第12話 オリーブを齧る
珠子は相変わらずドムス・ヴェネニで女王様業に精を出している。
店では「ドミナ・レヴェルサ」を名乗ってはいるものの、客がその名を口にすることはほとんどない。というより、名前を呼ぶこと自体が、めったに許されないのだ。たまに興奮した客が勢い余って叫ぶか、褒美として一度だけ許されたりするくらい。偽名にしては大仰すぎる扱いではある。
ちなみに、ヴィトリオルムでは「ルナ・シモノ」と名乗っているが、こちらはさらに呼ばれる機会が少ない。バーという場では名前そのものがあまり意味を持たないが、名がないとそれはそれで不便だから仕方なく付けた。それだけだ。
最近は「タマコ」と呼ばれることが増えた。偶然が偶然を呼んで本名が掘り起こされたわけだが、そうでなければ今頃は化石になっていたに違いない。
(ここ最近、忙しすぎない?)
今日も迷える子豚が一匹、陶酔しきった表情で店を後にした。
八百屋のように「まいど」と言いたくなるのをぐっとこらえ、正装のままふらふらと立ち去る男の姿を見送る――はずもなく、どっかりと椅子に腰を下ろした。珠子は最初から最後まで理想の女王様を演じなければならないのである。
人恋しくなったらレダに会う。恋しくなるのは人であって、レダではないところが重要なポイントだ。
会いたくて連絡するわけじゃない。ただ、どうしようもなく誰かと時間を潰したくなる夜があって、そのとき、もっとも気軽に呼び出せて面倒を起こさない相手がレダというだけだ。
都合のいい男として扱っている自覚はあるが、それはレダも分かっているはずだ。むしろ、彼は自分が都合のいい男であることにすら誇りを持っているのではないかと思う瞬間すらある。
今日のように気まぐれに電話をしたいつかの夜のこと。
受話器の向こうから女の声が聞こえた。猫が拗ねたときのような甘さを含んだそれは男の気を引くのには十分だったはずだ。それなのにレダは「ちょうど暇だったんだ」と朗らかに言ってのけた。まるで、女の存在を忘れてしまったかのように。あるいは、最初から存在していなかったかのように。
計算だったのか、ただの無神経なのかは分からない。でも、その口調はあまりにも自然で、珠子を喜ばせるための芝居であったとしたら最悪のシチュエーションだった。少なくとも、レダと過ごしていた女にとっては。
女の声はすぐに聞こえなくなってしまったけれど、絶句していたのか、レダが黙らせたのかは判断できなかった。きっと知らない方がいいことだ。
「そのうち先輩の彼女に刺されそうです」
珠子がため息混じりに言うと、レダは手にしたグラスをわずかに傾けた。氷が音を立て、店内のジャズにささやかに重なる。
「おいおい。俺に彼女はいないぞ」
「先輩はそう思っていても、お相手はそうとも限りませんよ」
「勉強になるよ」
珠子はねめつけるような目を向けた。この会話はもう何度も繰り返されていて、ほとんどが定型文みたいなものだ。それでもレダは毎回楽しそうに笑うし、珠子も律儀に皮肉を込める。
暗い照明のせいか、レダの視線が湿って見えた。その意味はさっぱり分からないが、影が妙に似合う男だと珠子は思った。
レダという男は、女を有頂天にさせる天才だ。
一緒にいるときはこの世でいちばんの女のように扱ってくれるし、美辞麗句を惜しまない。美人のウェイトレスや客がいてもよそ見をしないし、それを当たり前のようにやってのけてしまう。
それが、怖い。
自分がなにも知らない無防備な子どもだったとしたら。
レダが自分に会う前に別の女と過ごしたと明確に分かっていたとしても、「会いたかった」と言われるだけで幸せな気分になっていたはずだ。自分こそが彼に選ばれた女だと勘違いをして。
「どうした?」
「なにも」
レダに恋をしていなくて本当によかった。
学生時代に人と関わる余裕があって、毎日のように今のような扱いを受けていたとしたら――きっと、レダの表面的な優しさに依存して、珠子は確実に恋の奴隷になっていただろう。
(優しい人だけど、レダ先輩がいちばん危険だから)
今夜のレダも相変わらずの爽やかさだった。直前に触れた女の体温をずるずると引きずるような男ではない。仕事を終えたばかりの人間のふりで清潔に笑ってみせる。そして、「その口紅、似合ってる」と軽口を叩きながらグラスに口をつける姿は絵のように整っていた。隙がなさすぎて、逆に現実味がない。
「レダ先輩、ほんとにそのうち誰かに刺されますよ」
「はは。どうだろうな」
レダの本命になりたがっている女は多いはずだ。
彼自身は女を舐め腐っているのか、自分がヘマをするはずがないと確信しているのか、表情からは真意が読み取れない。
珠子はレダの交遊関係を知らないが、賢い彼が不利な関係を築くはずがないことは分かっている。連絡先を交換できるのは、きっと聞き分けのいい女だけだ。でも、女の心は秋空よりも荒れやすいことを珠子は知っている。
刺されても文句は言えないとは思うけれど、この男はきっと笑い話にして終わらせる。それがまた腹立たしい。
「これは、ただの興味本位なんですけど」
グラスの氷を指先でかき混ぜながら、珠子は少し体を傾けた。
「レダ先輩って、わたしのこと抱けるんですか?」
グラス越しに、レダの視線がわずかに揺れた。音楽が一瞬フェードアウトし、新しい曲へと切り替わる。その短い空白の中で、レダが口を開いた。
「抱けないと思ったのか?」
「どうでしょう。わたし、経験ないので。そういうことはさっぱり」
「……俺を試しているのか?」
声のトーンが変わった。
いつものレダであればここで冗談のひとつでも挟むはずなのに、今夜に限ってそれがない。だからこそ、珠子は笑ってみせた。
「まさか。冗談ですよ、冗談」
「は」
「まあ、もしそういう機会があれば、先輩からもらった香水をつけておきましょうか」
「……そうしてくれ」
レダは少しだけ目を伏せて、またグラスに口をつけた。そして、数度の瞬きのあとにはもう、いつもの飄々とした男に戻っていた。
その切り替えの早さが、やはり怖い。
「悪い女だな」
「いい女じゃなくて?」
「ああ。俺を弄べるのはおまえだけだよ」
レダが追加で注文したのはアルコール度数の高いショートカクテルだ。
珠子はカクテルにも花言葉のような意味があることを唐突に思い出したが、彼が意識してやってのけたのであれば、なおさら知る必要はないと思った。
珠子は言われた通りの悪い女を演じ切ることにした。感情に揺さぶられないように、言葉の裏を深読みしないように、都合よく、器用に、冷静に。
そうしておけば、大抵のことは都合よく丸く収まる。世の中は、思ったより単純にできているから。