第58話 静寂の共鳴、暗闇の中の契約
メンテナンス・ベイからの冷えた通路を通り、薄暗い特区ドミトリーへと戻ってきたカイト。最小限の動作を維持したまま廊下を進んでいた彼は、共有スペースの陰から現れた小さな影に足を止めた。
以前見た時とは異なり、頭部に重々しい大型の魔導イヤーマフを装着した少女――セレスティア・ベルが、小さく震えながら壁際に佇んでいた。
「……あ」
セレスティアの青い瞳が、暗闇の中でカイトを見つめる。イヤーマフ越しにも絶え間なく脳内へ流れ込んでくる周囲の雑音のなかで、唯一、カイトの発する思考だけが一糸乱れぬ絶対的な静寂と論理で満たされていた。
カイトは無表情のまま足を止め、一定の距離を保ったまま冷ややかな視線を向けた。
(……セレスティア・ベル。『情報共鳴』の固有能力者か)
彼女の能力は、周囲の魔力や他人の脳波をパルスとして受信してしまう過敏な体質。カイトの頭脳は即座に弾き出す。目の前の少女は、レオンたちのような無体な暴力を行使する欠陥品ではなく、極めて精密な『生体レシーバー』であると。
「……俺に何か用か。ノイズの干渉を嫌うなら、近づかないことだ」
淡々と冷め切ったカイトの言葉。しかし、セレスティアにとってその声と思考波形は、脳を締め付ける狂気や欲望の濁ったノイズを綺麗に削ぎ落としてくれる、生まれて初めて触れる「心地よい静寂」そのものだった。
「ちがうの……」
セレスティアは小さく首を振り、おそるおそる一歩を踏み出した。
「あなたの思考だけ……痛くないの。みんなの心が刺さって痛いのに、あなたの頭の中は……氷みたいに綺麗で、静かで……」
「……そうか」
興味を示すことも、同情を寄せることもなく、カイトは冷たく応じた。だが、脳内の並列演算領域では、彼女の『情報共鳴』が持つ軍事的な価値が高速でシミュレーションされていた。
(彼女の受信能力を利用すれば、監査局の監視網を介さずに要塞内の異変やデータの流れを感知できる。俺のハッキングと彼女の共鳴波形を同期させれば、オフラインで不可視の広域検知レーダーとして機能する……)
利用価値のある「パーツ」を見定めたカイトの漆黒の双眸に、わずかな計算の光が宿る。
「セレスティア。俺の近くに居れば、その頭痛が和らぐというのなら、条件がある」
「……条件……?」
「俺の思考波形を遮断膜として使わせてやる代わりに、お前の『情報共鳴』で拾ったドミトリー内の異常値と魔力パルスを、俺へ優先的にフィードバックしろ。……対等な情報取引だ」
さらに、カイトは淡々と、しかし容赦のない精度でリスク管理のルールを付け加える。
「……それと――その大型イヤーマフは外すな。人前では今まで通りノイズに苦しむ被検体を演じろ。俺の近くで波形が急激に平滑化すれば、監査局の生体ログに異常値として検知される。外部を欺くためのダミー(偽装)を維持しろ」
幼齢には複雑すぎる技術用語とセキュリティプロトコル。しかし、彼女の『情報共鳴』は、カイトの脳内に存在する『論理構造と意図』を「言語」ではなく「思考概念(イメージ・論理)」として直接受け取っていた。
難解な言葉の裏にある「何をすべきか」「なぜ隠す必要があるのか」という設計図が、彼女の脳裏へ鮮明に書き込まれていく。
感情的な寄り添いや慰めは一切ない。純粋な利害とセキュリティ対策に基づく提案。しかし、常に狂気と恐怖のノイズに晒されてきたセレスティアにとって、その冷徹で明確な『契約』こそが、何よりも信頼できる救いだった。
「……うん。わたし……あなたの『耳』になる。イヤーマフも……外さない」
セレスティアはイヤーマフの上からそっと手を添え、確かな意志を込めて頷いた。
要塞の暗がりの中で、感情を排した冷徹な天才少年と、過剰な知覚に苦しむ少女の、誰にも知られない静かな協力関係が結ばれた。




