第13話 アイスブレイク・アイロニー
デリク・ダヴェンポートは相変わらずドムス・ヴェネニに通っていた。
その様子は、夕暮れになると決まって同じ電線にとまって鳴くカラスに似ている。つまり、誰の得にもならない習慣ほど妙に安定して続くものだ。しかし、そういうものに限って根が深い。
当然だが、来店したデリクはスーツを着たまま当たり障りのない会話をしていくだけだ。そもそも、この空間は真面目に言葉を交わすための場所ではない。
壁のフックには実用的な無数の鞭やロープが下がり、なんとも形容しがたい玩具がファンタジーで見る武器屋のように整然と並んでいる。
デリクの姿は場違いというより、まるで別の物語に迷い込んだ登場人物のようだった。彼のスーツと珠子のボンテージ衣装が同じ世界のものだとはとても思えない。
プレイ用の部屋なので落ち着きのない空間だし、座るための椅子はない。そのくせ、妙に重厚な蝋燭台だけは中央に鎮座していて、美術セットから飛び出した小道具のようだ。安っぽいわけではないのに、この部屋にはなんとなくバランスが悪い。
デリクは気にした様子もなく、適当な台を椅子代わりにして長い脚をきっちりと揃えて腰を下ろしていた。姿勢だけはやけによかったが、台の高さのせいなのか、本人の習性なのかは判然としない。
「いつまで続けるんですか?」
「なにをです?」
「上客ごっこ」
珠子は脚を組み替えながら尋ねた。鞭を振るう予定もないので、手に持つことはない。
「ごっこではありませんよ」
「本気だったんですか?」
少し眉をひそめた珠子に、デリクは真面目な顔でうなずいた。
「もちろん。どうぞ、そちらの鞭で僕を教育してみては?」
口調は軽いが、冗談だと断言するには目の奥が鋭すぎた。彼は本音を悟らせないことに長けていて、常にうっすらとしたフィルター越しに語ることが多い。だからこそ、そのフィルターが外れた瞬間が異様に印象に残る。突然ノイズが消えたラジオのように。
「数日前からリズワンの機嫌が悪いんです。タマコさんがなにか意地悪をしたのではないですか?」
デリクは唐突に話題を変えた。どうにかしてほしいという風ではなく、ただ単に面白がっているだけだと確信できる表情で。
「どうして意地悪だって決めつけるんですか?」
「運よく手に入れたルクス・エクリプスのおかげで取引は順調。それなのに、ため息が増えて……もしかして、恋煩いでしょうか」
しおらしく涙を拭う仕草は助演男優賞ものの芝居だが、珠子は吹き出しそうになるのをどうにか耐えた。
「……初恋かもしれませんね。温かく見守ってあげたらどうですか?」
「ため息の数が多すぎて執務室が辛気くさ、いえ、なんだか放っておけなくて。どうしたらいいですかね」
「恋って自覚してないかもしれないですよ」
珠子は素知らぬ顔で言った。
十中八九、原因は珠子が依頼して勝手に打ち切ったルーシッドの身辺調査の件だろうが、それを肯定してやる必要はない。
デリクが知っているのは、珠子がリズワンに接触したところまでのはずだ。どんな取引があって、どこまで進んだか、あるいは真相にたどり着いたのか――そこまでは知らないはずだ。
「金にならない仕事をするんですね、あの人」
「便利屋としてのプライドじゃないですか?」
二人の会話は、温度の低い鍋のようにゆるゆると進んでいく。煮詰まらない分、腐りもしない。
「わたしとリズワン先輩の取引はすでに終了しているんです」
「なるほど」
短い相槌の中に違和感を見つけることはできない。一体デリクはなにを知っていて、どこまで気づいているのだろうか。
「リズワン先輩がなにかに気づいたとしても、もう代金は支払わないって言ってあるんですけどね」
「もし、あなたの弱みになることに気づいて強請られるとは考えないんですか?」
「そのときはそのときです」
「……あなた、本当に危機感がないですね」
そう言って笑うデリクの顔には、なんとも言えない疲れのような、悟ったような、世話焼きの苦労人のような影があった。
「違いますよ。麻痺しているんです。本気で危なかったら夜逃げしますよ」
「それがよろしいかと」
その一言には冗談めいた軽さが含まれているのに、どこか本気っぽいのがデリクらしかった。
「そういえば、なんかあったらデリク先輩を貸してくださいってリズワン先輩に言ってあるんです」
「それは初耳ですね」
デリクはわかりやすく嫌そうな顔をしたが、自分が同じことを言われたら、即答で「嫌です」と返していたはずなので、それよりはましかと思って追及しなかった。
「まけてくれます?」
「まさか。きっちり請求させていただきますよ」
「主と奴隷ってことで、お知り合い価格にしてもらえません?」
「タマコさんだって割引してくれたことなんてないじゃないですか」
「うちはきっちり明朗会計なんですよ」
「僕と同じですね」
「……ケチ」
当然だが、この会話が喧嘩に発展することはなかった。
頼れる人間というのは、面倒を引き受けてくれて、しかも口が堅いことが大前提だ。
事情をすべて知るアンリが最も無難ではあるものの、彼は面白さを優先するタイプなのでかなりリスキーだ。リズワンとレダは珠子の職場を知らないこともあり、事情を一から説明するのはなにかと面倒という理由で除外。
結果、適任とは言い難いものの、消去法で残るのはデリクだけなのだ。
人間の判断基準というのは、案外そういう「相対的にマシかどうか」で決まるものなのかもしれない。不思議なことに、よりマシな方を選んでいった先に幸運が転がっていたりするものだ。
「今日って、仕事終わりに来てくれたんですか?」
「そうです」
「お休みは?」
「ありますよ。公的機関に駆け込まない程度には」
「なるほど」
耳を澄ましても隣室の物音が聞こえることはない。魔法が施されたドムス・ヴェネニの防音設備は完璧だからだ。
自分のために用意した水を飲む。もちろんデリクの分はないが、彼が文句を言うことはない。
「僕に興味がおありで?」
「アイスブレイクってやつですよ」
「それは緊張感のある場を和ませるためのコミュニケーション方法では?」
「そうでしたっけ?」
珠子は決してすっとぼけたつもりはなかった。ただの雑談というニュアンスで使ったつもりだったのに、デリクはお気に召さなかったらしい。
無知を追及されるのが面倒で「わたしたち、今さら緊張なんてしませんものね」と言ったら、彼はなぜか満足げに口角を引き上げたので、正解を引き当てることができたのだろう。
今日も特別なことはなにも起きていない。蝋燭の溶けた匂いが空間に広がり、時計の針が静かに進んでいくだけだ。
平凡で、特にドラマもなく終わる一日というものは大抵大事にされない。でも、無駄なようでいて貴重なものだということを珠子は知っていた。
そして、いつか振り返る日が来れば、思い出すのは今日のような記念日でもない一日ばかりになるのだろう。




