第8話 氷姫は冷酷だった、らしい
噂というのは、だいたい朝に育つ。
前日の夕方に小さく蒔かれた種が、一晩で勝手に根を張り、朝になる頃にはもっともらしい形を整えている。しかも厄介なのは、その種を蒔いた本人が見えなくなることだ。誰が最初に言ったのか分からない。けれど、気づけばみんな知っている。前世でも何度も見た光景だった。
そして翌朝、学園へ向かうルーヴェン家の馬車の中で、俺はその“育った噂”の匂いを、嫌というほど嗅ぐことになった。
「今日は少し、空気がおかしいわね」
向かいに座るセレスティアが、窓の外を見たまま言った。
まだ学園の正門へ着く前だ。だが通学路を歩く生徒たちの視線が、昨日までと少し違う。驚きや好奇心ではなく、もっとはっきりしたもの――奇妙な確信と、わずかな嫌悪が混ざっている。
俺もそれを感じていた。
「昨日の続き、ですかね」
「それだけではないでしょうね」
「やっぱり?」
「昨日までの視線は、“面白い見世物を見る目”だったわ。でも今朝のは違う」
セレスティアはそこで俺を見た。
「もう少し悪質よ」
言い方に迷いがない。多分、この人はこういう空気の変化に慣れているのだろう。慣れたくて慣れたわけではない、と前に本人が言っていたけれど、少なくとも察知の精度は高い。
俺も窓の外を見る。
確かに、昨日のそれとは違っていた。目が合えばすぐ逸らすのに、その前に何かを確かめるような視線がある。“ああ、あの人が”“本当にあんなことをする人なんだ”――そういう前提を共有している空気だ。
「何か流れてますね」
「ええ」
「心当たりは?」
「あるような、ないような、ね」
それが一番困る。
明確な失点があればまだ対応のしようがある。だが、根も葉もない噂や、半端に事実と絡めた悪意は厄介だ。否定しようにも、相手は“そんなつもりじゃなかった”で逃げられる。
馬車が正門前で止まる。
ミレーユが外で扉を開く気配がした。セレスティアはいつも通り立ち上がり、こちらへ手を差し出す。昨日の帰りに整理した通り、“必要な場面では指示する”の一環だろう。
俺は素直にその手を取った。
ひんやりした感触はもう少し慣れたつもりだったが、やはり毎回少しだけ意識する。
外へ出ると、空気が一気に肌へ触れた。
春の朝の風は穏やかだ。穏やかなのに、周囲の視線だけが妙に尖っている。
そしてその原因は、思ったより早く分かった。
「見て、あの人よ」
「本当に堂々としてる……」
「使用人を切り捨てたのに、よく平気な顔できるわね」
「下位貴族の家を潰したって話、本当だったのね」
「怖い……」
小声。
小声だが、聞こえるように言っている。
俺の足が一瞬止まりかけた。だが隣のセレスティアは止まらない。真っ直ぐ前を向いたまま、何も聞こえていないかのように歩く。俺も慌てて隣へ合わせた。
使用人を切り捨てた。
下位貴族の家を潰した。
なんだそれは。
昨日までの“婚約破棄された氷姫”から、一気に“元から冷酷な女だった”へ話がずれている。悪意の方向が変わったというより、より具体的で、より否定しづらい形へ進んでいた。
学園の中庭を抜け、校舎へ入ってもその視線は続いた。
むしろ内側の方がひどい。廊下ですれ違う生徒たちが、露骨に距離を空ける者までいる。奇妙なほどに統一感がある。これはただの自然発生ではない。少なくとも“広めようとしている誰か”がいる。
「セレスティア様」
俺は小声で呼ぶ。
「何」
「さっきの」
「聞こえていたわ」
「心当たりは」
「……ないこともないけれど、具体的にはまだ分からない」
その返事は平坦だったが、耳の奥に少しだけ硬さが混じっていた。
「とにかく、今は顔を変えないで」
「はい」
「立ち止まらない」
「分かりました」
言われるまま歩く。だが内心はかなりざわついていた。
教室へ着く直前、前方からフィオナが小走りで近づいてきた。彼女も何か察しているのか、いつもの軽い笑みが少し薄い。
「二人とも、聞いた?」
「ええ」
セレスティアが短く答える。
「今朝から急に広がってる」
フィオナは声を落とした。
「あなたが昔、使用人の失敗を見逃さず追い詰めたとか、下級貴族の家の縁談を一言で潰したとか、そういう話」
「雑ね」
「雑だけど、微妙に“ありそう”な方向へ振ってるのが嫌らしいのよ」
その言葉に、俺は少しだけ救われた。
フィオナはやっぱり見えている。これが単なる噂ではなく、“それっぽく作られた話”だということが。
「出どころは?」
セレスティアが訊く。
「まだ断定できない。でも、王子派の取り巻きの辺りで昨夜からそれっぽい会話があったって」
「……やはり」
「ただ、表では誰も“自分が広めた”とは言わないでしょうね」
「当然ね」
当然、か。
この二人の会話を聞いていると、悪意の扱いにおける経験値が違いすぎる。俺はまだ“ひどいな”と感じる段階だが、この人たちはもう“どこから来たか”“どう効くか”まで一気に見ている。
フィオナは俺の方を見る。
「エイトくん、今日いつも以上に迂闊なこと言わないでね」
「信用ないなあ」
「あるわけないでしょ、まだ」
「ひどい」
「でも本当」
即答だった。
セレスティアが小さく言う。
「それは私も同意するわ」
「二人とも辛辣だな」
「今日ばかりは真面目に言ってるの」
フィオナが珍しく笑わずに言った。
「こういう噂って、一度“反応した側が焦ってる”って見られるともっと増えるから。特に今は、“氷姫はもともと冷酷だった”って物語を成立させたい人がいる。だから下手に感情的になると、その物語に餌をやるだけ」
その言い方が上手い。餌をやる、か。
確かにそうだ。こちらが強く否定すればするほど、相手は「図星だから怒ってる」とも取れる。冷静に否定しても「冷たい」「言い訳がうまい」と言われるかもしれない。つまり、今はただ“反応を見る段階”なのだ。
「……分かりました」
「よろしい」
フィオナが頷く。
「でも、放置だけもよくないわ。後で何か考えないと」
「ええ」
セレスティアが返す。
「まずは中を見てからね」
教室の扉を開ける。
その瞬間、空気がまた変わった。
昨日までは、好奇と嘲笑が半々くらいだった。だが今日は違う。目に見えて引いている者、あからさまに嫌悪を隠さない者、妙に気まずそうに目をそらす者までいる。まだ決定的に敵対してはいない。けれど、“あの人はそういう人らしい”という認識が、少しずつ教室の中に入り込んでいるのが分かった。
俺は席へ向かいながら、背筋にひやりとしたものを感じる。
怖いのは、たった一晩でここまで変わることだ。
事実でないことでも、形だけ整えば空気を動かせる。しかもセレスティアは“氷姫”だ。もともと感情を表に出さず、冷たい印象を持たれやすい。その既存イメージに“やっぱり中身も冷酷だった”という話を重ねれば、噂は驚くほど簡単に根づく。
前の席の男子――相変わらず真面目そうな茶髪の彼が、振り返りかけてやめた。その迷い方だけで、すでに昨日とは空気が違うと分かる。
やがて始業の鐘が鳴り、担任のフェルナー教員が入ってくる。教室のざわめきは一応収まるが、完全には消えない。そこへ教員が何か気づいたのか、名簿を置いた手を止めて教室を見回した。
「何か、朝から落ち着きがないな」
誰も答えない。
当然だ。ここで“実は公爵令嬢の悪い噂が広まってまして”などと言う生徒はいない。表向きはみな礼儀正しい。だからこそやり口が悪い。
フェルナー教員は一瞬だけセレスティアの方を見たが、すぐに視線を戻した。
「では、授業を始める」
流した。いや、今の時点では流すしかないのだろう。噂はまだ噂でしかないし、教員が不用意に触れればそれ自体が火種になる。
授業が始まっても、俺は内容が半分しか頭に入らなかった。
魔法史の講義。王国建国期の貴族制度の変遷。前なら興味深く聞けたかもしれないが、今は無理だ。教室の中の空気の方が、よほど生々しい歴史の教科書みたいなものだった。
視線が刺さるたび、誰がどの程度噂を信じているのか考えてしまう。
そして一番厄介なのは、セレスティア本人がまるで動じていないように見えることだ。
いや、本当に動じていないわけではないだろう。朝の時点で、彼女の声の硬さはいつもと違った。フィオナと話す時の切り替えも少しだけ速かった。つまり、内側ではかなり神経を使っている。
なのに外から見れば、普段通りの氷姫だ。
それは強さでもあり、今の噂と最悪に相性がいい欠点でもある。
冷たいと見られている人間が冷静でいれば、“やっぱり”になる。
感情を出せば、“図星だから”になる。
どっちに転んでも、向こうは話を作れる。
休み時間になった瞬間、その圧はさらに増した。
何人かの女子が遠巻きにこちらを見て、小さく囁き合う。男子たちの方も露骨ではないが、セレスティアと目が合うと妙に早く逸らす。
そして、あからさまなのも来た。
「ねえ」
教室の後方から声がした。見ると、上級貴族らしい雰囲気の女子生徒が二人、こちらを見ていた。にこやかだが、明らかに好意ではない。
「本当なの?」
「何がですか」
俺が先に返すと、相手は少しだけ眉を寄せた。多分、セレスティア本人に聞きたいのだろう。だが俺が割って入ることで、質問の角度が少しずれた。
「ルーヴェン様が、昔、侍女の失敗を見逃さず解任に追い込んだって」
「知りませんけど」
「でも噂になってるわよ?」
「噂でしょう」
「火のないところに煙は立たないって言うじゃない」
古今東西、便利な言葉だな。
俺がどう返すべきか迷う前に、セレスティアが静かに口を開いた。
「火のないところに煙を起こす人間なら、いくらでもいるわ」
教室が少し静かになる。
女子生徒たちは一瞬だけ言葉に詰まったが、すぐに形だけの笑みを作った。
「そうかもしれませんわね」
「でも、みんな心配しているんですのよ」
「ええ、本当に。セレスティア様がお優しい方だって、ちゃんと分かればいいのに」
この言い方。
聞きようによっては気遣いだ。だが中身は“今のあなたは優しく見えない”の再確認でしかない。
セレスティアはそれ以上何も言わなかった。青い瞳でまっすぐ相手を見たまま、ただ沈黙する。
それがまた、相手を少しだけ後退させた。
「……失礼しましたわ」
「では」
女子二人は早々に引き下がった。
完全な勝ちではない。だが少なくとも、ここで感情的に噛みつかなかったのは正解だろう。フィオナの言う通り、今は下手に餌をやらない方がいい。
とはいえ、このまま放置していいとも思えない。
昼休みになり、教室の空気が少し緩んだところで、フィオナがすぐにこちらへ来た。今日は本当に頼もしいな、この人。
「今の見た?」
「ええ」
セレスティアが答える。
「ひどいですね」
俺も言う。
フィオナは小さく息を吐いた。
「予想より早い。しかも雑なだけじゃなくて、“反論しづらい話”を混ぜてるのが厄介」
「使用人の件とか?」
「そう。貴族の家なら使用人の入れ替わりなんて普通にあるし、下位貴族との縁談が流れることだって珍しくない。そこへセレスティア様の“氷姫”って印象を足すと、聞いた側は“ありそう”って思っちゃうの」
ロジックが完成している。いや、完成してしまう土台があるのが最悪だ。
「本当にあったことなんですか」
俺が訊くと、セレスティアが答えた。
「似たような事実ならいくらでもあるわ」
「似たような」
「例えば、家の使用人が大きな失敗をして交代になったことはある。でも決めたのは私ではないし、“追い詰めた”なんて話でもない」
「でしょうね」
「下位貴族との縁談が流れたことも、家同士の事情でならあり得る。でも、それを私が“一言で潰した”ことはない」
つまり、完全な嘘ではなく、現実の断片に悪意を盛っているのだ。
最悪のやり方だ。
フィオナも同じことを考えたのか、顔をしかめた。
「やっぱり内側を知ってる誰かが混ぜてる可能性が高いわ」
「内側?」
「ルーヴェン家そのものじゃなくても、貴族社会の噂の流れを知ってる人。完全な作り話じゃないから、余計にタチが悪い」
そこで俺はふと引っかかった。
「でも、なんで今なんですか」
「それは――」
フィオナが言いかける。
「決まっているでしょう」
セレスティアが淡々と続けた。
「昨日、私が一方的に捨てられた哀れな令嬢として終わらなかったからよ」
「……あ」
「“氷姫は可哀想な被害者だった”では弱い。なら、“氷姫はもともと冷酷で、切られて当然の女だった”という物語へ持っていけばいい」
「そうすれば婚約破棄した側も正当化できる」
フィオナが小さく頷く。
胸の奥が冷えた。
そこまで一瞬で読めるセレスティアもすごいが、それだけ貴族社会の理屈に慣れているということでもある。
「なるほどな……」
「感心している場合じゃないわよ」
「すみません」
フィオナが腕を組む。
「今必要なのは二つ。反応しすぎないことと、出どころを探ること」
「出どころ、ですか」
「ええ。完全に止めるのは難しくても、誰がどこで流してるか分かれば対処は変わる」
「でもどうやって?」
俺の問いに、フィオナは少し悪い顔で笑った。
「こういう時、噂好きな子って役に立つのよ」
「自分で言います?」
「言うわよ。だって本当だもの」
なるほど。人気者で情報通というのは伊達ではないらしい。
セレスティアは少しだけ考え込んでから言った。
「私から動くのは得策じゃないわね」
「ええ。今のタイミングでセレスティア様が直接探ると、“図星だから火消ししてる”って言われる」
「なら私が」
思わず俺が言うと、二人の視線が同時に来た。
「あなたは駄目」
「却下」
「即答すぎません?」
ひどい。
だがその理由はすぐに分かった。
「あなた、露骨に探るとすぐ顔に出るもの」
フィオナが言う。
「あと、今のあなたは昨日から急に注目株になった“セレスティア様の仮恋人”よ。そんな人が噂を追えば、それ自体がまた話題になる」
「……確かに」
反論できない。
俺はため息をついた。
「じゃあ俺にできることは」
「迂闊に怒らないこと」
セレスティアが言う。
「それから、妙に一人で突っ走らないこと」
フィオナが続ける。
「二人とも俺への信用が薄くないですか」
「昨日の今日よ?」
「校舎裏へ一人で行った人に言う?」
「はい、すみませんでした」
土下座したくなるくらい正論だった。
その時、教室の後方からまた妙なざわめきが起こった。何人かの男子生徒が集まって、紙を覗き込んでいる。笑っている者もいれば、眉をひそめている者もいる。
嫌な予感。
フィオナが先に立ち上がった。
「見てくる」
「私も行くわ」
セレスティアが言う。
「いや、ここは俺も」
「だからあなたは座ってて」
二人に同時に言われた。
ひどい。が、言い返せない。
結局、俺はその場で待つしかなかった。教室の向こう側でフィオナが紙をひったくるように取り上げ、セレスティアがその横から中身を覗き込む。フィオナの顔がすぐにしかめられた。セレスティアの表情は変わらない。だが、紙を持つ指先だけが少し強くなっているのが遠目にも分かる。
数十秒後、二人が戻ってくる。
「何でした?」
俺が訊くと、フィオナが紙を机へ置いた。
ざっと見ただけでも気分が悪くなる。
誰が書いたのか分からない手書きの文章。
“氷姫の冷酷な素顔”
そんな安っぽい見出しの下に、今朝聞いた噂とほぼ同じ内容が並んでいた。使用人を切り捨てた。下位貴族の家を侮辱した。婚約者にも情がなかった。だから王子は見限った――。
腹が立つ以前に、よくここまで露骨にできるなと感心してしまう。
「これが教室に?」
「今朝から何枚か回ってるみたい」
フィオナが言う。
「誰かが置いていったのを、面白がって回してる」
「最低ですね」
「ええ、最低」
セレスティアは紙を見たまま、静かに言う。
「でも、これで一つ分かったわ」
「何が?」
俺が訊く。
「ここまで文章にして配るなら、ただの口伝えじゃない。誰かが“形に残るもの”として広めたいと思っている」
「つまり?」
「単なる悪口ではなく、意図があるということよ」
それはもう十分分かっていたつもりだった。
だが、紙という形になると意味が変わる。囁きならその場で消える。けれど、こうして書かれたものは“読んだ”という事実を残す。そして、人は文字になると少しだけ信じやすくなる。
前世でもあった。噂話より、文面になった社内メモや匿名アンケートの方が、なぜか“本当らしく”見えるのだ。
「これ、証拠になります?」
俺が言う。
「なるかどうかは相手次第ね」
セレスティアが答える。
「でも、少なくとも雑な口伝えよりは追いやすいわ」
フィオナも頷いた。
「紙なら、使ってる筆記具や紙質で少しは絞れるかも」
「そこまで分かるんですか」
「私は無理。でも、そういうのを見るのが得意な人もいる」
「へえ……」
感心したあとで、俺はふとセレスティアを見る。
彼女は紙から視線を外し、教室の窓の外を見ていた。横顔はいつも通り整っていて、冷たい。だけど、その沈黙は今まで見てきた“ただ静かな無表情”とは少し違った。
怒っているのでも、傷ついているのでもない。
もっと深いところで、何かを抑えている顔だ。
「セレスティア様」
「何」
「大丈夫ですか」
そう訊くと、彼女は少しだけこちらを見る。
「大丈夫に見えない?」
「見えるから困ってるんです」
「変なことを言うのね」
そう言いながらも、彼女の目はほんの一瞬だけ揺れた。
昨日の大広間で見た揺らぎよりは小さい。けれど、確かにあった。
「……腹は立っているわ」
セレスティアが静かに言う。
「でも、それ以上に呆れているの。ここまで手間をかけて、私を“そういう女”にしたいのねって」
「……」
「だからこそ、ここで感情的になるわけにはいかない」
その言い方がひどく静かで、逆に胸に来た。
きっと本当は、もっと腹が立っているのだろう。悔しいのだろう。けれど、その感情を顔に出した瞬間に相手の思うつぼだと分かっているから、また氷の顔を作るしかない。
それがこの人の戦い方なのだ。
「じゃあ」
俺は小さく言う。
「感情的になるのは、俺の担当にしときます」
「やめなさい」
即座に返ってきた。
「だと思いました」
フィオナが吹き出す。
「そういうとこよ、エイトくん」
「そういうとこって」
「今の、ちょっと良かったけど無駄に危ない感じがするところ」
「褒めてます?」
「半分は」
「半分は?」
「呆れてる」
ひどいな。
でも、フィオナが少し笑ったことで、張り詰めていた空気がわずかに緩んだのも事実だった。
セレスティアも、それに気づいたのか小さく息をつく。
「とにかく、この紙は私が預かるわ」
「ええ」
フィオナが頷く。
「私は流れを探る。誰がどこで回してるか、できるだけ見てみる」
「無理はしないで」
「セレスティア様に言われるとは思わなかった」
「本気で言っているの」
「分かってる」
そのやり取りを見て、やっぱりこの二人は案外相性がいいのかもしれない、と思った。口は合わないが、空気の読み方と切り替え方が似ている。
そして俺にできることは、今は多くない。
でも何もしないのも癪だ。
少なくとも、紙そのものは見ておくべきだろう。書き方、語尾、使われている言い回し。前世で山ほど読まされた社内文書や責任逃れメールの経験が、こんなところで活きるかもしれない。
「その紙、少し見てもいいですか」
俺が言うと、セレスティアとフィオナが同時にこちらを見た。
「何か分かるの?」
フィオナが訊く。
「分かるかは分かりませんけど、ちょっと違和感があって」
「違和感?」
「まだ確信はないです。だから見てから言います」
二人は一瞬だけ視線を交わし、それからセレスティアが紙をこちらへ滑らせた。
「少しだけよ」
「ありがとうございます」
俺は紙を手に取る。
文字は丁寧に崩してある。あえて誰の筆跡か分からなくしている感じだ。内容は感情的な悪口というより、妙に“まとめ記事”っぽい。見出し、箇条書きに近い構成、断定口調。しかもところどころ、実際の社交界事情を知っていないと書きにくい言い回しが混じっている。
そして、もう一つ。
俺はそこに小さく目を細めた。
やっぱり、少しおかしい。
「……これ」
「何かある?」
セレスティアが訊く。
「まだ断定じゃないですけど」
俺は紙を指先で軽く叩いた。
「この文章、ただ悪意があるだけじゃないです。誰かに“読ませる”のに慣れてる人が書いてる気がします」
フィオナが眉を上げる。
「読ませるのに慣れてる?」
「ええ。噂話をそのまま書いたにしては、妙に整理されすぎてる。あと、“断定しきらないで印象だけ固める”書き方になってる」
「そんなことまで分かるの?」
「前世……じゃなくて、まあ、文章にはちょっと」
また危ない言い回しをしてしまった。だが今はそこを突っ込まれずに済んだ。
セレスティアは紙を見つめたまま、静かに言う。
「つまり、ただの取り巻きの悪口ではない可能性があると」
「はい」
「もっと慣れてる人間?」
フィオナが言う。
「かもしれません。少なくとも、“思いつきで書いた”感じではないです」
その瞬間、二人の目つきが少し変わった。
噂がある。悪意がある。それだけでも厄介だ。けれど、それを“形にする技術”を持った誰かがいるとなると、話は少し違ってくる。
俺は紙を机に置いた。
胸の奥に、嫌な予感がさらに濃く沈んでいく。
これはまだ、始まりにすぎないのかもしれない。




