172 月夜の攻防
◇(キルシェ目線)
消灯間近の時間。夜の校舎を、足音を忍ばせて歩く。
我が主は人使いが荒いなんて思いながらも、にやける口元を抑えきれなかった。
『あの忌々しいアリスの研究を、盗んできなさい!』
そう僕に指示をしたガブリエラ様は、それはそれは酷い癇癪を起していて、大層みっともなく可愛らしかった。
皇子の寵愛を取り戻して安心したガブリエラ様は、高貴なる薔薇の会に研究活動を禁止した。
過剰な座学はラーミナ教の趣旨に反する、そんなことをしなくとも、我が国の誇る学園のカリキュラムをこなしていけば貴族としての知識はきちんと身につく。そんな事よりも選ばれし者同士での交流を貴ぶべし。
そんな以前通りの決まり文句を繰り返し言って、試験を普通に突破した者すらも茶会に縛り付けていた。
きっと、勉強が嫌いであるというだけでなく、まるで勉強熱心なアリス様のために作られたような制度が気に入らなかったのだろう。
しかし、それは覆される。ガブリエラ様の母君、ヴィランデル夫人がそれを聞いて激怒したからだ。
『オーキュラスの娘に遅れを取るとは何事ですか。学業でライバルの相手にすらなれないとは本当に恥ずかしい子。まともに報告できることができるまで、連絡してこないでちょうだい』
そう手紙で言い渡されたガブリエラ様は、泣いて暴れて手が付けられなかった。
最初は焦って、薔薇の会に「すぐに何かの研究をするように」と命令した。
しかし、元々は禁止されていたことだ。会の者たちは困惑したし、指示が大雑把で誰もまともに動けなかった。
皇子と過ごすことだけを最優先しているガブリエラ様は、そもそも何を研究すればいいのかという事も思いつかないようだった。
そこで焦って思いつくのが「アリスの研究を盗む」なのだから、笑えてしまう。
だが、そこがいい。僕はそういう馬鹿な女の子が足掻いている姿が大好きだし、どんな命令であっても従う事が好きなのだ。
……そんなことを思い返しながら、黄金の夜明け団とやらの活動拠点となっている部屋の前へ到着した。当然、鍵はかかっている。
しかし、そんなの自分には関係ないことだ。持参してきた細い金属で鍵穴を探り、しばらく経ってから悠々と扉を開けた。
影に隠れ、静かに開いた扉の中を素早く確認する。暗い室内には当然誰もいない。
恐らく、ガブリエラ様は僕が鍵開けをできることなど知らないだろう。それでもなんとかして盗んで来いと言うのだから、無鉄砲というかなんというか。
ふふ、と零れた笑いをしまって、壁に貼られた羊皮紙や机の上をざっと見まわす。
パッと見て目につくのはルーン文字や、なにかの道具の完成品や試作品だ。
棚に並べられたそれらは、殆どが魔石に文字を掘っただけの物などの簡単なものだ。
それをいくつかポケットに入れつつも、違和感を覚える。
あの規格外な存在であるアリス様が、こんな普通の授業の様な事を研究とするだろうか?
いいや、そんなはずはない。この研究室にはもっと探すべきところがあるはずだ。
そう考えて壁に手を這わせたり、コツコツ叩いてみたり、引出しの中を順番に確認していく。
そうしてたどり着いた一番奥の本棚で、僕は違和感に気付いた。
この本棚だけ、本がぎっしり詰まっている。
箱に入った大仰な本がいくつも並んでいるが……。そう思って周囲に視線を走らせて、床の僅かな引きずり跡に気が付いた。こういう瞬間は酷く楽しい。
「ふふ。なるほど」
そう思わず呟いて、本棚の本を一冊手に取る。
すると、それは中身がカラだった。これはもう、そういう事だろう。
力を入れて本棚を横に向かって押してみると、それはゆっくりと動き出した。
そうして出現した隠し部屋は、大部屋よりも少し雑然としていた。
削り出した長い木や、加工前の木材、そして多種多様な魔石がそこら中にあるのである。
「大道具……? でもルーン文字を使っているだけなら、隠す必要なんて……」
呟き、手ごろな魔石を手に取ってみる。その時だった。
「何をしている」
首筋に冷たいものが当たった。
「……番犬ならぬ、番猫ですか」
「質問に答えろ。ここで何をしている」
僕の首筋に後ろから何かを当てているのは、暗闇に潜んでいたイヴァン・スラクシンだった。
あえて大失態を演じてやったあの決闘で、思った以上に獣人が侮れない相手だったことは分かっている。突き刺されては堪らない。
「いえ、鍵が開いていたもので。誰かいないかなと中を伺っただけですよ」
僕がすっとぼけてそう言うと、背後の殺気が膨れ上がった。後ろでこいつの尻尾がしきりにゆらゆらと揺れ始めている。
「そのポケットの中の物を全て捨てて、すぐに出ていけ」
「っ……、はいはい」
拾った石を床に捨てて、手を上げて降参のポーズを取った。
そうしてじりじりと距離を取ってから、早足で部屋を出る。
ちらりと振り返ってみると、闇夜の中で月光だけを反射する獣の鋭い目がこちらを見つめていた。
獣人は僕の一族と同じで、夜陰に乗じた仕事を得意とするものが多い。同業といえども鋭いそれにぶるりと身震いしてから、足音を消して廊下を走る。
……ポケットの中の石は確かに捨てた。捨てたとも。
笑いが零れてくるのを止められない。
しかし、袖口に忍ばせたものを捨てろとは言われていない。そして大本命は、あの小部屋の方にあったこちらの石だ。
ふふふ、と笑いながら月明かりに照らされる廊下を進んで、寮へと戻った。
イヴァン様とキルシェの夜の一面がちらりしたのでした。
全てのシーンの最後に(※彼らは七歳です)をつけたいけど、それは言わないお約束です。ファンタジーだから許してください(震え声)




