06:大きな手
背中を拭くと言い出したオーランドは随分と真っ赤になっているが、それでも「見ないようにする」だの「服を着たままでいい」だのと急くように話しながら準備を始めてしまう。
「ですがぼっちゃまにそんなことをさせるわけには……」
「大丈夫だ。それに、さっき旅猫から聞いたんだが、ここいらには『病人は健康な人に汗を拭いてもらうと治りが早くなる』という言い伝えがあるらしい」
「そんな言い伝えが? 不思議ですねぇ」
「あぁ、俺も初めて聞いたが、なんでもタオル越しに鋭気が伝わるらしい。医学的な効果とは違うだろうが、倣ってみるのも悪くないだろ。……た、ただ、男の俺に触られるのが嫌なら、さっきの店員に戻ってきてもらうが」
「いえ、嫌というわけでは。ですが恥ずかしい……」
「恥ずかしい!? そ、そうか、そうだよな! 俺は立派な大人の男なんだし……!」
「ぼっちゃまに背中を拭いてもらうなんて、子供に背を流してもらう親のような気分で、なんだか気恥ずかしいです」
照れくさいとステラが笑えば、オーランドが一瞬目を丸くさせ……ガクリと肩を落とした。
「子供、か……。ステラ、俺は確かに年下だが、三歳差だからな」
「存じております。たとえ話ですよ。そんな気持ちというだけです。それに、私とぼっちゃまでは親子ではなく姉と弟です」
「弟……まさか追撃がくるとは……」
ぐぅとオーランドが唸る。
なんとも苦しそうな唸りではないか。やはり熱中症では……とステラが案じるも、その視線に気付くとオーランドはコホンと咳払いをして誤魔化してしまった。
次いでタオルを湯に浸して準備を始めるので、ならばとステラもベッドのふちに腰掛け、シャツのボタンをいくつか外して緩める。幸い今日は上下に分かれた服を着ており、これならばあまり肌を露出せずとも背中を拭いてもらえるだろう。
「では、お願いできますか?」
「あ、あぁ……任せてくれ……!」
「ぼっちゃま、どうなさいました?」
「自分で言い出しておいて怖じ気付いてきた……。いや、だがここで引くわけにはいかない!」
己を奮い立たせ、オーランドがタオルを掴んだ。
なんと決意にあふれて勇ましい瞳だろうか。タオルを絞る手にも気合いが入っているのが見てわかる。その気迫はまるで戦場を前にした騎士のごとく。
もっとも、彼の気合いの理由がわからぬステラからしてみれば、
(あんなに気合いを入れて拭かれると痛そうだわ……)
というところでしかないのだが。
だが拭いてもらえるのは有り難いので、ステラは一言「お願いします」と告げ、くるりとオーランドに背を向けた。
ステラが待っていると、ゆっくりとシャツがめくられる。
「そ、それじゃ、ステラ……いくぞ……」
「えぇ、お願い致します」
二人の間に若干の温度差があるものの、オーランドがゆっくりとステラの背にタオルをふれさせる。
熱すぎず冷たくもなく、程良い暖かさにステラが目を閉じた。
ゆっくりとタオルが背を拭い、一度離れ、また湯に浸されて背に触れる……。時にぐいと強く、時にくすぐったい程に優しく、肩口から腰までをしっかりとタオルが拭っていく。タオルが通った後はひんやりとした涼しさを感じ、それがまた心地好い。
だが心地好さに浸りきれず、ステラはうっすらと瞳を開けた。
(ぼっちゃまの手は、こんなに力強くて大きかったかしら……)
と、そんなことを思う。
タオル越しに伝わるオーランドの手は、大きく、力強く、そして時に優しい『大人の男の手』なのだ。
とりわけ今はオーランドに背を向けているため彼の顔は見えず、背に触れるタオルと、それ越しの彼の手に意識が集中する。
まるで立派な男性に背を拭かれているようではないか。
だが背後に居て背を拭いてくれているのは間違いなくオーランドである。たとえ姿は見えなくても、「痛くないか? 冷たくないか?」と心配そうに尋ねてくれるこの声を聞き間違えるわけがない。腰を拭われるくすぐったさにステラが身を捩れば、「すまない、痛かったか!?」と慌てだすところなどまさにだ。
つまりこの手は、この大きく力強くまさに立派な男性といった手は、オーランドの手なのだ。
(あ、あら……もしかして、私とんでもない事をお願いしてしまったのかしら……)
今更ながらに自覚し、ステラの頬がポッと赤くなる。
一度意識してからというもの、オーランドの手が気になってしょうがない。心臓が早鐘をうち、体の中に熱が戻ってくる。
彼に汗を拭いてもらっているというのに、これでは逆に汗をかいてしまいそうだ。
「ぼっちゃま……いえ、オーランド様、あの、もう大丈夫ですよ」
「そうか?」
「え、えぇ、ありがとうございます。スッキリしました。今夜はグッスリ眠れそうです」
急いでシャツのボタンを止めてオーランドに向き直れば、彼がほっと安堵したように笑った。
次いでまだ手にしていタオルを桶に戻す。その手はやはり大きく、節が太く、まさに男の手なのだ。
なぜだか彼の手が妙に気になってしまい、ステラは慌てて立ち上がると、着替えなくては就寝の準備をしなくてはとふらふらと部屋の中を歩き回った。じっとしているとオーランドの手を凝視してしまいそうなのだ。
ぱっと浴室に入り込んで寝間着を新しいものに着替え、出てくると再びオーランドの手が気になってしまい、今度は歯磨きのためにと浴室に再び逃げ込む。
幸いオーランドはステラの行動には疑問を抱きはしなかったようで、手早く桶やタオルを片すと立ち上がった。
「それじゃ、俺はこれを返して少し夜風に当たってくる。そんなに遅くはならないつもりだから、ステラはゆっくり休んでくれ」
「は、はい、ありがとうございます。どうぞごゆっくりと、でも夜道にはお気をつけくださいね」
「あぁ、わかった」
また明日、とオーランドに告げられ、就寝の言葉で返す。
そうしてパタンと扉が閉められ、ステラはようやく落ち着いたと言いたげに深く息を吐いた。まだ頬に熱が残っているような気がする。
「せっかくかき氷を頂いたのに、また熱くなってしまったわ」
はたはたと己を扇ぎ、こんな夜は寝てしまうに限ると就寝の準備を進めた。
※
ステラの部屋を出て、オーランドはなんとも言えない表情で壁に背を預けていた。
通路で立ち尽くすなど不審者扱いされかねないが、今は胸中が落ち着かず、何をしていいのかわからないのだ。外に出ようにも今の状況では人前に出られるわけもなく、かといって自室に戻っても一人悶々とするだけなのは分かり切っている。
そうしてふと思い立って自分の手を見つめた。
タオル越しとはいえ、ステラの肌に触れたのだ。つい数分前のことを思い出せば一瞬にして恥ずかしさがわき上がり、慌てて頭を振った。
直接触れたわけではない。それでもステラの細さや柔らかさ、女性らしい体つきは伝わってきた。抱きしめたいと欲に駆られ、そのたびにタオルを湯に浸すことで煩悩を宥めた。
もしも己の煩悩に色がついていたのなら、きっとこの桶の中にはそれはそれは色濃いものが浮かんでいたことだろう。
「い、いや、でもこれはステラのため……。そうだ、ステラが元気になってくれるためだ。疚しい気持ちなんてこれっぽっちも……」
「おや、オーランドさん」
「ほ、本当に疚しい気持ちなんてなかったんだ! そりゃ少しはと言われれば否定はでき……。な、なんだ、旅猫か」
「こんニャところでどうしました?」
廊下に立ち付くし、それどころかぶつぶつと独り言を呟くオーランドを不振に思ったのか、旅猫が不思議そうに顔を見上げてくる。
アーモンドのような大きな瞳に見つめられ、オーランドが居心地の悪さを覚えて他所を向いて誤魔化した。猫らしい彼の瞳に見つめられていると、なんだか自分の邪な気分を見透かされたような気がしてくる。
「な、なんでもない。それより、さっきは良い話を聞かせてくれてありがとう。かき氷を見て、まるで雪みたいだってステラも喜んでいた」
「雪ですか。そういえばスレダリアは雪が降らニャい地域ですね」
「あぁ、俺も本で読んだ事しかない。……そ、それと、あの言い伝えについても」
先程の事を思い出し、オーランドが頬を掻く。
『病人は健康な人に汗を拭いてもらうと治りが早くなる』と教えてくれたのは旅猫だ。そのおかげで良い思いを……もとい、ステラが心地よく休めるのだから、礼を言わなくてはならないだろう。
そうしどろもどろに話せば、旅猫がただでさえ丸い瞳を更に丸くさせた。
「おやまぁ、あれを信じたんですか」
「どういう意味だ?」
「いえいえ、お気にニャらさらず。ステラさんが休めるニャらそれに越したことはありません」
「ま、まさか嘘なのか!?」
「そうだオーランドさん、せっかくだからサウニャに行きませんか。ここでは風呂よりサウニャが主流ニャんです。風呂とは違った爽快感が味わえますよ」
「それよりもさっきの話を……!」
一方的に話を進めて歩き出す旅猫を、オーランドが慌てて追いかける。だがどれだけ問いつめても旅猫はニャフフと笑うだけだ。
悪戯っぽく笑う猫の獣人と、真っ赤になって慌てふためく青年。
事情を知らぬ第三者はいったい何事かと思うだろう。現に数人が不思議そうに通り過ぎる二人を見送る。
だが今のオーランドには周囲の視線を気にする余裕など無く、ステラになんと説明すればいいのかと情けない悲鳴をあげた。