第80話 10歳:偽りの仮面、あるいは幾重のコード
――カイトの手がかりが途絶えてから、五度目の冬が来ていた。
透き通る結晶魔導ガラスから冬の澄んだ光がやわらかく降り注ぎ、高度に組み上げられた魔導陣は、館全体を春の陽だまりのような温もりで包み込んでいる。
廊下を渡る風には清冽な氷華の香りが微かに舞い、磨き上げられた黒銀の床石は、静謐なる聖堂の回廊を思わせる厳かな光沢を放っていた。
そこはまさに、幼き聖女が自らの才覚と執念で作り上げた影の城砦――シルフィード公爵家西別邸だった。
冬の静寂が降り積もる、朝のはじまり。
書斎に置かれた大型の魔導計算盤が、カタカタと低い音を立てて結果を打ち出した。
「――リア様。王都魔導技師ギルドより『氷華回路』の最新出力テストのレポートが届きました。また、領地開発における今期の予算算定シートも、ご指示通りの修正案で上がってきております」
護衛侍女のセレスが、湯気を立てる香り高い紅茶のカップを静かにテーブルへ置きながら報告する。
リアの視線は膨大な書類からわずかに上げ、優雅に紅茶を一口含んだ。
「ご苦労様、セレス。……回路の魔力変換効率が規定値より3%落ちているわね。基盤の術式に外部干渉の痕跡があるはずよ。オズワルド技師に直ちに再計算を命じてちょうだい」
「畏まりました。すぐに手配いたします」
セレスが深く一礼しようとした、その時だった。
「――優雅な朝のひとときに立ち入る非礼、どうかお許しを」
突然、部屋の空気が陽炎のように微かに歪み、透き通るような高音が静寂の書斎に響き渡った。
セレスが弾かれたように腰の短剣に手を伸ばすが、それより早く、空間の位相から滑り出るようにして一人の異彩が立ち現れる。
そこに立っていたのは、空間の色彩と光を吸い込み、蜃気楼のように揺らめく一筋の透けた人影であった。その者は、洗練された所作で胸に手を当て、優雅な一礼を捧げた。
「直接の拝謁は初めてとなりますね、シルフィード公爵令嬢。私はヴァルハイト連邦最高幹部直属、『第0特務室』所属の『影』と申します。……かねてよりご依頼いただいていた、カイト・フォン・アデルハルト殿の捜索に関するご報告に上がりました」
リアはセレスを片手で制して警戒を解かせると、背筋を伸ばし、静かにその言葉の続きを待った。
「結論から申し上げますと……現時点において、カイト殿の具体的な所在の特定には至っておりません。依然として『行方不明』のステータスでございます」
『影』は調査記録を収めた羊皮紙を静かに卓上へ差し出し、冷徹に事実を告げる。
「王国内の主要な情報網および、地下深層に存在する極密施設を走査いたしましたが、彼の生体反応は完全に途絶えております。王国側が厳重な遮断術式を用いて隠蔽している可能性が高く、物理的な追跡は困難を極めております」
報告を聞いた瞬間、リアの息が短く止まった。
澄んだ瞳が大きく見開かれ、みるみるうちに大粒の涙が溢れ出していく。気高くあろうと保っていた肩がかすかに震え、磨き上げられた黒銀の床石へポロポロと雫が零れ落ちた。
唯一無二の理解者であり、この世界で自分を真に理解してくれたカイト。大国の『第0特務室』をもってしても探知不能という現実――もう二度と会えないのではないか、自分を自分たらしめているのは『石の護符』とカイトが繋いでくれた絆だけなのだという底なしの絶望が、彼女の胸を押し潰していた。
「……そんな……。大国の『真の手札』が動いて……それでも、見つからないなんて……」
絞り出すようなリアの声は震えていた。だが、彼女は溢れる涙を震える袖で拭うと、濡れた瞳をまっすぐに『影』へと向けた。絶望の底にあっても、カイトを信じる意志の光だけは消えていなかった。
「……ですが、白銀の特務が誇る『変幻の追跡者』たる貴方が探知不能と判断したこと自体が、我が国の最暗部――『アーク・コード』が彼を幽閉している証拠です。……カイトは、絶対に生きています。あんなところで終わるような人じゃありません……!」
「仰る通りです、リア様。『アーク・コード』の防衛障壁は極めて頑強ですが、我々も手を引くつもりは毛頭ございません。引き続き、最優先事項として王国の深層ログの解析を継続いたします」
「頼みます、『影』……! 私のすべてを賭けてもいい……カイトを、私のもとへ連れ戻してください……!」
「……吉報を持ち帰るまで、いましばらくお待ちを。氷の聖女様」
『影』はフードの奥で小さく揺れるリアの涙を惜しむように見つめ、胸の中で静かに謝罪を呟くと、深く深く重厚なお辞儀を捧げた。
リアへ背を向けたその瞬間――『影』の瞳の奥で青白い異様な魔導波形が無音で脈動する。
(――エアギャップコード実行。空間技能ライブラリ・《座標再定義転移》)
カチッ、と。世界から音が消え失せたかのような一瞬の静寂。
『影』の身体は光の粒子すら残さず、空間の位相の歪みの中に吸い込まれるようにして、音もなく西別邸から消失した。
物理法則をあざ笑うかのような超常の消失劇を見送り、リアはドレスの胸元へそっと手を差し入れ、冷たくも温かいひとつの『石の護符』をたぐり寄せた。
リアはこぼれ落ちる最後の涙を強く拭い去ると、その石を両手で愛おしむように握りしめ、冬の澄み渡る大空を見つめた。
――世界のどこかで必ず生きている少年へと、想いを馳せるように。




