「勝手な都合で私の心に入ってきて。後戻りできない程のぬくもりと、居場所と、言葉を与えておいて。殺せなどと……よく言える」
真っ当な非難の言葉に血の気が引いた。
指先が冷たくなる。
何も言えない。
謝罪と……それでも撤回できない懇願の言葉以外は。
「……ごめんなさい」
震える声でそう言うと、アベルさんは少し黙って。それから感情を殺した声を出した。
「君の為なら命が惜しくないと、私は言った」
「……はい」
その言葉の重み、それに対する私の不誠実な関わり方の罪を思い知る。
──意図が有って近づいたこと、それを聞かせたこと、ごめんなさい。
──無償の親愛を匂わせておいて、そうではなくて、ごめんなさい。
──よりにもよって、最もしてはいけないお願いをしてごめんなさい。
激怒されても、拒絶されてもおかしくないと思う。
そう思うくせに、私はアベルさんに許して貰えるんじゃないかと、こんな勝手をも受け入れてもらえるんじゃないかとどこかで思っている。
始まりはほとんど打算だったくせに。
なのに。
孤独で、善良で、見かけによらず世話焼きなアベルさんのことを……私はすっかり人として好きになってしまっていたから。
好きになってしまったから、好きでいてほしいと思うようになってしまったから。
こんなあり得ないお願いをしているのにも関わらず、全部許して一緒にいてほしいと願ってしまうのだ。
そのことを、もう一度「ごめんなさい」と零すように呟く。
するとアベル様は立ち上がって。
そして、縋るように……私を引き寄せた。
「よりにもよって、それを私に頼むのか」
はい、としか言えない。
苦しい。腕が、指が、強すぎて痛い。
でもアベルさんの方がよっぽど苦しそうだった。
「君は信じられないくらいに、勝手だ……っ」
……でも、約束してください。
そう、もう一度心の中で言った。自分勝手で、酷いお願いを言ってごめんなさいと思いながら。
「もちろん自衛します。でも、もし隷属の魔術をかけられそうになっても、拷問されたとしても。約束さえあれば、私は絶望せずにアベル様を待つことが出来ます」
私がそう言うと、アベル様の呼吸が一瞬止まった。そして数拍置いて、震える声が吐き出される。
「あくまで言うんだな」
「はい」
どうかと願いを込める。するとアベルさんは唸って。それからさらに低い声を出した。
「……わかった」
──了解の言葉を、引き出せた。
その瞬間に体の力が抜ける。
これで私が“ラスボス”になることはない。皆を害することも、危険な知識が漏れることもない。
……アベルさんは動かない。泣かせてしまったと思って覗き込もうとすると、アベルさんが唸るように言った。
「その代わりに君も約束しろ。私が捕らわれたら。あるいは利用されて、あるいは洗脳でもされて害になると判断したら……私のことは君が殺すんだ」
……ふむ?
「ヤです」
「な、んだと!?」
アベルさんがべりっと私を引きはがした。盛大なブチ切れマークが見える。
「今のはどう考えても頷くところだろう!」
「嫌です」
「頷け!」
「いーやーでーす。アベル様がもしピンチになったら、私が命に代えても助けに行きます。だからアベル様が死を覚悟する必要なんてないんです」
──言葉が出ない、という顔をされる。
それを良いことに畳みかけた。
「だからアベル様は、もし下手を打って捕まっちゃっても、弱みを握られても、絶望する必要なんて一切ありません。……何があっても、貴方は私が助けますから」
あえてにっこり笑ってそう言った。
……本心だけど、本当は、そうできる確証なんてないんだけど。
これから私は寄り道をせず、もっともっと本腰を入れて魔術やタロットの研究に集中する。
何があっても、今度こそ自分で対応できるように。
それでも確証はないんだけど……。
アベルさんのことだけは、何に代えても助けてあげたいと、そう思ったから。
ここまで来たら運命共同体だ。
「だって、私はアベル様よりたーくさんタロットを知っていますからね。アベル様にはできない事だって私にはできるんです。もしアベル様が悪い竜になっちゃっても、一撃撃破で奪還ですよ?」
あえてにんまり笑ってそう言うと、アベルさんは黙って目を瞬いて、それから眉をしかめて。
実に、頭の痛そうな顔をした。
イケメンにありがちな頭痛ポーズである。
「……ひとつ聞いていいか?」
「はい」
「そのおとぎ話の中でヒロインと結ばれるのは、君の方の間違いなんじゃないか」
「えっ、なんでですか!?」
まさかの百合ルート? いやいやそれはなかったはず。なんでそんなことを聞くんだ。
「そういう結末はなかったと思いますけど……」
「そうか。……いや、もういい」
アベルさんは疲れたように目元を覆ってしまった。
まぁ、今は悲しそうじゃないし……大丈夫かな?
そんな風に場が謎な空気になってしまったところで、部屋の扉が控えめにノックされた。
ヴィル兄様達だろう。思った以上に随分待たせてしまった。
鳥の声も聞こえる。
──窓の外を見れば、もう夜が明け始めていた。




