第54話 生体エラーの消絶と聖母の執着
朝の光すら届かない神聖術式監査局特区ドミトリー。
石造りの冷ややかな廊下には、刺すような消毒薬の臭気と、不気味なほど研ぎ澄まされた沈黙が満ちていた。
昨夜、暗闇の中で激痛に震えていたはずのセレスティアは、夜明けとともに自らの腕を凝視したまま、息を呑んで硬直していた。
昨日の過酷な訓練で皮膚を焼き焦がし、ドス黒く壊死していた熱っぽい激痛は、跡形もなく消え去っている。細く白い腕の表面を指先でなぞってみても、残っているのは新芽のように滑らかな皮膚の感触だけだった。
(痛みがない……。熱も、あの黒い痕も……全部、消えてる……?)
恐怖に引きつっていた少女の胸の奥で、静かな動揺が波紋のように広がる。
昨夜、暗闇の中で確かに感じた、氷のように冷たくも確かな人の手のぬくもり。あれは幻などではなかった。
「――おい、時間だ。全員、検診ドックへ移動しろ」
個室の壁面に埋め込まれたスピーカーから、無機質な館内放送のアナウンスが冷たく響いた。
重い腰を上げた検体たちの中に、六歳のあどけない体格のまま、無表情で立ち上がるカイトの姿があった。
漆黒の瞳には何の感情も浮かんでおらず、小さな歩調で廊下へと滑り出していく。その皮膚の表面からは、探知魔導を完璧に欺くため、あらかじめ《生体パラメータ偽装体》で書き換えた「弱々しく従順な六歳児」の生体波形だけが静かに発せられていた。
辿り着いたのは、鉄の臭いと濃密なフェノール系消毒薬の甘酸っぱい臭気が混ざり合う、最高峰の魔導医療部門『メンテナンス・ベイ』。
空気は骨の髄まで冷やし込むように冷酷で、壁面に敷き詰められた魔導管からは、高濃度魔力栄養液の青白い発光と、微小な機械音がじじじと耳鳴りのように響いている。
「あらあら……おはよう、私の可愛い子供たち」
白衣の裾を揺らし、密やかな笑みを浮かべて出迎えたのは、主席担当医エリカだった。
艶やかな漆黒の長髪を揺らし、白衣の上からでもはっきりとわかる肉感的でしなやかな体躯。アメジスト色の瞳はどこか気だるげな色気を孕み、冷たい陶磁器のように白い肌には浮世離れした美しさが宿っている。
彼女が纏うふわりと甘いハーブコーディアルの香りが、漂う薬品臭を覆い隠すように鼻腔をくすぐる。
だが、その慈愛に満ちた聖母のような微笑みの裏側に潜むのは、肉体を「修復・最適化可能なパーツ」としか見なしていない狂気的な管理欲求だ。
「さあ、今日の定期バイタルチェックを始めましょうね」
エリカは細い指先で高精度の魔導術式を操り、検体たちの生体状態を次々と計測していく。
最初に診察台へ上がったセレスティアの腕に、エリカがそっと白い手袋を嵌めた手を伸ばした――その瞬間だった。
魔導水晶の青白い光が、異変を告げる低い警報音を鳴らした。
「……? 待ちなさい……」
エリカの声から、いつもの甘やかな湿り気が瞬時に消え失せた。
眼鏡の奥のアメジスト色の瞳が、冷たく、研ぎ澄まされたメスのように鋭く光る。
彼女はセレスティアの腕を掴み上げ、その白い皮膚を指先で強く圧迫した。
「昨日の状態では、壊死率は三七パーセント。魔力暴走による組織崩壊の進行速度から見て、今朝には肘上までの切除が必要だったはずよ……」
エリカの吐息が荒くなり、その指先がセレスティアの皮膚に深く食い込む。
痛みに小さな悲鳴を上げるセレスティアを無視し、エリカは狂気的な眼差しで羊皮紙のカルテと魔導水晶の記録を高速でめくらせた。
「傷痕がない……? いいえ、細胞が再生した痕跡すら存在しない。まるで……最初から崩壊など起きていなかったかのように、治癒の術式すら超えた力で肉体が『完璧に書き換えられている』……!」
医療局が誇るいかなる高位術式でも、これほど微細なレベルで組織壊死を「痕跡ゼロ」で完璧に消去することは不可能なはずだった。
それは医学の常識を根底から覆す、まさに未知の異常事態。
「誰が……? いいえ、どのような神秘がこの子に干渉したの……?」
エリカの白く美しい額に、ゾクリとするような歓喜と狂気の汗が浮かぶ。
彼女の視線が、検診室の隅で小さく縮こまっている子供たち――レオン、ヴァルター、そしてカイトへと向けられた。
カイトは怯えたように肩をすくめ、あどけない瞳でエリカを見上げ返す。
探知魔導に捉えられている彼の生体波形は、脳内のリアルタイム処理により「極度の緊張と恐怖でわずかに脈拍が上がった正常な六歳児」の状態へと精密に偽装されていた。
だが、その絶対零度の脳内演算領域では、エリカの生体状態と動揺の波形が冷酷に分析されていた。
(……フフ。食いついたか、狂気の狂信者。……だが、俺が施した《最適化版治癒》は完全なオフライン処理だ。外部の管理システムには一切の痕跡など残しちゃいない。どれほど探ろうと、お前の古い術式体系では永遠に辿り着けない)
エリカはカイトの前に膝をつき、その冷えた頬を艶やかな指先でなぞった。
ふわりと漂う高濃度魔力液の甘い匂い。その瞳の奥には、未知の領域に対する抑えきれない執着の炎が激しく燃え上がっていた。
「見つけてあげるわ……。私に黙って、この箱庭に『完璧な治療』を施した、愛しい異分子の正体を……」
聖母の皮を被った狂医の追及が、静かに、そして確実に動き出そうとしていた。




