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異世界転生した俺、婚約破棄された氷姫の仮恋人になっただけなのに、なぜか本気で好かれてる気がするけど本人が絶対に認めない  作者: 御上常陸介寛浩


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第7話 怒っている氷姫は、少しだけ人間らしい

馬車の中という場所は、広いようでいて逃げ場がない。


 特に今みたいに、向かい側へ座る相手が黙っている時はなおさらだ。


 ルーヴェン家の馬車は相変わらず乗り心地がよかった。アルヴェル家のものとは比べものにならないほど揺れが少なく、内装も上質で、窓の外を流れる王都の夕景さえどこか落ち着いて見える。だが今の俺にとっては、その快適さが逆にきつかった。


 静かすぎるのだ。


 目の前にはセレスティア。いつも通り背筋を伸ばし、膝の上に手を置いている。横顔は整っていて、表情は薄い。だが昼や朝と違うのは、その沈黙が明らかに“考えている沈黙”だということだった。


 怒っている。


 それも多分、かなり。


 さっき彼女は確かに、「次は一人で抱え込まないで」と言った。声は低かったが、完全に突き放す響きではなかった。だから少し空気が和らいだ気がしたのだ。


 だがそれで終わりではないらしい。


 考えてみれば当然だ。俺は放課後、呼び止められ、のこのこ校舎裏まで行き、辺境伯家嫡男と侯爵家三男を含む上級生たちに囲まれた。そこで家への圧まで匂わされた。結果的にミレーユが来なければ、もう少し面倒になっていた可能性は十分ある。


 平然と見せているが、セレスティアが怒らない方が不自然か。


 どうしよう。


 いや、どうしようもない。謝るべきか。いや、さっき一応謝った気もする。もう一度言うか。けれど下手に繰り返すと、言葉だけ軽くなることもある。


 俺がそんな風に考えをぐるぐる回していると、不意にセレスティアが口を開いた。


「あなた」


 短い呼びかけに、背筋がぴんと伸びる。


「はい」

「一つ、確認したいのだけれど」

「はい」

「あなたは、自分が今どの程度危険な場所に立っていると思ってるの?」


 静かな声だった。


 怒鳴ってはいない。責め立ててもいない。だがだからこそ、誤魔化しが効かない種類の問いだった。


 俺は少しだけ考えてから答える。


「王子派に目をつけられてるのは分かってます」

「それだけ?」

「……家にまで話が行く可能性もある」

「それだけ?」

「え」


 セレスティアの青い瞳がまっすぐこちらを向いた。


「あなた自身が怪我をするかもしれない、とか」

「そこまでは」

「考えていなかったのね」

「いや、少しは」

「少しでは足りないわ」


 ぴしゃりと言われた。


 だがその声は、怒っているというより、呆れているようでもあった。


 セレスティアはほんのわずかに眉間へしわを寄せる。


「身分の高い者が、真正面から手を下すことは少ない。そんなことをすれば自分の評判に傷がつくから」

「はい」

「でも、“偶然”は起こるわ」

「偶然」

「演習中の事故。階段での接触。書類の行き違い。寮での盗難騒ぎ。噂話。教師への印象操作。あなたが知らないところで不利になる方法なんて、いくらでもある」


 淡々と並べられる言葉が、妙に現実味を持って迫ってきた。


 なるほど。そういうことか。


 前世の会社なら、メールのCCから外されるとか、妙なミスを押しつけられるとか、根回しの輪から外されるとか、そういう形でダメージが来た。この世界、この学園では、それがもっと貴族的な、もっと露骨に階級差を使った形で起きるのだろう。


 セレスティアは続ける。


「あなたは、“まだ何もされていない”と思っているかもしれない。でも、ああいう忠告は最初の線引きよ。従うならそれでいい。従わないなら、次は別の手が来る」

「……はい」

「分かっているなら、なぜ一人で行ったの」


 その問いだけ、少しだけ硬さが変わった。


 理屈ではなく、感情に近い温度が混じっている。


 俺は思わず言葉に詰まる。


「断りづらかったので」

「馬鹿ね」

「はい」

「本当に馬鹿」

「はい」


 否定できない。


 セレスティアは深く息を吐いた。吐息ひとつまで綺麗な人だな、と場違いなことを考えた瞬間、彼女の声が少し低くなる。


「あなた、私が朝なんと言ったか覚えている?」

「誰かに呼び止められても、一人で人気のない場所へ行かないこと」

「では?」

「……守れてません」

「ええ、守れていないわ」


 その一言は冷たかった。だが、そこで終わりではなかった。


「私はあなたを信用していない」

「はい」

「でも、少なくとも勝手に自分の身を投げ出す人だとは思っていなかった」

「それは」

「何?」

「そんなつもりじゃ」

「つもりがあるかどうかは関係ないの」


 今度ははっきりと、感情が出た。


 声量は大きくない。けれど言葉に熱がある。初めて見るタイプの怒り方だった。静かなのに、むしろその方がきつい。


「あなたが無茶をすれば、私の問題になる」

「……はい」

「私が隣に置いている以上、あなたが狙われるのはある程度予想していた。だから朝のうちに言ったの。単独で動くなと」

「はい」

「なのに、放課後になったらさっそく校舎裏に連れて行かれている。しかも辺境伯家の嫡男に侯爵家の三男。いったい何を考えていたの?」


 最後の問いだけ、少しだけ早口だった。


 ああ、この人、本当に怒ってる。


 怒ってるし、呆れてるし、多分、予想以上に危ない目に遭ったことを腹立たしく思っている。


 そこまで理解した時、俺の胸の奥で、奇妙に温かいものが灯った。


 普通なら怖いだけのはずなのに。


 でも、多分これは“ちゃんと気にされている”ということでもあるのだ。


「……すみません」


 今度の謝罪は、朝のものとも、さっきのものとも少し違った。


 言い訳を混ぜない。まずかったと、自分でも分かってから出てきた言葉だった。


「勢いで前に出たのもそうですけど、今日の件は、俺の判断が甘かったです」

「甘かった、で済ませる気?」

「済まないでしょうね」

「当然よ」


 セレスティアはぴしゃりと言う。けれど、そのあとに続いた言葉は少しだけ緩んだ。


「……分かっているなら、まだましだけれど」


 そこで彼女は視線を窓の外へ向けた。


 夕方の王都が流れていく。商店の灯り、通りを行き交う人々、遠くの鐘の音。綺麗な景色だ。けれど馬車の中には、さっきまでの空気がまだ残っている。


 俺は少し迷ってから口を開いた。


「セレスティア様」

「何」

「さっき、“勝手に一人で狙われないで”って言いましたよね」

「言ったわ」

「それって、怒ってるだけですか」

「は?」


 セレスティアがこちらを見た。


 その目が、さっきまでの冷たい怒りとは別の意味で少しだけ揺れた。


 俺も何を聞いているんだろうと思う。だが、訊かずにいるとずっと引っかかりそうだった。


「いや、その」

「続けなさい」

「……気にしてくれてるんだなって思ったので」


 言ってから、自分でだいぶ踏み込んだなと気づく。


 セレスティアの沈黙が落ちる。


 馬車の揺れがやけに大きく感じた。


 しまった。余計なことを言ったか。いや、確実に言った。これは多分、“勘違いしないで”が最速で飛んでくるやつだ。


 だが予想に反して、セレスティアはすぐには言葉を返さなかった。


 その代わり、少しだけ視線を逸らし、窓の外へ向けたまま言った。


「……当然でしょう」


 声が、少し低い。


「あなたが無事でいるかどうかは、今の私には重要なことよ」

「それは仮恋人として?」

「それ以外に何があるの」


 来た。やっぱり来た。


 だが、その言い方がいつもより少し遅かった。


 否定を急いでいる、ようにも聞こえる。


「いえ、別に何かあるとは」

「なら余計なことを言わないで」

「すみません」


 即座に謝る。


 するとセレスティアはわずかに唇を結び、それからこちらへ向き直った。


「あなたは、自分が軽い善意で動ける立場じゃないの」

「はい」

「下級貴族だから、ではないわ」

「え?」

「今のあなたは“私の隣にいる人間”として見られている。だから、あなた一人の行動では済まない」

「……なるほど」


 その言い方は、妙に胸に残った。


 私の隣にいる人間。


 事実として言っているだけなのだろう。なのに妙に強い。


「だったら尚更、俺が勝手に動くのはまずいですね」

「ようやく理解したの?」

「時間かかってすみません」

「本当にね」


 そう言ったセレスティアの声は、最初より少しだけ柔らかかった。


 怒りの熱が、ようやく落ち着いてきたのだろうか。


 俺は少しほっとして、椅子の背に肩を預けた。するとその動きが気に入らなかったのか、セレスティアがじっと見てくる。


「何ですか」

「反省している人の態度には見えない」

「いや、ちゃんと反省はしてます」

「見えないわ」

「どうしろと」

「少なくとも、安心した顔をしないで」

「してました?」

「していたわ」


 自覚はない。だが、そうなのかもしれない。


 怒られているはずなのに、少し安心していた。怒られること自体ではなく、その中にある“俺がどうなってもいいとは思っていない”という部分に。


 それを言うとさらに面倒そうなので、黙っておく。


 沈黙が少しだけ落ちたあと、今度は俺の方から訊いた。


「セレスティア様は、ずっとこんな感じだったんですか」

「何が」

「誰かに狙われるとか、牽制されるとか、言葉の綾で刺されるとか」

「……そうね」


 返事は短かった。


「物心ついた頃から、だいたい似たようなものよ。公爵家の娘としてどう振る舞うか。誰に何を見せるか。どこで失点になり、どこで利用されるか。そういうことばかり考える世界だった」


 その言い方は、どこかひどく達観していた。


 諦めとも少し違う。あまりにも長くそれが当たり前だったから、今さら感情を混ぜる気力がない、という感じだ。


「疲れません?」

「疲れるわ」

「やっぱり」

「でも、疲れるからやらない、で済む立場ではないもの」


 さらりと言う。


 多分この人は、本当に昔からそうやってきたのだろう。誰よりも正しく、冷静に、隙なく。そうでないと、自分だけでなく家にまで響くから。弱さを見せればそこを突かれる。だから氷姫と呼ばれるような顔を覚えた。


 昨日、大広間で一瞬だけ見えた揺らぎが、今になって少し意味を持つ。


 あれは多分、本当に一瞬しか外へ出せなかったのだ。


「……だから」


 セレスティアが言葉を継ぐ。


「あなたがあんなふうに、何も知らないまま飛び出してくるなんて、思っていなかった」

「何も知らないまま、っていうのは、その通りですね」

「でしょうね」

「でも、放っておけなかったのは本当です」

「それが厄介なのよ」


 そう言う彼女の声は、また少しだけ人間らしかった。


 冷たく突き放しているようでいて、その実、その厄介さを完全には嫌っていないようにも聞こえる。少なくとも、ただ迷惑だと切り捨てる響きではなかった。


「前世でそういうので痛い目見たことがあるので、もうやらない方がいいって自分でも分かってたんですけど」

「前世?」

「……言い間違いです」

「最近あなた、時々妙な言い方をするわね」

「気にしないでください」

「気になるわよ」


 鋭い。


 さすがにここは深掘りされたくないので、俺は少し無理やり話題を戻す。


「とにかく、分かりました。今後は一人で動きません」

「本当に?」

「本当に」

「二度目は?」

「多分」

「却下」

「いや、本当に気をつけます」


 慌てて訂正すると、セレスティアは小さく息を吐いた。


「あなた、どうしてそう無駄な言い回しを挟むの」

「緊張するとつい」

「緊張しているようには見えないのだけれど」

「内心はわりと必死です」

「そう」


 その“そう”に、ほんの少しだけ呆れが混じる。だが、もう最初の冷たさは薄れていた。


 しばらくして、馬車が大通りを抜け、住宅街へ入る。アルヴェル家の屋敷まではもう少しだ。


 ここでふと、朝にフィオナから言われた言葉を思い出した。


 “どこまでが本当で、どこまでが演技か”


 本当は、この帰りの馬車でその話をする予定だったのだ。だが校舎裏事件のせいで、話題は完全にそちらへ持っていかれた。


 今切り出すべきか少し迷ったが、流してしまうのも違う気がした。


「セレスティア様」

「今度は何」

「今日、フィオナさんに言われたことですけど」

「どれのこと?」

「俺たちの中で、どこまでが本当でどこまでが演技か、決めておいた方がいいって話です」

「……そうね」


 セレスティアは一拍置いてから頷いた。


「それは必要だわ」

「今、少し話しますか?」

「少しだけなら」

「分かりました」


 俺は指を折りながら考える。


「まず、外では恋人っぽく見えるようにする」

「当然ね」

「でも中身は仮」

「ええ」

「必要以上に誤解を生む言動は避ける」

「それもそう」

「誰かに揺さぶられた時は、俺一人で判断しない」

「最優先でそうしなさい」

「はい」


 ここまでは比較的分かりやすい。


 問題はその次だった。


「……で、どこまでやるのが“恋人っぽい”んですか」

「何が言いたいの」

「距離感とか」

「距離感?」

「いや、今日も並んで歩いたり、演習組んだり、朝は馬車から一緒に降りたりしましたけど」

「ええ」

「その、腕を組むとか、手を取るとか、そういうのも必要になってくるのかなと」

「っ……」


 珍しく、セレスティアが言葉を詰まらせた。


 ほんの少しだけ目を見開き、それからすぐにいつもの顔へ戻る。だが戻りきれていない。耳が、気のせいでなければ、少しだけ赤い。


「……状況によるわ」

「状況」

「必要ならする」

「必要なら」

「ええ」

「なるほど」


 そう答えたものの、こちらも妙に意識してしまう。


 必要なら手を取る。必要なら腕を組む。


 恋人役だから理屈としては当然だ。だが、こうして本人の口から言われると、妙に生々しい。いや、変な意味ではなく。変な意味ではないはずだ。多分。


 セレスティアは少しだけ早口で続けた。


「ただし、不要な場面ではしない。過剰な演技は逆に不自然になるもの」

「ですよね」

「それに……」

「それに?」

「あなたが無駄に動揺すると面倒だわ」

「俺のせいですか」

「そうよ」


 ひどい。


 だが否定できないのが悲しい。確かに朝、手を取られただけで内心だいぶ大騒ぎだった。


「じゃあ、俺の方から勝手にそういうことはしません」

「当然でしょう」

「でも必要な時は」

「指示するわ」

「分かりやすいですね」

「その方が確実よ」


 ここまで整理すると、少しだけ頭が軽くなった。


 仮恋人。演技。必要な場面。必要でない場面。全部が感情の話ではなく、今のところは“処理”として決められていく。それはどこか寂しい気もしたが、同時にやりやすくもあった。


 少なくとも、曖昧なまま勝手にすれ違うよりはいい。


 馬車がやがてアルヴェル家の前で止まる。


 窓の外には見慣れた玄関、控えめな庭木、そして少し心配そうにこちらを見る使用人の姿があった。


 俺は席を立つ前に、一度セレスティアを見る。


「今日はすみませんでした」

「二度目ね」

「それだけまずかったってことです」

「……そうね」


 セレスティアは少しだけ目を細めた。


「次からは、本当に気をつけなさい」

「はい」

「あなたが勝手に傷つくのは、困るわ」

「仮恋人として?」

「そうよ」

「分かってます」


 そう言うと、セレスティアはほんの少しだけ沈黙してから、静かに言った。


「……ならいいわ」


 その声は、最初に馬車へ乗り込んだ時よりずっと穏やかだった。


 俺は一礼し、扉へ手をかける。外へ出れば、また明日が来る。学園へ行けば視線がある。噂がある。王子派も、リリアーヌも、フィオナも、全部続いていく。


 面倒だ。本当に面倒だ。


 でも、不思議と昨日ほど嫌ではなかった。


 扉を開ける直前、セレスティアがぽつりと言う。


「エイト」

「はい?」

「……今日は、私の言うことを少しは聞いたから、そこだけは評価しておくわ」

「それ、褒めてます?」

「褒めているつもりよ」

「つもり」

「何か不満?」

「いえ。ありがたく受け取ります」


 そう答えると、セレスティアはもう何も言わなかった。ただ視線を少しだけ逸らす。その仕草が妙に人間らしくて、俺は思わず笑いそうになる。


 怒っている氷姫は、冷たいだけではないらしい。


 むしろ、怒った時の方が、少しだけ本音が見える。


 そんなことを思いながら馬車を降りた俺は、その夜になってようやく気づくことになる。


 明日の学園では、今日の校舎裏の件なんて霞むくらい厄介なものが待っているのだと。


 “氷姫は冷酷だった”――そんな、誰かの都合のいい物語が。

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