第56話 ソースコードの孤独と、仮面の下の美貌(Side:ゼノン)
――それは、まだ少年カイトと運命的な邂逅を果たし、危険な共犯関係を結ぶよりも前の話。
神聖術式監査局が捉えた「未知の例外」の波形を、施設内のモニター越しに監視していた頃のひとコマである。
神聖術式監査局の最深部。周囲の壁面を埋め尽くす青白いルーンの奔流が、不規則な明滅を繰り返していた。
王国の魔導インフラの根幹――世界のソースコードの直近に位置するこの執務室で、最高幹部であるゼノン・フォン・グレイスは、たった一人で静かに佇んでいた。身長185cmの体躯を包む漆黒のロングコートが、冷厳な空調の風に揺れている。
彼の右袖の中で、微かな、しかし精密な駆動音がチリチリと響く。魔導演算用の無数のルーンが刻まれたその義手は、この世界の理の矛盾を力任せにねじ伏せ、数式として再定義するための特権的なモジュールだった。
なぜ、ゼノンは前世の記憶を持つカイトのような、SEやプログラミングといった現代的なシステム用語を紡ぐことができるのか。
その答えは、彼が辿り着いた孤独な真理の果てにあった。
かつて王国最高の天才魔導師と謳われたゼノンは、魔法の極意を追求し続けるうちに、この世界の理が「神が定めた絶対の摂理」などではなく、極めて機械的かつ複雑に組み上げられた「巨大なプログラム(システム)」であるという真実に、自力で到達してしまった。
目に見える物理法則や高度な神聖術が、すべて一定のルールと変数によって動かされているコードの塊だと看破したとき、彼の脳内にはそれを表現するに最も適した言語体系――独自の「IT・システム用語」が構築された。
さらに、日夜無数のルーンの奔流や魔導の流束を監視し、世界の「バグ(例外や矛盾)」を修正し続ける神聖術式監査局の過酷な環境に身を置く中で、彼の思考回路は完全にシステムの管理者(システムエンジニア/デバッガー)のそれへと変貌していった。
彼にとって魔法の行使はスクリプトの記述であり、世界のエラーはすべて「仕様書の記述を無視したバグ」に他ならなかった。
カイトが「前世の記憶」をベースにしているのに対し、ゼノンは「世界の深淵に独力で辿り着いた結果、偶然にも同じシステム的境地に達した天才」――それこそが、彼が冷徹な管理者としてコードを操る所以だった。
「……まただ。この世界の至る所で、仕様書の記述を無視したバグが散発している」
ゼノンは低く呟くと、その引き締まった指先で、顔面を覆っていた硬質な魔導の仮面へと手をかけた。
やがて捕らえてやるべき「検体」のデータを頭の片隅で思い描きながら、彼は誰一人いない最深部の静寂の中、その仮面を音もなく外した。
――仮面の下に隠されていたのは、息を呑むほどに美しい、素顔だった。
月光をも思わせる艶やかな銀灰色の長髪が、冷ややかな空気にさらされてサラリと零れ落ちる。整いすぎた眉目秀麗な顔立ち、そしてあらゆる感情を削ぎ落としたかのような凍てつく琥珀色の瞳の瞳。そのアンニュイで退廃的な美しさは、暗い執務室の青白いルーンの光を浴びて、まるで人間離れした神秘的な妖しさを放っていた。
孤高の天才ゆえの圧倒的な美貌と、冷酷なまでに研ぎ澄まされた理知が同居するその顔立ちは、もし表舞台の王都の貴婦人たちが見れば、一瞬にして心を奪われ、狂乱の渦に巻き込まれるほどの魅惑を秘めている。
だが、その端正な唇は、世界の不完全さを嘲笑うかのように冷ややかに歪められていた。
「……愚直な神の気まぐれなどではない。この腐ったコードをいつか完全に書き換える『特異点』が、もし本当に現れるというのなら――」
仮面の下の美しき双眸が、モニターの向こうの未知なる存在を捉えるかのように、冷徹にして熱い探求の光を帯びて細められた。
未だ交わる前の、しかし確実に運命の歯車が噛み合いつつあった静かな夜のひとコマであった。




