西暦2001年4月5日木曜日
『門屋さん……。
単刀直入に申し上げますが、そちらとの取引は、来月いっぱいで終わりにさせてもらいます』
「……は?」
スマホに耳を当てたまま、呆然と呟く。
――ぐにゃり。
……と、視界が歪み、三半規管が悲鳴を上げる。
足腰はガクガクと笑っていて、まるで、大地震の震源地にいるかのような心地であった。
驚いたな。
世界っていうのは、たった数秒の台詞でひっくり返せるものなんだ。
しかしながら、俺がこれほど動揺するのは、致し方がないことであろう。
通話先の相手は、このS県内で37店舗を構えるローカルスーパーのバイヤーで、担当しているのは青果類だ。
そして、彼から突然に契約打ち切りを宣告されたこの俺が、何者かといえば……。
「理由を……理由を話してください。
あなた方は、祖父の代から三代にわたって、うちの会社が……門屋商店が作ったもやしを仕入れてくれていたじゃないですか?」
そう、俺こそはもやし農家――門屋商店の三代目。
通話先のバイヤーに、生殺与奪の権を握られている男と言い換えても可。
すがるような俺の言葉に対し、聞こえてくるのは小さな小さな……嘆息。
一応、受話器から口を離す良識はあるようだが、なんとも半端な良識である。
つまり、やっこさんにとって俺は、その程度にしか気遣う価値がない存在ということだ。
今、やっとそのことを悟った。
その証拠に、続く言葉がこれだ。
『バイヤーが仕入先を変える理由なんて、昔から単純なもんですよ。
――値段です。
分かりますか?
今度契約する会社さんは、おたくより――』
……目が、しばしばしたよ。
俺が今いるのは、本当に現実の世界なのかと、そう思った。
しかし、考えてもみれば、逆に現実でなければ、こんな値段での卸は起こり得ない。
「ちなみに、その新しい取引先さんの名前は?」
『それは――』
ほらね。聞いたことある名前。
テレ東の経済番組で、経営者が村上龍とトークしていたよ。今はヒャダインがインタビュアーを受け継いだあの番組だ。
これで、画が描けた。
その会社は、大規模もやし工場で大量生産し、うちみたいな小さなもやし農家ではありえないほどのコストカットを実現している。
とはいえ、薄利で経営を成り立たせるためには、多売でなければならない。
かの会社が新たな売り手として選んだのが、うちにとって生命線であるローカルスーパーチェーンだったわけだ。
うちがこのスーパーで卸しているのは、県内東側の六店舗だけであるが、おそらく、その会社は県内37店舗全てに一括で卸す契約を結んでいることだろう。
『では、そういうわけで、失礼します』
――ブツリ。
……という音と共に、通話が途絶えた。
本っ当に失礼だな、おい。
はあ……。
「あそことの取引を打ち切られるとあっちゃあ、いよいよ、うちも倒産か……」
…………………………。
……………………。
………………。
…………。
……。
しばし、事務所の天井を眺めながら呆けたけど、そんなことをしていても、何にもならない。
こんな時は、そう。
もやしの面倒を見よう。
ガタついた引き戸を開けて、プレハブ事務所から出る。
うちの会社は、このプレハブ事務所、両親と暮らしている昭和建築の家屋、もやし工場が、車を停めたりなどで使う空き地を三方から挟み込む形となっていた。
従業員は、両親と俺を除けば、パートのおばさんが三人ほど。
時刻は14時を回ったところで、パートさんたちはもう帰っている。
父と母は、自宅の居間で茶を飲みながら、俺が戻ってくるのを待っているはずであった。
父と母に栽培と加工の仕事を託し、唯一、元気に車を回せる俺が、弊社唯一の機動力である冷蔵冷凍仕様のハイゼットを使い、各配達先への配送を行うというのが、うちのルーティンだからだ。
昼休憩などという上等なものはなく、昼飯は母が作ってくれたおにぎりを運転しながらかじる俺にとって、帰宅してから居間で過ごす十分ほどは、貴重な小休止。
そのプレシャスタイムを犠牲にして、工場内へと入る。
一口に工場といっても、内部には色々な設備があるが、今、足を運んだのはもやし栽培用のコンテナが並んだ部屋――ムロだ。
一歩足を踏み入れれば、エチレンという植物ホルモンガス独特の匂いが鼻をつく。
俺の首辺りまでの高さがあるコンテナからは、焼き上がった食パンの頭みたいにこんもりと……ブラックマッペもやしたちが頭を出していた。
こんなのは、文字通り氷山の一角。
頭を出してるもやしの下には、同じように発芽し成長したもやしたちがぎっしりと育っている。
細身で弱そうなやつをもやしっ子というが、俺にいわせれば、それはもやしに失礼だ。
このコンテナ内の下部で茎を伸ばしているもやしは、百キロ以上もの重量が上からのしかかっているというのに、潰れることがないのだから。
もやし……というより、もやしを発芽させる豆の、か?
ともかく、独特の生命力に溢れた“気”と匂いを感じながら、コンテナ内のもやしを一つまみ。
そして――食べた。
もちろん、出荷されたパック詰めのもやしを生で食べるのはよくないが、このように、収穫したての新鮮なものをごく少量食べるだけならば、問題はない。
噛み締めて感じるのは、しゃきりとした食感と、奥歯の辺りからじわりと広がっていくような、淡い甘み。
ああ、本当にうちのもやしは――。
--
「――どうだ?
生まれて初めて、一から自分で仕込んだもやしの味は?」
「――ううおっ!?」
背後から父に声をかけられ、俺は慌てて飛び退く。
体が軽い。
主に睡眠不足が原因で、いつもズッシリと重たく感じられるこの体が、いやに軽快な反応を見せた。
いや、軽いのは体だけではなく、着ている服もか?
さっきまで作業着を着ていたはずなのに、今、俺の身を包んでいるのは青色の……ジャージ?
このデザインは、見覚えがある。通ってた公立中学のものだ。
入学時、成長期だからという母の勧めに従って、やや大きめなサイズを注文したというのに、卒業を迎えるくらいにはパッツンパッツンとなってしまい、大層着心地が悪かったことを覚えている。
うん、股下に全然余裕がなく、着心地の悪さマックスな状態。しゃがみ込んだら、股部分が裂けそう。
「……急に驚いて、どうした?」
振り返ると、そんな俺をきょとんとした顔で見ている……父?
いや、仮にも自分の親を見て疑問符を浮かべるなんて、親不孝にも程があることは分かっている。
が、ここはクエスチョンマークの出番だろう。
何しろ、総白髪だったはずの角刈が黒々としているし、肌はカサカサであるものの、まだまだ生命力が衰えていない。
最近は仙人を思わせるように達観していた瞳も、ギラギラとしていて力強かった。
有り体に言ってしまおう。
「……若返ってる?」
「こいつ、何をわけの分からねえこと言ってやがる!」
――ゴッツン!
脳天への強い衝撃と共に、火花が散る。
やっぱり、やせ細っている小僧をもやしっ子呼ばわりするのは、もやしに失礼だ。
毎日毎日、もやしと対話している俺の父は、こんなにも力強い――いや、力強すぎるだろ!?
「いってえ……なんだこの力?
親父、やっぱり若返った?」
「……お前、本当にどうした?
明日から高校だってのに、もうボケたのか?」
「――高校!?」
くわと目を見開いた俺は、ようやく自分の体を確かめた。
……確かに、すっげえ肌ツヤがイイ気がする。
それに、なんか遠くの方までよく見えるというか……最近は、運転中も視力の衰えを感じていたというのに。
「ちょ、ちょっとトイレ!」
「お、おお……」
うろたえる父をよそに、トイレに向かってダッシュ。
おそらく、世界最速をマークしていたと思う。
共用のトイレに辿り着いた俺が向かうのは、手洗い器!
その上……壁に直接取り付けられた鏡と、向かい合った。
「……若返ってる」
本日、三度目となるこのフレーズ。
ただし、今度のそれは、質問の形を取ってはいない。
抱いていた疑念を、言葉という形で確信に変えたのである。
髪型は、ざんばら。
女カリスマ美容師を目指すと言っている妹――ああ、この頃は当然実家住まいだった――の、実験台となった結果だ。
これだけはこだわりを持って整えている眉毛は、スルリと抜けるように細く薄いアーチを描いていて、自分でもちょっと爽やかさを感じられた。
もっとも、眉毛のケアなんぞに時間を使うことが出来たのは、この年頃の時だけだったけども……。
すなわち、ティーンエイジャーだった時代。
より正確を期するならば――ああ、さっきの父の言葉とも符合しちまう――高校生時代だ。
「まさか……まさかだよな。
俺……高校時代に戻ってる?」
それも、父の言葉を参照するならば、高校入学直前。
明日からは、ピッカピカの高校一年生というタイミングだ。
西暦に換算するならば、2001年。
日本では小泉内閣が発足し、アメリカではブッシュが大統領就任。
要潤が仮面ライダーをやっていたような、そういう年であった。
「………………」
鏡の中にいる少年――いまだ15歳の俺を見つめながら、深く考える。
「ここから先の総理大臣は、小泉、安倍、福田、麻生、鳩山、菅、野田……」
口に出していったのは、歴代総理の名前。
俺自身は政治に関してノンポリだが、父がニュースを欠かさず見ている影響で、総理大臣の名前くらいはそらんじていた。
「……うん、覚えてるな。
知識は、未来のままだ。
これが、俺の妄想でないのなら、だけど」
鏡の中にいる彼に話しかけると、当然ながら、あっちも俺に向かって語りかけてくる。
なんとも間が抜けているというか、鏡で遊ぶ幼児のような光景であるが、しかし、それが俺の考えをまとめてくれた。
すなわち……。
「もし、そうなら……チャンスだ」
そう、これは無限のチャンスである。
未来の記憶を保持したまま、過去へと戻る!
ドラマでも漫画でも、定番のシチュエーションだ。
未来の情報という圧倒的なアドバンテージを保有した上でのやり直し……。
これは……これは、もしかしたならば……。
「倒産する未来を、回避できるかも知れない」
鏡の中にいる少年は、決然とした眼差しを俺に向けていた。
あるいは、どうにかして、未来へ意識を戻す手段を模索するべきなのかもしれない。
『バック・トゥ・ザ・フューチャー』のドクならば、歴史を変えることの危険性を訴えてくることだろう。
だが、やる。
あの、底なしの沼にでも入り込んだような気分……。
あんな気分を味わう未来なんて、まっぴらごめんであった。
あるいは、自分にとって、実に都合の良い考え方であると承知した上でこう考えるが……もやしを食べた瞬間にこうなったということは、もやしの神様みたいな存在が、お導きになった結果なのではないだろうか?
うん、決めた。
そう思い込むことにする。
考えてもみれば、21世紀に入ってすぐの2001年に意識が戻ったというのも、実に都合が良い。
就職氷河期問題などはあるものの、まだまだ、人々が明日への希望を捨てていなかった時代……。
もしかしたならば、バブルのような好景気がもう一度訪れるのではないかと、ほんの少しだけならば期待できた時代。
……2002年に行われるマクドナルドの59円ハンバーガーが代表的なように、じわじわと市場を席巻していた大資本による価格破壊が、いよいよ俺たち弱小生産者にカタストロフをもたらす時代。
つまり、人生というものがノベルゲームのようにフローチャートの存在するものだとして、俺があの未来を迎えるに至る最後の分岐点と呼ぶべき時代。
それが、この時代――2001年なのであった。
「やってやろうじゃないか」
ただ一人、鏡に向かって決意表明する。
そう、これはつまり……俺というもやし農家が、やり直す物語だ。
いいや、それだけで終わるものか。
うちの会社に引導を渡すあの電話を寄越したあいつ。
バイヤーという立場を殿様か何かのように勘違いし、相見積もりによる自身は血を流さない事実上の値下げ命令など、様々な理不尽を俺に突き付けてきたあいつ。
それでも、あのスーパーとの取引が生命線なので、家臣のように仕えてきたうちを、たった一言で契約打ち切りにしてきたあいつ。
いや、あいつは代表格というだけだ。
この2001年に至るまでと、その後……やはり不合理な要求を連発し続けてきた挙句、取引を打ち切ってきたスーパーのバイヤーは、何人もいた。
あの連中に……バイヤーたちに、目にものを見せてやる!
この復讐を果たすために、未来の知識というチートを思う存分に活用してやる!
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そのための、第一手として……。
「………………」
「えっと……門屋君。
これにはね、深いわけがあるんだ」
俺は、パンツ丸見え状態でもやしの栽培コンテナの中へと転がり込み、もやしまみれとなっているJKを、コンテナの縁から無言で見下ろしていた。
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