242 裏庭にて その③
「え……?」
ぱちりと目を開くと、目の前には美しい黄金色の毛並み。
逞しい体を怒らせ、毛をぶわりと逆立てて……吹っ飛ばされて気絶している様子のガブリエラに向けて、牙を剥くハディールがいた。
「ちょ……わー!! 待て待て、ハディ待って!」
めちゃくちゃ怒ってる。こちらが殺されるのもまずいが、ハディがガブリエラを殺すのはもっとまずい。そんなことになったら、ハディが地の果てまで追いかけられて狩られてしまう。
ガブリエラの心配? 私は別に聖人じゃない。でも流石に、死んでほしいとは思わない。
慌てて止めようとするが、腰が抜けていたらしく立ち上がれない。
「うぅ……。……え。……きゃああああ!?」
気絶していたガブリエラが、ハディを見て悲鳴を上げた。そりゃそうだろう、目の前に殺気を漲らせた巨大な虎がいたらそうなる。
そうなるんだけど、いいかげん人が来そうだから大声出さないでくれー! と内心頭を抱えつつ、ハディに語りかける。
「私は大丈夫だよ、落ち着いて! 落ち着いて、帰りなさい! いい子だから!」
そう語りかけるも、ハディは全く反応しない。重低音で怒りに満ちた唸りをあげ続けている。
……様子が変だ。
それを見た私の脳裏に、いつかのタレ目皇子の言葉が響いた。
――「〝君は本当に賢い子だね。……香というのは、最も分かりやすく、最も分かり難い受動的な魔術だ。もう少し気を付けたほうがいい〟」
「……!!」
さっき私は、ガブリエラが妙に香水臭いと思わなかったか。
もしあれがイレ皇子によるもので、そこに魔獣を興奮させる効果が仕込まれているとしたら?
主人を殺されそうになって怒っている上に、他者の手によって興奮状態にされたカロ種を誰が止められるだろう。
真っ青になった時、私の横の芝生をざっと踏む音がした。
「止まれ、ハディール!」
深緑色のコートが翻って、黒い革靴が見えた。
見上げる。
……そこにいるのは、どうか、どうか出て来てくれるなと願っていた、アベルさんだった。
こちらを見下ろしたアベルさんの真紅の目と、目が合った。そこに浮かんだ感情は読みにくい。
しかしどこか苛立っているようにも見えた。少し息切れしており、慌てて出てきたのかモノクルをしていなかった。
視線を移し、私の全身を見たアベルさん。最終的に切られて赤く染まった私の足を見たらしく、苛立たしげな様子をいよいよ明確にした。
やっぱり、怒ってる……。
ふいっと視線を逸らしてハディの方を向いたアベルさんが、なにかの呪文を詠唱する。
「〝炎と炎が触れ合う様に溶け混じり、汝と通じ合う事を我願う。君見ずや、頭上に月を引き下ろす事を〟」
アベルさんがそう唱えると、ハディの体がびくりと震えた。豊かな毛並みがぶわりと更にふくらみ、それからすうっと落ち着く。
そうしてこちらを振り向いたハディは、ちょっと上目使いにアベルさんを見詰める。まるでごめんなさいと言っているようだ。
寄ってきたハディをアベルさんが宥める様に撫でる。
「おいで。……ああ。いい子だな」
ぽんぽんされて完全に落ち着いたハディは、私にも申し訳なさそうな、心配そうな目線を送ってきた。
しかし、深く関わっていることを知られるとまずいという私の思考を読んだかのように、たっと駆け出して闇の中へ消えて行った。
それを見届けてから、アベルさんがガブリエラに向き直る。
ガブリエラはアベルさんを見て……そうだよね、そりゃ知っているはずだ。
「アベル? アベル・ジャーヴィス!? なん、なんでここに」
へたり込んだままワナワナと震えるガブリエラは、どういう訳か喜びに溢れた顔をしていた。
あ、そっか。ガブリエラからしたら、猛獣に襲われたところをアベルさんに助けられたってことになるのか。
その言葉には答えなかったアベルさんは、片眉をぴくりと上げてからツカツカとガブリエラに寄って行く。
助け起こされると思ったのか、ガブリエラが期待に染まった目で手を差し出す。
アベルさんはその手を取って……そのまま、のしかかって地面にガブリエラを押さえつけた。
「えっ!? きゃあ!」
驚いた声を上げるガブリエラ。その顔が真っ赤に染まる。
私も驚くが、すぐにその意図が分かった。
ガブリエラのコートの内側に手を突っ込んだアベルさんが取り出したのは、豪華な刺繍の施された小袋だった。
恐らくあの匂いの原因だろう。
立ち上がり、アベルさんはガブリエラから距離を取る。
そして、暗闇に向かって低く唸るように声を出した。
「愚かなことを。殺すつもりだったのか?」
「そんな訳ありませんよ。まさか、カロ種が街中にいるとは思わなくて」
アベルさんの言葉に上機嫌そうな声で返事を寄越したのは。
……木立の間から姿を現した、イレ皇子だった。
「イレ様!?」
「迎えに来たよ、ガブリエラ」
場の雰囲気にそぐわぬにこやかな顔でそう言ったイレ皇子が、ガブリエラの前に膝をついた。
「可哀想に、こんなに汚れて。怪我はない? さあ、帰ろう」
「は、……はい」
「やっぱり行かせるんじゃなかった。……ごめんね、もう独りにしないよ」
一瞬戸惑った様子のガブリエラだったが、その言葉と心配そうな顔に頬を染めてイレ皇子の首に手を回した。
そのままガブリエラを姫抱っこで抱き上げたイレ皇子は、アベルさんに向き直った。
「まさか、夜の観測をしていたらこんなことになるとは。何があるかわからないものですね」
「……」
皇子を睨みつけるアベルさんは、見たことないほど殺気立っている。
その視線をものともせずにへらりと笑ったイレ皇子は、そのまま……。
意外なことに、何も言わず立ち去って行った。
それを見送り、姿が完全に見えなくなったところで。
振り返ってこちらを見たアベルさんの恐ろしく不機嫌な顔に、私は「ひっ」と悲鳴を上げてしまった。
こ、怖っ。
「君は本当に……」
目を吊り上げて怒ったように何か言いかけたアベルさんは、頭痛がするとでも言いたげに眉間に手を当て……一度息を吐いてから早足で寄ってきた。




