終幕
「安心せい……二人とも、よう寝とるわい」
「じいさん……意識が戻ったんだな。よかった、本当によかった」
私は安心しました、意識が戻ったなら助かるに違いないと思っていたのです。
でも現実は残酷でした。
その残酷な現実をじいさんは理解していたのだと思います。
続くじいさんの言葉が私の希望的観測を粉々に打ち砕きました。
「ああ、わしも……本当によかったと思うよ。最後にお前さんとお喋りできて」
じいさんの言葉で全身が冷えていきました。
もうすぐじいさんが死ぬ。
それが事実だと理解できてしまいましたから。
「な、なにいってるんだよ、じいさん。そんな怪我すぐに治るに決まってるじゃないか?鍛え方が違う、だろ」
「いやいや…………もう、ええんじゃ。十分なんじゃよ」
実に穏やかな、幸せそうな言葉でした。
きっとじいさんは今、幸せだった生涯を思い起こしているのでしょう。
私は……私は認められなかった。
じいさんと一緒に『大洋に燃えろ』最終回を観るんだ。
じいさんに葡萄の苗木の植え方を教えてもらうんだ。
お孫さんたちに親友として紹介してもらうんだ。
俺の親父とお袋と一緒に佳作入選記念パーティで、村に伝わる葡萄狩りの民謡を歌ってもらうんだ。
「だから、死んじゃだめだよ!元気にならなくちゃ……」
「わしはのぅ……今が一番幸せなんじゃ。満ち足りとるんじゃ。妻には先立たれたが、この年齢まで生きた。葡萄を沢山育てた。家も建て増しした。孫も抱いた……そして今」
じいさんはきっと笑っていたのでしょう。
皺だらけの顔をクシャクシャに崩して。
「娘と孫の顔を見ながら……逝ける。最高の贅沢じゃ。もう望むことはない……いや」
少しだけ残念そうな声になりました。
「ひとつだけ叶いそうにない望みがあったわい」
「叶いそうにない望み?それは、なんだい?」
「うむ、それはな……ドアの外で泣きべそかいてる三文小説家の泣きっ面を拝めんことじゃよ」
一瞬の間を置いて、笑いがこみあげてきました。
こんな時にまで、じいさんったら。
「…………アハ、アハハハ。確かにそうだよ、アハハハハ」
「ヒヒ、ヒヒヒ、ヒヒヒ……」
ドア一枚挟んで哀しい笑い声がふたつ夜のしじまに響きました。
「ハハハ、確かに、拝めないや……百年後にならなきゃな、ハハハ」
「イヒヒ、まったくじゃ。残念なこった。ヒヒヒ、ヒヒ……ウッ!」
「じいさん!」
突然、じいさんの声が乱れました。苦しげな呼吸、毛布の擦れ合う音。
「じいさん、どうした、じいさん!」
「ウグ……ギッ、さ、サヨナラじゃ、若造。未来のあの世でまた、会おう……」
バンッと乱暴にドアを蹴り開けました。
娘さんに気づかれるとか、そんなことはもうどうでもよくなっていました。
しかし、そこにあるのは誰もいない、現在の物置部屋……のはずでした。
なぜ、その時だけあんなことが起きたのかわかりません。
今までのことが神様の気まぐれか悪戯ならば、その時起きたのは神様のプレゼントに違いありません。
人生を全うした誠実なひねくれ老人への最後のプレゼント。
「…………!」
そこは見慣れた物置部屋ではありませんでした。
ベッドと小さな机と、椅子がひとつと。
机の上のランプの灯が薄暗いながらも部屋を照らしていました。
椅子にはやつれた顔の女性、彼女の膝にはあどけない寝顔の男の子。
その二人の寝顔を優しくベッドの上から見つめているのは……皺だらけの老人。
老人はドアを突然開けて、いきなり入ってきた私に驚いているようでした。
しかしすぐに理解したんでしょう、私が誰なのか。
満足げに微笑むと私に向かって、そっと手を差し伸べました。
私も笑顔でうなずき、ベッドに向かって歩き出しました。
いつもは気をつけないとギシギシと鳴る床板が、今日は音一つしませんでした。
ベッドの側に来た私は老人の手を取りました。
長年の過酷な農作業で荒れてゴツゴツした岩か、石みたいな手はとても暖かかった。
二人とも何をいうでもなく。
死という残酷な結末に怯えるでもなく。
ただ出会えた喜びを分かち合っていました。
それは何時間にも感じられ、あるいは一瞬とも思える奇妙な時間でした。
気がつくと、つぶらな瞳が私を見上げていました。
いつのまにか目を覚ました男の子が不思議そうに私を見ていました。
私が片手で頭を撫でてあげると、男の子は嬉しそうに笑顔になりました。
終わりの瞬間が来ました。
老人の顔が苦痛に歪みました。
私も男の子もハッとして老人の手を握り返しました。
その気配に女性も目覚め、私という見なれぬ男の姿に驚き、最期を迎えようとする父親の姿に息を呑みました。
女性が何か叫び、老人の唇が何かの言葉をつぶやきました。
私にはどちらも何も聞こえませんでした。
老人のまぶたがゆっくりと下がっていきました。
手から力が抜け去って、私の手から離れていきました。
私も自分でもわけのわからない叫びを上げて、落ちていく老人の手を掴まえようとしました。
手は空を切りました。
気がつくと私は暗い物置の中で一人で泣いていました。
何の音もない静かな家で、ひとりぼっちでした。
そして過去からの物音を耳にすることはその後、二度とありませんでした。
来るのがわかっていた別れの時間。
覚悟していても、していなくても。
待ってはくれないんですよね。




