第20話 私は、正しい相手を選ぶべきなのかしら
正しい、という言葉は便利だ。
家格が釣り合っている。
外聞がいい。
周囲が納得する。
今後の政治的な利もある。
誰が見ても間違っていない。
そういうものは、たいてい“正しい”と呼ばれる。
けれど、正しいからといって息がしやすいとは限らない。
正しいからといって、心が動くとも限らない。
そして、そういう“限らない”を表に出せる立場の人間は、貴族社会にはあまりいない。
その日の放課後、セレスティア・フォン・ルーヴェンは学園から直接ルーヴェン家本邸へ向かっていた。
馬車の中は静かだった。
いつもなら向かい側に、落ち着かない顔をした下級貴族の少年が座っている。
だが今日は違う。
兄リュシアンから“話がある”とだけ告げられ、学園の迎え馬車も本邸用のものへ替えられていた。
エイトを同乗させる理由はない。
だから一人だ。
それだけのことなのに、妙に広く感じる。
「お嬢様」
正面ではなく少し斜め後ろに控えたミレーユが、静かな声で言った。
「お寒くはありませんか」
「平気よ」
「そうですか」
それ以上の会話はない。
ミレーユは余計なことを言わない。
言わないが、多分、今日のセレスティアがいつもより静かなことには気づいているだろう。
窓の外、王都の夕景が流れていく。
石造りの街並み、灯りのともり始めた店先、人の群れ。
本来なら見慣れた景色のはずなのに、今日はひどく遠く感じた。
理由は分かっている。
兄との面談。
そしてその先にある、“正しい話”だ。
ルーヴェン公爵家の本邸は、学園よりさらに静かで、さらに重かった。
広い玄関ホール。磨かれた床。高い天井。壁にかかった歴代当主の肖像画。
そこに流れている空気は、優雅というより秩序だ。
この家では、一つ一つの所作に意味があり、一つ一つの沈黙にも意味がある。
セレスティアは幼い頃からその中で育った。
だからこそ、こういう空気を読むのは得意だ。
同時に、得意であること自体に疲れてもいる。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
出迎えた侍女が深く一礼する。
「兄上は?」
「第二応接室にてお待ちでございます」
「そう」
短く答え、歩き出す。
ミレーユは一歩後ろを静かについてくる。
第二応接室の前に着くと、ミレーユが一度だけ小さく視線を向けた。
“お気をつけて”でも、“頑張ってください”でもない。
ただ、いつも通り整っているかを確認する目。
セレスティアはそれに軽く頷き、自分で扉を開けた。
リュシアン・フォン・ルーヴェンは、すでに席についていた。
夜会で見せる華やかな兄ではなく、家の人間としての顔だ。
上着は変わらず整っているが、ネクタイの結びだけ少しだけ緩めている。
机の上には封書が二通、開封済みで置かれていた。
「来たか」
「ええ」
「座れ」
命令口調。
だがそれが兄らしい。
セレスティアは向かいの席へ腰を下ろした。
紅茶はすでに淹れられている。
香りは良い。だが味を楽しむための時間ではないことも、二人とも分かっていた。
「本題に入る」
リュシアンは前置きをしない。
「クラーヴェル侯爵家からの打診は、家として見てもかなり良い」
「そう」
「王家に近すぎず、しかし十分な家格がある。
表向きには“婚約破棄後の立て直し”として申し分ない」
「ええ」
「相手本人にも、今のところ大きな瑕疵は見当たらない」
「それも知っているわ」
セレスティアは紅茶に手をつけないまま答える。
リュシアンは妹を見た。
その視線は鋭いが、責めているわけではない。
“理解しているなら、感情ではなく答えろ”という目だ。
「なら、問題はお前の意思だけだ」
「そうかしら」
「そうだ」
「家の利だけを考えるなら、もう半分以上答えは出ているでしょう」
「そうだな」
否定しない。
リュシアンはそういうところがある。
感情のために現実を曖昧にしない。
セレスティアは兄のそういうところを尊敬しているし、息苦しくも思っている。
「お前は、どうしたい」
リュシアンが問う。
部屋の空気が少しだけ静まった。
どうしたい。
その問いに、セレスティアはすぐには答えられなかった。
家の娘としてなら、答えは比較的明快だ。
良縁である。
条件も悪くない。
婚約破棄という傷を、最もきれいに塞げる。
ならば受ける方向で考えるべきだ。
だが、“セレスティア個人”としての答えは、驚くほど曖昧だった。
アシュレイ・クラーヴェルは、確かに誠実そうだった。
丁寧で、無理がなくて、話し方にも品がある。
ああいう相手なら、世間的には何の問題もない。
むしろ歓迎される。
なのに、心は少しも軽くならなかった。
「……分からないわ」
ようやく絞り出した答えは、それだった。
リュシアンの眉が、ほんのわずかに動く。
「珍しい返答だな」
「そうね」
「もっとはっきり嫌がるか、あるいは理屈で飲み込むかと思っていた」
「自分でもそう思っていたわ」
セレスティアはそこで、初めて紅茶に触れた。
温度はちょうどいい。
なのに、口の中に広がる味が今日は少し薄く感じる。
「嫌ではないの」
彼女は言う。
「でも、欲しいとも思えない」
「……」
「正しい相手なのは分かる。
家にとっても、外聞にとっても。
でも、それだけで決めるには、少し息苦しいのよ」
リュシアンは黙って聞いていた。
すぐに否定しないあたり、兄なりに真面目に受け取っているのだろう。
「息苦しい、か」
「ええ」
「理由は?」
「そこまで言語化できていないわ」
「曖昧だな」
「そうね」
セレスティアは認めた。
曖昧だ。
本当に曖昧だ。
正しい相手を前にして、なぜこんなにも心が動かないのか。
なぜ、むしろ疲れたのか。
その理由を、まだ自分でもきれいに説明できない。
ただひとつ、嫌でも浮かぶものがある。
学園の中庭で、ベンチに座って難しい顔をしていたエイト。
夜会のあと、テラスで“終わってほしくない”みたいなことを言いかけた顔。
王子へ口を返しながら、それでも本気で怒っていた横顔。
下級貴族で、身分も軽くて、社交も完璧ではなくて、でもこちらを見てくる時だけ妙にまっすぐな目。
比べるべきではない。
比べること自体が間違っている。
そう分かっているのに、頭のどこかで勝手に並んでしまう。
そのことに、自分で少しだけ腹が立つ。
「兄上」
セレスティアが呼ぶ。
「何だ」
「“正しい相手”を選ぶことと、“欲しい相手”を選ぶことは、同じだと思う?」
リュシアンは一瞬だけ目を細めた。
その問いは、家の会話としてはだいぶ危うい。
だが兄は怒らなかった。
代わりに、少しだけ長く考えてから答えた。
「同じなら苦労はないだろうな」
「……」
「だが、家を背負う人間は、たいてい前者を優先する」
「そうでしょうね」
「そうだ。
欲しいかどうかを先に置けば、崩れるものが多すぎる」
その答えは、あまりにもルーヴェン家の嫡男らしかった。
正しい。
冷静だ。
きっと間違っていない。
なのに、その言葉を聞いた瞬間、セレスティアの胸の奥に、言いようのない息苦しさが広がった。
欲しいかどうかを先に置けば、崩れるものが多すぎる。
分かる。
でも、だからといって前者だけで生きていけるほど、自分はもう綺麗に割り切れていないのかもしれない。
「……お前」
リュシアンがぽつりと言った。
「何」
「例の男のことを考えているのか」
「……」
不意打ちだった。
セレスティアは一瞬だけ呼吸を止める。
だがそこで目を逸らしたら負ける気がして、兄を見返した。
「どうしてそう思うの」
「お前が“欲しい”という言葉を使う時は、大抵、頭の中に具体的なものがある」
「兄上は本当に嫌なところだけ鋭いのね」
「褒め言葉として受け取っておこう」
褒めていない。
だが、そう返してしまうあたり、兄はやはり兄だ。
セレスティアは視線を少しだけずらした。
エイトのことを考えている、と認めるわけにはいかない。
認めた瞬間に、家の会話としていろいろ面倒なことになる。
それ以前に、自分でもそこまで整理できていない。
「……考えていないわけではない」
それが、ぎりぎりの返答だった。
リュシアンは小さく息を吐いた。
「そうか」
「怒る?」
「怒らん」
「意外ね」
「妹が誰を見ているかくらいで感情的になるほど、私は暇ではない」
「その言い方は少し腹が立つわ」
「だが、確認はしておく」
兄の声が少しだけ低くなる。
「お前は今、あの男といることで楽をしているのか」
「楽?」
「“正しい相手”と向き合う息苦しさを、あいつの存在で誤魔化しているだけではないのか、という意味だ」
その一言は、思っていた以上に鋭かった。
誤魔化しているだけ。
楽をしているだけ。
もしそうなら、全部が軽くなる。
エイトはただの逃げ場で、家の正しい流れが来れば、いずれ自然に手放すべき“今だけの相手”になる。
でも――
「違うわ」
セレスティアは即答していた。
自分でも驚くくらい、迷いのない声だった。
リュシアンがわずかに目を見開く。
「違う?」
「ええ。
楽をしているわけじゃない。
むしろ、余計に面倒になっている部分も多い」
「だろうな」
「それでも」
セレスティアは少しだけ言葉を探してから続ける。
「誤魔化しではないわ」
部屋の空気が静まる。
それは、かなり本音に近い言葉だった。
エイトといることで、確かに楽な部分はある。
正しさだけで構成された社交の圧を、少し脇へ置ける。
家格や利害ではなく、今この場でどう立つかに集中できる。
でも、それはただの逃避ではない。
あの少年は、最初から不器用なくせに真っ直ぐ前へ出てきた。
下級貴族で、危うくて、時々驚くほど鋭くて、時々馬鹿みたいに率直で。
楽な相手ではない。
むしろ、こちらの心の方をかき乱す。
それでも、誤魔化しではないと、今は言えた。
「……なるほど」
リュシアンが小さく言った。
「少なくとも、お前の中で“ただの仮置き”ではなくなっているらしい」
「兄上」
「事実だろう」
「……」
「否定はしないのか」
「できないわね」
そこまで言うと、兄はほんの少しだけ視線を和らげた。
珍しい。
リュシアンがここまであからさまに感情を緩めるのは。
「なら」
彼は机上の封書を指先で軽く押さえた。
「返答は少し待たせる」
「え」
「クラーヴェル家への正式な返事だ。
今のお前に“正しいから受けろ”とだけ言っても、碌な結果にならん」
「……兄上がそんなことを言うなんて」
「お前は私を何だと思っている」
「冷たい合理主義者」
「半分は当たっている」
半分なのか。
セレスティアは少しだけ肩の力を抜いた。
気づかないうちに、思っていた以上に身構えていたらしい。
「ただし」
リュシアンが続ける。
「保留は保留だ。消えたわけではない」
「分かっているわ」
「お前が感情の整理をつけるまで、家が永遠に待つと思うな」
「それも分かっている」
「ならいい」
そこで会話は一区切りついた。
セレスティアは紅茶をひとくち飲む。
今度は少しだけ味が分かった。
正しい相手を選ぶべきか。
その問いの答えは、まだ出ていない。
でも少なくとも、今すぐ“正しさだけ”で押し流されることは避けられた。
そして何より、兄の問いかけによって、自分でも少しだけ明確になったことがある。
エイトは、ただの逃げ場ではない。
ただの仮の立場でもない。
面倒で、不安定で、軽くて、でも、それだけでは片づけられない相手になり始めている。
その事実に気づいた瞬間、安堵と同じくらい、別の種類の焦りも生まれた。
これは、きっともう簡単には戻らない。
本邸から学園寮側の馬車留めへ戻る頃には、夜がだいぶ深くなっていた。
学園の寮生ではないセレスティアは、そのままルーヴェン家の別邸へ戻る。
馬車の中で、彼女はぼんやりと窓の外を見ながら、今日一日のことを反芻していた。
アシュレイ・クラーヴェル。
正しい相手。
兄の言葉。
そして、気づけば何度も浮かぶのは別の顔。
難しい顔をして沈む時のエイト。
何かを言い返す前に一瞬だけ息を吸う癖。
真剣な時ほど、逆にまっすぐこちらを見る目。
時々、変なところで情けなくなるくせに、肝心な場面でだけ逃げないところ。
自分でも、少し可笑しいと思う。
選ぶべき相手としては不十分。
家格も足りない。
社交界の正しさから見れば軽すぎる。
なのに、あちらを思い浮かべる時の方が、自分の感情はずっと鮮明だ。
「……本当に、厄介ね」
小さく漏らすと、向かいではなく隅に控えていたミレーユが視線を上げた。
「何か」
「独り言よ」
「そうですか」
それ以上は聞かない。
ミレーユは賢い。
セレスティアは再び窓の外を見る。
正しい相手を選ぶべきなのかしら。
その問いに、まだ答えはない。
でも少なくとも、“正しさだけで選べる段階ではない”ことだけは、はっきりしてしまった。
そして明日、また学園へ行けば、あの下級貴族の少年はきっと、考えすぎたような顔で馬車に乗ってくるのだろう。
それを思っただけで、ほんの少しだけ気持ちがほどける自分に、セレスティアはまた小さく腹を立てるのだった。




