第7話 ステークホルダーは魔王だけじゃない
世界終了まで、あと87日と1時間。
魔界における、土曜日のお昼前。本来であれば、週末の遅い朝食を楽しみながら、読みかけの魔導書でもめくるような穏やかな時間が流れているはずだ。
第七ダンジョン管理室の床には、力尽きて意識を失った新人ゴブリンたちが数名、転がっていた。
部屋の中央では、ガルム・フォン・アッシュがデスクに突っ伏したまま、本日3杯目となる泥のように濃いコーヒーを、胃という名の空っぽの臓器へ流し込んでいる。すでに味覚は麻痺し、カフェインの暴力的な熱量だけが食道を焼きながら落ちていくのがわかった。
昨夜の夜間バッチと増設作業、そして早朝の勇者パーティ分裂という三連続の致命的エラーを乗り越えた代償として、彼の身体は内側から確実に削り取られていた。
まぶたの裏では、光の明滅がノイズのように走っている。少しでも気を抜けば、目の前の書類の文字がゲシュタルト崩壊を起こして、ただの黒いシミに見える。
「……なんとか、なったのか?」
ガルムは虚ろな声で呟いた。
モニターの中央では、再び一つに合流された勇者パーティが、おとなしく第四層へと向かう通路を歩いている。
これ以上の致命的なトラブルは、もう起こらない。いや、起きてはならない。
そう信じたかったガルムの祈りを、システムは決して許さなかった。
ピリリリリリリリッ!!!
外部直通の念話デバイスが、管理室の静寂を切り裂いて鳴り響いた。
それは、魔王軍の内部ネットワークからの着信音ではない。外部通信ポートを経由した、白とエメラルドグリーンに発光する最高優先度の着信アラートだった。
「……外部通信?」
ガルムは震える手でデバイスを取り上げ、空中にモニターを展開した。
映し出されたのは、透き通るような翠色の髪と、背中に半透明の羽を生やした美しい少女の顔だった。だが、その表情は怒髪天を衝くという言葉そのものだった。
どういうつもりよ、第七ダンジョンの泥人形!
スピーカー越しにも関わらず、鋭い風の刃が頬をかすめたような物理的な痛みがガルムを襲う。
彼女は風の精霊王シルフ。
このアルゲリアの世界において、魔法の源(外部API)を提供するベンダー企業、精霊界(Spirit Realm)を統括する、絶対的なステークホルダーの一人である。
「な、何か当ダンジョンで不手際が……」
不手際どころじゃないわよ! 今すぐおたくのダンジョンにいる金髪のガキと小娘を止めなさい!!
シルフは羽を激しく震わせながら、まくし立てた。
1秒間に10,000回よ!? 10,000回も「メテオ」と「ホーリー」の魔法要求(APIコール)を投げてきてるのよ! こっちの精霊サーバー(霊脈)が熱暴走して、もう少しで西の森全域が吹き飛ぶところだったわ!
ガルムの呼吸が、ぴたりと停止した。
コンマ数秒の世界で、ガルムの脳内処理能力がフル稼働する。空間の時間が凍りついたかのように、シルフの怒れる羽ばたきがスローモーションでコマ送りになる。
1秒間に10,000回?
その数字が意味する異常性を、ガルムの技術者としての理性が即座に解析し始める。
人間の魔導士が、どんなに無詠唱の熟練者であっても、1秒間に放てる魔法はせいぜい数回が物理的な限界だ。呼吸、魔力の練り上げ、ターゲットの補足。それらのプロセスを完全に省略しなければ、万という単位には絶対に到達しない。
つまり、あいつらは魔法を発動するためのインターフェース(発動モーションや音声詠唱)すら完全にスキップし、システムに対して直接、広範囲魔法という最も重い処理のリクエストを自動連射(スパム送信)しているのだ。
おそらく、先刻の内輪もめのストレスをぶつけるためか、あるいはシステム的な「経験値稼ぎの裏技」でも見つけたのだろう。壁に向かって無意味にメテオを連発し続ける勇者たちの姿が、ガルムの脳裏にありありと浮かんだ。
狂っている。それはもはや、ゲーム的な行動ですらない。ただのシステムに対する純粋な悪意、あるいはクラッシュを目的としたDOS攻撃と同義だ。
いいこと、泥人形。魔王軍とは適切な魔法の利用を条件にエンタープライズ契約(無制限利用)を結んでるけど、さすがにRate Limit(許容リクエスト上限)の悪質な違反よ。あと1分で改善されなければ、貴方たちのダンジョンの精霊・魔法トークンを即時停止(Ban)するわ!
「ま、待ってください! トークンを止められたら、勇者だけじゃなく、うちのダンジョンの魔法ギミックやモンスターの攻撃も全部エラー(不発)になってしまいます!」
そんなの、管理責任者である貴方の知ったことじゃないわ! 1分よ! 1分でなんとかしなさい!
ブツッ、と通信が一方的に切断された。
ガルムの顔面は、すでに土気色を通り越して透明に近くなっていた。
精霊族からの魔法提供(外部API)が停止すれば、第七ダンジョンはただの物理的な石ころの迷路になり下がる。魔法によるトラップはただの飾りの床になり、炎を口から吐くはずのドラゴンは、単なる口の臭い巨大なトカゲへと成り下がる。それは即ち、ダンジョンとしての完全な機能停止(死)を意味していた。
「……インフラベンダーを怒らせると、こうなるのか……」
ガルムが急いで大魔導コアのコンソールに向かい、勇者側の魔法リクエストのパケットを強制破棄(Drop)する設定を書き込もうとした、まさにその直後だった。
ブプッ、ブプッ、ブプッ。
今度は、別の外部ポートからアラートが上がった。
モニターの隅に、無骨な銀色の羊皮紙アイコンが点滅している。送信元は人間国家連合(人類陣営)。
自動送信ボットからの外交書簡(連携エラー通知)である。
宛先:魔王軍 第七ダンジョン運用部門
件名:経済サーバー間の連携タイムアウトに関する改善要求
本文:現在、貴軍のダンジョン内における勇者の異常なアイテム取得・売却リクエストにより、人間国家連合側のデータベースが極端な負荷を受けています。街の商人NPCの前で勇者のインベントリ同期が数十分間フリーズする事象が発生しており、経済活動に深刻な影響が出ています。貴軍における負荷増大(勇者への嫌がらせ)が原因であると推測されるため、ただちに負荷を減らし、正常なデータ同期を担保してください。
ガルムの右眼球に浮き出た毛細血管が、ついに限界を超えてミシリと赤い線を広げた。
「……は?」
声にならない声が漏れる。
その瞬間、ガルムの心の奥底で、何かが冷たく弾ける音がした。
怒りではない。焦燥でもない。それは、すべての事象がバカバカしくなるほどの、底知れぬ諦観だった。
人間国家側は、勇者がダンジョンから持ち帰ったデータを処理するための、フロントエンドに過ぎない。彼らにとってダンジョン側がどれだけ負荷で苦しんでいようが知ったことではないのだ。「勇者が快適に遊べないのは、お前たち魔王軍が嫌がらせをして負荷をかけているからだ」という、ユーザー特有の自己中心的な理屈。
彼らは魔王軍を「敵」と呼びながら、その裏では「自分たちの経済システムを回すためのコンテンツプロバイダー」として都合よく利用しているに過ぎない。
ベンダーである精霊族からは、勇者のリクエストが重すぎるから通信を遮断しろと怒鳴られている。
同時に、顧客である人間国家からは、勇者が重すぎてこっちもラグるから同期させろと怒られている。
「矛盾してるだろうが……ッ!!」
ガルムは誰もいない管理室で、床石を拳で殴りつけた。
拳の皮が破け、薄っすらと血がにじむが、そんな痛みはもはや感じなかった。
システム開発と運用において最も恐ろしい『ステークホルダー(利害関係者)による要求のデッドロック(板挟み)』である。あちらを立てればこちらが立たず、どちらを無視しても第七ダンジョンの首が飛ぶ。
ガルムの視界に、走馬灯がよぎる。
それは遠い昔、新人PLとして初めて外部ベンダーとの折衝に臨んだ日の記憶。笑顔で無茶な要求を通そうとするゴブリンの商人と、絶対に譲歩しないドワーフの技術者。あの時、先輩は「俺たち運用保守はな、どっちの泥も啜るのが仕事なんだよ」と笑いながら辞表を出して消えていった……。
「……俺は、やめねえぞ」
ガルムは床石に額を擦り付けるようにして、文字通り土下座の姿勢のまま、空中に何十枚もの仮想魔法陣を展開した。
指先の感覚はとうの昔に麻痺している。爪の間から流れる黒い血が、魔法陣の光を不気味に赤く染める。
「まず、精霊族への対応だ……! 『第七ダンジョンの大魔導コアのキャッシュメモリ領域』を切り離し、精霊界サーバーの入り口にトンネリング(バイパス接続)する!」
ガルムの指が空間を削り取るように動く。
勇者が連発する無駄な魔法コールを精霊族のサーバーに到達させる前に、ガルム自身のダンジョン側メモリで一度すべて空受けし、負荷を肩代わりするという捨て身の対応策だ。
ガガガガガッ! と大魔導コアが悲鳴を上げる。
ガルムの脳髄に、直接高圧電流を流し込まれたような激痛が走る。
「ぐぅぅあぁぁぁッ!!」
口の中は完全に血の味しかしない。胃液が逆流し、舌の根を焼く。
「次! 人間国家への対応……ッ!」
ガルムは血反吐を吐きながら、もう片方の手で別の魔法陣を組み上げる。
「勇者のアイテム取得・売却データの『リアルタイム同期』を強制終了(Kill)! 代わりに、隠しメモリに全データを極小パッケージングしてプールし、1時間ごとに一括で『非同期バッチ転送』するパッチを当てる!」
人間側からは処理が一瞬止まったように見えるかもしれないが、最終的な帳尻(ゴールドとアイテム数)は1時間後に完全に合う。ラグをシステム全体に波及させないための、極限の応急処置だ。
「最後にィィィッ!! 両ステークホルダーへの謝罪メール(定型文)の送信ッ!! 『当方の不手際により多大なるご迷惑をおかけし、誠に申し訳ございません。暫定対応を適用済みです。引き続きのご愛顧を……』」
ターーーンッ!!
ガルムは右手でエンターキーに相当する術式の要を叩き割った。
静寂。
管理室の赤いパトランプの回転が止まり、アラートの電子音がスウッと消えていく。
外部ポートの通信監視モニターには、精霊界からの「APIトークン稼働状態:正常」という緑色の文字と、人間国家連合からの「データ同期エラー:解決済み」というログが表示されていた。
「……」
ガルムは床に突っ伏したまま、ピクリとも動かなくなった。
死んではいない。かすかに肩が上下している。だが、彼に残されていた「中間管理職としてのプライド」と、この週末を生き延びるための「体力ゲージ」は、完全にマイナスの領域へと突き抜けていた。
「……う~ん、地震ですかぁ?」
数時間ぶりに目を覚ましたゴブ太が、床に倒れているガルムを見て首をかしげている。
「PLさん、床で寝ると風邪引きますよぉ。私たち、魔王様のために一生懸命直してるだけなのに、急に怒られる夢見ちゃいました」
ガルムは何も答えない。
答える気力すら、残っていなかった。
ただ、床の石の冷たさだけが、自分がまだ生きていることを証明してくれていた。
モニターの片隅。
世界終了のカウントダウンが、静寂の中で残酷な数字を叩き出している。
ついに、87日の壁を下回ったのだ。
世界終了まで:86日と22時間。




