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安部公房「鞄」シナリオ

※このシナリオは、あくまでも、物語理解のためのものです。安部公房「鞄」は著作権が生きており、著作権管理者の許可を得ていないため、上演することができません。



奇怪な効果音。

明転。


舞台中央に立つ大きな鞄を持つ男が、まるでパントマイムのように鞄に導かれ、あちらへふらふら、こちらへふらふら動き出す。時に止まり、方向を変え、また歩き出す。それはまるで、鞄と遊んでいるようだ。彼は満面の笑みをうかべ、とても幸せそうだ。


男「べつに不安は感じなかった。ちゃんと鞄が私を導いてくれている。私は、ためらうことなく、どこまでもただ歩きつづけていればよかった。選ぶ道がなければ、迷うこともない。私は嫌になるほど自由だった!」。


相変わらず鞄に導かれる男。

ゆっくり暗転とともに、音楽消える。


ゆっくり明転。

舞台上には事務机と椅子が1つずつ置かれている。

書類に目を落とした男が登場。

椅子に座り、パソコンを用いて何やら仕事を始める。


やがて大きな鞄を持った青年が、上手から静かに登場。

彼の髪とくたびれた服は、少し湿っている。

男の様子を眺める。

男はそれに気づかない。

やがて鞄をことりと床に置く音で、男は青年の存在に気づく。

やや驚いた表情の男。

青年は明るく乾いた笑顔をうかべ、軽く会釈する。


青年「(正直そうだが唐突に)求人広告を見ました」

男「(椅子から立ち上がり)どちらさまですか?」

青年「(無視して) 新聞に載っていた求人広告です」

男は記憶を探り、それが半年前のものであることに気づく。

男「……でももう半年以上も前の求人ですし……」

男は青年が濡れていることに気づく。

男「外は雨ですか?(外を眺めるしぐさ) ずいぶん濡れておいでだ」

青年「それほどでもありません(髪と服を払う)」

男「でも、濡れたままでは風邪をひきます……いま、タオルを持ってきますから。(下手にはけようとする)」

青年「(それをとどめ)大丈夫です。ご心配には及びません。もう、慣れていますから……。それに、こんな雨は、雨のうちに入りません」

男は青年の乾いた笑顔にやや戸惑っている。

青年「歩き続けることも、苦にはなりません」

男、怪訝な表情。

青年「ここにたどり着くまで、いろいろな所を回りました(笑顔)」。

男「(あきれた表情で) 求人広告を出したのは事実です。しかし、なにぶん半年以上も前のことでして」。

青年「(むしろほっと肩の荷をおろした感じで) やはり、駄目でしたか」

青年は鞄を軽々と持ち上げ、来たときと同じ唐突さで引き返そうとする。

はぐらかされた私は、ついあわてて引き留めにかかる。

男「まあ、待ちなさい。私だってこだわるのが当然だろう。なぜ半年も前の求人広告に、いまさら応募する気になったのかな。そこのところを、納得できるように説明してもらいたいね。納得できさえすれば、それでけっこう。ちょうど欠員ができて、新規に補充も考えていた矢先だし、考慮の余地はあるんだよ。いったい、どういうことだったのかな。」

青年「(鞄を下ろしながら) さんざん迷ったあげく、一種の消去法と言いますか、けっきょくここしかないことが分かったわけです」

男「具体的に言ってごらんよ」

青年「(足元に置いた鞄に視線を落とし)この鞄のせいでしょうね。ぼくの体力とバランスがとれすぎているんです。ただ歩いている分には、楽に運べるのですが、ちょっとでも急な坂だとか階段のある道にさしかかると、もう駄目なんです。おかげで、選ぶことのできる道が、おのずから制約されてしまうわけですね。鞄の重さが、ぼくの行き先を決めてしまうのです」

男「(いささか気勢をそがれた様子で) すると、鞄を持たずにいれば、かならずしもうちの社でなくてもよかったわけか」

青年「鞄を手放すなんて、そんな、あり得ない仮説を立ててみても始まらないでしょう」

男「手から離したからって、べつに爆発するわけじゃないんだろう。」

青年「もちろんです。ほら、今だってちゃんと手から離して床に置いている」

男「分からないね。なぜそんな無理してまで、鞄を持ち歩く必要があるのか……。」

青年「無理なんかしていません。あくまでも自発的にやっていることです。やめようと思えば、いつだってやめられるからこそ、やめないのです。強制されてこんな馬鹿なことができるものですか」

男「うちで採用してあげられなかったら、どうするつもり」

青年「振り出しに戻ってから、またあらためてお願いに上がることになるでしょうね。地形に変化でも起きないかぎり……」

男「しかし、君の体力に変化が起きるとか、鞄の重さに変化が起きて、ぜんぜん歩けなくなるとか、宅地造成で新しい道を選べるようになるとかすれば……」

青年「そんなにぼくを雇いたくないんですか」

男「可能性を論じているだけさ。君だって、もっと自由な立場で職選びができれば、それに越したことはないだろう」

青年「この鞄のことは、だれよりもぼくがいちばんよく知っています」

男「なんなら、しばらく、あずかってみてあげようか。」

青年「まさか、そんなあつかましいこと……。」

男「なかみは何なの。」

青年「大したものじゃありません。」

男「口外をはばかられるような物かな。」

青年「つまらない物ばかりです。」

男「(鞄と青年を交互に見て) ちょっと変なたとえなんだが、赤ん坊の死体なら、無理をすれば三つくらいは押し込めそうだね(笑)」

青年「不吉なことを言わないで下さい。そんな物騒なものは入っていません」

男「金額にしたら、いくらぐらいになるの。」

青年「べつに貴重品だから、肌身離さずってわけじゃありません。」

男「しかし、知らない人間が見たら、どう思うかな。君はそう、腕っ節の強いほうでもなさそうだし、ひったくりや強盗に目をつけられたら、お手上げだろう。」

青年は小さく笑う。男の額に開いた穴をとおして、どこか遠くの風景でも見ているような、年寄りじみた笑い。笑っただけで、返事はしない。

男「(負けずに、声をたてて笑いながら) ま、いいだろう。(額に手をあてがって相手の視線を押し戻し) べつに言い負かされたわけじゃないが、君の立場も、なんとなく分かるような気がするな。いちおう、働いてもらうことにしよう。それにしても、その鞄は大きすぎる。君を雇っても、鞄を雇うわけじゃないんだから、事務所への持ち込みだけは遠慮してもらいたい。その条件でよかったら、今日からでも仕事を始めてもらいたいんだが、どうだろう。」

青年「けっこうです。下宿が決まったら、下宿に置いておきます。」

男「大丈夫かい。」

青年「どういう意味ですか。」

男「下宿から、ここまで、鞄なしでたどり着けるかな。身軽になりすぎて、途中で脱線したりするんじゃないのかい。」

青年「下宿と勤め先の間なんて、道のうちには入りませんよ。(さわやかな笑い声)」

男「(ほっと肩の荷をおろした表情で) それじゃあ、知り合いの周旋屋に紹介してやろう」


男、スマホを取り出し、電話をかける。

ここから無音で演技。

その様子を見つめる青年には、不気味な笑顔が浮かんでいる。


男「いい所がちょうど空いているそうだ。さっそく下見に行ってみるといい」

青年「ありがとうございます(礼)」


青年は上手に退場。

後に例の鞄が残されている。

それを見つめる男。

音楽、フェードイン。


男は、なんということもなしに、鞄を持ち上げてみる。

ずっしりと腕にこたえた様子。

しかし男は諦めず、ためしに、二、三歩、歩いてみる。

もっと歩けそうだ。

男は鞄に導かれるように、舞台の上をしばらく歩きつづける。

途中、さすがに肩にこたえはじめる。

それでもまだ、我慢できないほどではない様子で、歩き続ける。

腰骨の間に背骨がめり込む音がする。

その瞬間、男の進行がピタリと止まり、そこから先にはどうしても進めない。

方向転換を試みる男。

すると、また歩けはじめた。

相変わらず鞄が主で男は従の関係。


男「そろそろ事務所に戻らねば」

引き返そうとするが、どうもうまくいかない。

男「(あたりを見回し)それにしても、ここはどこだ?」

道順を一生懸命思い浮かべようとする男。しかしどうしても思い浮かばない。

男「記憶がずたずたに寸断されて使いものにならない」

鞄を持たない方の手で、頭を抱える男。

男「(それでもなんとか歩きだしながら) どうして坂が上れないんだ?」

男は架空の坂を一生懸命上ろうとするが、やはり上れない。

やがて諦めた男は、やむを得ず、とにかく歩ける方向に歩いてみるしかなかった。

どこを歩いているのか、よく分からず、混乱した様子。

男「一体ここはどこだ? 俺はどこまで歩いて行けば良いのだ?」


次の瞬間、男の表情は満面の笑顔に一変する。

男「べつに不安は感じなかった。ちゃんと鞄が私を導いてくれている。私は、ためらうことなく、どこまでもただ歩きつづけていればよかった。選ぶ道がなければ、迷うこともない。私は嫌になるほど自由だった!(歓喜の表情)」。


男「鞄による導き。嫌になるほどの自由。もう、ためらう必要が無い。何も考えずにどこまでもただ歩きつづけていればいい。

……道を選ぶ必要が無い。もう迷うこともない。完全なる心の解放!」

幸福に満ちた表情の男。

音楽、大きくなり、また小さくなる。


男「人は、常に楽をしようとする。そこに登場したのがこの鞄だ。鞄は持ち主の代わりに考え、判断し、指針を示す。思考と判断の代替装置。面倒は嫌だという、人間の無意識の拡大装置が、この鞄だ。

……いや、そうではない。拘束や不自由を、自由と感じさせる鞄の魔力。しかし実は人がそのように思い込んでいるだけなのではないか。

この鞄は、呪力を持たない、ただの鞄だ。人間の方が勝手に魔力を持つと思い込み、すべてを鞄のせいにして、二重の「楽」をしようとしている……。

(鞄を見つめ) そこに、あらぬ魅力と魔力を勝手に感じ、すべてはその力と錯覚する。


この鞄を化け物にしてしまったのは、人間の心だ。自らを拘束しその自由を奪い、楽をどこまでも求め責任を回避しようとする、人の内なる心性だ」。

男は再び鞄に先導され、舞台上を歩き回される。

男「これが、この鞄を持ってしまった人間の末路だ。鞄によって道が決定されてもべつにいい、どうということはない。それによって逆に不安を感ぜずに済む。ちゃんと鞄が自分を導いてくれている。自分はただ、道の選択にためらうことなく、どこまでも歩きつづけていればよい」。


男はピタリととまり、恍惚の表情で鞄を眺める。


男「もはや自分には選ぶ道がない。しかし迷うこともない。自分はただ、嫌になるほどの自由を謳歌すればいい。責任のない自由! やっと、至福の自由を手に入れたんだ!」

鞄を抱きしめる男。


音楽、大きくなる。

暗転とともに、音楽消える。


奇怪な効果音。

明転。

舞台中央に置かれた鞄にピンサスが(とも)る。

その傍らに満面の笑顔で立つ男。

男は、鞄を開け、その中に入る。

首から上だけとなる。

男は何かを呟くが聞こえない。

その表情はうれしそうでもあり、悲しそうでもある。

男の頭は、すっかり鞄の中に入る。


初めはゴトゴトと動いていた鞄だったが、やがてピタリと動かなくなる。


ゆっくり暗転とともに、音も消える。


幕。

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