勧誘
誤字脱字報告、ありがとうございます!
脳が働かない。考えることができない。
私は、目の前の光景を飲み込むことが出来ずにいた。
私の知っている顔。いつでも冷静で、ちょっとぶっきらぼうで、
時々、しょうがねぇなっていうように微笑む人。
私たちの中で、1番エネルギッシュで騒々しかったのは教授。
他は文系で専門性を好む人たちが多かったから、
私たちは静かに過ごすことの方が多かった。
この緊迫した状況で思い返す事ではないと思うのに、
私の頭の中は、なぜかいつも通りだったはずの日常が流れている。
そうだ、私達が居た日常……。
その瞬間、甲斐先輩の掌の上が揺らめいた。
もう一度、自分の置かれている立場を認識させるかのように
私の全身は恐怖で震え上がった。
まだ構えただけなのに、背中に冷や汗が流れ落ちる。
……嫌な汗……。
私のいる場所から、中庭の石橋は近いとは言えない。
歩いて10分ほどはかかるだろう。見晴らしが良いので近く見えるだけだ。
……どうやって屋敷の真ん中に……?
思い出に浸っている場合ではない。
この疑問が私を、瞬時にこの世界の日常に引き戻した。
そうだ、考えなきゃ。どうやって、あの影に近寄る?
……時間を稼がないと……。
私は、隼に手をかけたまま、構えを解いて立ち上がった。
……先輩、動かないでよ!! こんなことになった理由、説明してもらうんだから……!!
私は、静かに歩き出した。隼を握る手にも、ジワリと汗を感じる。
皆に異変を感じ取られないように、静かに静かに……。
今の所、どちらにしても私しか影を見ることはできない。
下手に皆で騒ぐより、先輩と話をして時間を稼いだ方が得策だ。
被害が出ないように細心の注意を……。
甲斐先輩は、歩き出した私を見て
いつもの彼らしく自重したように微笑んでいるように見えた。
意図が分からない。なぜこんなに挑発するかのように現れたのか?
宣戦布告……? ……持っている力の強大さと釣り合っていない。
彼は、その気になればアッという間にこちらを混乱させることができる。
どんなに私への警護が強靭でも、私を連れ去らうことなど
簡単にできそうなのに、策をしかける気配もなかった。
どちらかというと正々堂々と現れた。そう思えるのだ。
何が狙いなのかさっぱり分からない。
強いて言えば、この國を狙っているとも思えないのだ。
人知れずに侵略をねらう……?それにしては無策にみえる。
先輩の力を充分に戦いに使っていないのだもの……。
それとも、先輩の力は人では御せない……?
だから、こんな脅しのような方法にしか使っていないの……?
頭の中が疑問だらけだ。でも、私が彼に向かって歩き出しても、
彼は微動だにしない。近づいたら一緒に来ないと影を放つと言うのだろうか?
それならそれで……。
私はできるだけ気配を消して歩いた。
何者も刺激できない。もちろん影も……。
ああぁ〜〜、あの影、嫌だなぁ……。
この際だ、心の中だけにするので思いっきり愚痴らせてもらおう。
だって、嫌なものは嫌なのよ……。
怖いんだもの。念の塊というか、何というか……。
人って、もちろんネガティブな感情を持っている。当たり前のことだ。
でも、その感情をぶつけないようにしたり、隠したり
、工夫して自分の中に納めることができるのも人なんだと思うのよ。
だから他の人と上手くやっていくことができる。
でもね、影ってその工夫がない、カケラもないように感じるのよ。
だから怖いんだと思う。なんの躊躇もない負の感情。
そんなのぶつけられたら、たまったもんじゃないでしょ?
鬼火も、油断すれば取り込まれるって言っていた。
それでも伊吹様は、浄化って言葉を使う。
それもまた人、感情も空に返す。
私は、この世界の人たちの、その優しさが好きだ。
影は……?やっぱり、この塊の元がなんであれ、帰る場所があるなら
帰してあげたい。だから、どんなに怖くても、震えが来るほど総毛だっても、
影は、やっぱり人の何かだと思う。
だから浄化する心を持っていたい。そして、そう強く願っていないと、恐怖に負けそう。
私の理想は、もう脳裏にしっかりと刻み付けられている。
1番最初に鬼火の浄化をみせてくれた実道様。
あの、穏やかな表情のまま隼を振り切りたい。
気負いもなく、かといって哀れみもなく、ただ空に帰してあげたい、
その想いを持っていれば、実道様に近づける。そう信じて稽古してきた。
中庭は、こんなに広かっただろうか?
すごく長く歩いた気分。
小さな石橋のたもとに、もう少しで辿り着く。
そこまできた時、聴き慣れた声が耳に届いた。
「雫、来たか。帰るぞ。元の世界に俺と一緒に帰る」
あぁ、いつもと同じ。低い声と静かな話し方。
甲斐先輩は、いつものように結論から私に話したのだった。




