第3話 1歳:言語のコンパイルと無垢材の冷たさ
それから1年が経った。
自分の意志で四つんばいになり、膝と手足を使って前に進めるようになった俺は、同時に脳内で大きな「処理」を完了させようとしていた。
この1年間、俺は前世で未知のプログラミング言語や仕様書のないシステムを解析していた手法を使い、周囲の人間が発する「音の羅列(音声データ)」をひたすらバックグラウンドで解析し続けてきたのだ。
ミルクをもらう時の音のブロック。痛い時の接頭語。音のピッチや文脈から単語の区切りを割り出し、助詞の役割を定義し、言語データベースを脳内に構築していく作業。
そうして日々構文解析を続けた結果、今日ついに膨大な音声データが脳内で綺麗なテキストデータとして「コンパイル(変換)」された。
「まあまあ、カイト様ったら! またそんなところで転んで……!」
床の無垢のオーク材の上を進んでいた俺が、畳むのを忘れたおむつの布に引っかかって転ぶと、メイドのマーサが飛んできて抱き上げてくれた。彼女の言葉が、はっきりと意味を持って脳に届く。
「天地を統べる慈愛の女神よ、遥かなる御座よりその温かな手を差し伸べたまえ。
肉体を苛む赤き痛み、神経を蝕む激しき灼熱、今ここに生じしすべての苦痛を我が腕へと集めん。
聖なる光よ、この者の苦悶を微細に解き解し、深き祈りとともに紡ぎて還したまえ――『痛みの彼方へ』!」
そう言ってマーサが両手をかざすと、掌から淡い緑色の光が溢れ出した。光が俺の擦りむいた膝を包み込むと、ズキズキとした痛みが嘘のように引き、開いていた傷口がみるみるうちに塞がっていく。
(……ッ!? 光が、傷を塞いだ!? なんだ今の現象は。細胞の再生速度が異常に跳ね上がっている……質量保存の法則も熱力学も完全に無視してるじゃないか!)
目の前で起きたあり得ない光景に、俺は興奮で心臓が跳ね上がるのを感じた。
(これが魔法。本物の、治癒魔法……!)
未知のテクノロジーを前にして、前世のエンジニアとしての血が騒ぎ出す。俺は目を凝らし、マーサの体内で起きている『魔力の流れ(処理プロセス)』に意識を集中させた。だが、その構造を詳細に読み解いた瞬間、俺の感動は一気に冷や水を浴びせられた。
(……待てよ。なんだこの魔力の流れは。治癒プロセスに行き着くまでに、無駄なループ処理やエラー分岐が多すぎるぞ。……信じられないくらい、ひどく効率が悪いスパゲティコードの用じゃないか)
もちろん、目の前で奇跡を起こしているマーサ自身は、自分の体内でこれほど無駄なエネルギーの散逸が起きていることなど微塵も気づいていない。彼女にとって魔法は「呪文を唱えて発動する神秘の力」であり、その解像度の粗いブラックボックスを疑う者すらいないのだ。しかし、前世で極限の最適化を求められた世界を生きた俺の眼には、その内部の不格好なアルゴリズムが丸見えだった。
思えば、この世界の人間が魔力の動きを一切視認できていないと確信したのには、小さなきっかけがあった。
まだ言葉がたどたどしかった頃、マーサが手元で小さな生活魔法の火を灯した際、カイトはふと
「ねえマーサ、そこ、回路の結び目がねじれてるよ」と指を差してみせたことがある。
だが、マーサはきょとんとした顔で首を傾げるばかりだった。
「糸なんて見えないわよ、カイト様。魔法ってのはね、こうして祈りを込めて、なんとなくイメージして発動させるものなのよ」と、彼女は笑うだけだった。
その時、カイトは悟ったのだ。
彼らにとって魔法とは、大雑把な感覚と経験則だけで撃ち出す属人的な代物であり、構造の歪みや非効率なエネルギーロスに気づく者など——この世界には一人もいなかったのだと。
マーサが消費した魔力のうち、実際に細胞の修復に使われたのは全体の2割程度。残りの8割は空間の熱として無駄に散逸してしまっていた。エンジニアとしての職業病が胸の奥で疼くが、今の俺はまだ満足に言葉も発せない一歳児だ。下手に知識を見せつければ「不気味な子供」として気味悪がられるだろう。
言語野のバグが綺麗に取れたことで、周囲の事情や自分の置かれた環境データもクリアに見えてきた。
俺の名前は「カイト」。ここは「アーク=ルミナス神聖王国」の最北端に位置する「アデルハルト伯爵領」の館だ。
『伯爵家』という高貴な肩書とは裏腹に、年中冷たい風が吹き抜ける最果ての貧しい辺境。父親のアルベルトは厳しい領地経営に頭を悩ませる不器用な領主であり、母親のエレナは心優しい女性だ。中央(王都)からは使い捨ての防壁のように扱われている、スペックの低いローカル環境のようだった。
昼下がり、離乳食の時間がやってくる。木彫りの小さなスプーンで口に運ばれるのは、細かく刻んだ根菜と鳥のささみをじっくり煮込んだスープ粥だ。塩気はごく控えめで、カブの素朴な甘みとハーブの香りが口に広がる。
「美味しい? カイト様、あーん」
「あー……ん……うま、い」
不器用に口を大きく動かして音を打ち出すと、マーサと、隣で見守っていたエレナがハッと息を呑んだ。
「まあ! 今『うまい』っておっしゃいましたわ、奥様!」
「カイトったら、なんてお利口なの……!」
二人から抱きしめられ、頬をすり寄せられる。甘いハーブの匂いと母乳の名残の香りに包まれながら、俺は子供特有の気恥ずかしさに顔を赤くした。
その夜、行灯の油が燃え尽き、静まり返った子供部屋。木製の柵に囲まれたベッドの中で、俺はそっと小さな右手を見つめた。
0歳の時の失敗を元に、体内で少しずつ綺麗に並べ直した青い回路。そこから、ほんの極小——針の穴を通すような量の魔力を指先へと誘導する。
(無理やり力を込めるんじゃない。空間の素粒子と、波長を『同期』させるように……)
バチッ。
小さな紫の火花が散り、指先にツンとした焦げ臭さが漂った。指先が少し赤くなり、じんと痛む小さな失敗だったが、この失敗は新たな「エラーログ」として明確に脳内に記録された。
空気中の密度の違いを変数として計算に入れていなかったことに気づき、俺の口元は暗闇の中で思わず緩んでいた。
オムツを替えられる屈辱に満ちた不便な赤ん坊生活だったが、失敗するたびにこの世界の法則が紐解かれていく暗闇のベッドの中だけは、俺にとって世界で一番刺激的な「実験室」となっていた。




