第5話 夜間バッチとダンジョン増設の板挟み
世界終了まで、あと87日と18時間。
魔界における、金曜日の夕暮れ時。一般の魔族であれば、酒場で血のワインをあおり、週の疲れを癒やす時間帯である。
だが、第七ダンジョン管理室の空気は、戦場の塹壕よりも深く重く沈殿していた。
ガルム・フォン・アッシュは、自筆の分厚い『システム運用マニュアル・金曜夜間編』を片手に、部屋の中央に鎮座するメインサーバー――大魔導コアのコンソールと睨み合っていた。
大魔導コアは、高さ3メートルほどの巨大な黒水晶だ。その表面には緑色のルーン文字が滝のように流れ落ち、底知れぬ魔力を明滅させている。
ガルムのくぼんだ両眼が、そのルーンの羅列を凝視する。「死体オブジェクトのガベージコレクション(GC)」「第一層から第四層にかけての魔力循環プールのデフラグメンテーション」「破損した宝箱のインデックステーブル再構築」。これらを今夜の目標である深夜2時までに完了させなければ、週末のダンジョン稼働に致命的なラグが生じる。
「夜間バッチ処理、開始します」
ガルムの呟きと同時に、大魔導コアがドォンという重低音を響かせた。
水晶の内部で膨大なマナの渦が巻き起こる。部屋の空気が一気に乾燥し、ガルムの髪の毛が静電気で逆立った。コアの負荷メーターを模した炎のインジケーターが、瞬時に98パーセントのアラート領域まで跳ね上がる。
「よし……正常稼働だ。これで最低でも6時間は、コアのリソースはバッチ処理に完全占有される」
ガルムはほうとため息をついた。
この6時間は、ダンジョン内に新たなモンスターをスポーンさせることも、新しい部屋のモジュールを組み込むことも、絶対に不可能となる「聖域の時間」だ。ここで下手な大魔法を割り込ませれば、リソースの競合が発生し、最悪の場合は大魔導コアがショートしてダンジョン全域が物理的に融解する。
「ふぅ……」
ガルムは椅子に腰を下ろし、冷めきった泥のようなコーヒーに手を伸ばした。
久しぶりの、本当に久しぶりの、何もしなくていい「待ち」の時間。システムが裏側で巨大な仕事をしてくれている間、人間(あるいは魔族)は一時的な安息を得る。
これでやっと、少しだけ目が閉じられる――。
ピロリンッ。
ガルムのコーヒーカップを持つ手が、空中で凍りついた。
彼の懐に収められた念話デバイスが、最悪の着信音を鳴らしたのだ。しかも、黒に赤文字。魔王城の財務・インフラ統括――四天王第四席、冥府のドレインからの直通割り込み通信である。
ガルムの心臓が、キュッと音を立てて収縮した。
「……はい。第七ダンジョンPL、ガルムですが」
ご苦労。ドレインだ。単刀直入に言う。勇者の進行が想定より24時間早まった件について、魔王機関はこれを重く見ている。
ドレインの声は、まるで乾いた骨同士をこすり合わせたような、感情のないノイズに聞こえた。
よって、今週末に勇者を一時的に隔離・迂回させるための「隠しフロア(サブダンジョン)」を3つ、第七ダンジョンの構造線上に増設せよ。これは魔王様の勅命である。
「……は?」
期限は本日の24時だ。頼んだぞ。
ガルムの口から、魂が抜け出るような音が漏れた。
「お言葉ですが、ドレイン様! 本日は金曜です! 現在、夜間バッチ処理を実行中で、大魔導コアのリソースは98パーセント埋まっています! ここに隠しフロアの構成モジュールを3つも流し込めば、競合による過負荷でコアが融解します!」
ドレインは鼻で嗤った。
コアを融かさない程度の魔法構築技術を持ったプロフェッショナルとして、貴様をそこに座らせているのだ。リソースがないなら、現場の気合いと知恵で絞り出せ。
「気合いでマナの物理限界を超えろと……っ!?」
勅命だ。できなければ、明日お前が「光の粒子」としてガベージコレクションされることになる。以上だ。
ブツッ。
通信が切れた。無機質な切断音だけが、モニタールームに虚しく響き渡る。
ガルムは完全に硬直した。
右手のコーヒーカップからコーヒーが数滴こぼれ、彼の真新しいスラックスに黒い染みを作った。だが、彼はそれに気づくことすらできない。
ダンジョン3つの同時増設と夜間バッチ。これを同じコアで同時に走らせる。
そんなことは、基礎魔導工学的に不可能だ。コップの水をこぼさずに、同じコップに新たな水を注ぎ込むようなものだ。
ガルムの視界の端が、ストレスで再び白黒に反転しかけた。
彼の頭の中で、システムがクラッシュし、第七ダンジョンごと数万トンの岩盤が崩落して自分を含むすべての職員が圧死するリアルな映像(走馬灯)が再生される。
「……やるしか、ないのか」
ガルムはギリッと奥歯を噛み砕く力で食いしばり、部屋の隅でモップがけをしていたゴブ太を怒鳴りつけた。
「ゴブ太!! 今すぐ残れる連中全員集めろ!! 緊急特命ミッションだ!!」
「ひぇっ!? 残れる連中って、ボクと同期のゴブリン2匹しかいませんけど!?」
「頭数があればいい! 早くしろ!!」
15分後。
大魔導コアの前に、白目を剥きかけたガルムと、よくわかっていない顔のアホ毛を揺らすゴブ太、そして震える新人ゴブリン2名が整列していた。
「いいか、よく聞け」
ガルムの声は、地を這うような切迫感に満ちていた。
「これから俺は、このクソ重い『夜間バッチ』の進行プロセスに割り込みをかけ、強制的に一時停止と再開を繰り返す。バッチが止まった瞬間の『0.3秒間』だけ、コアの負荷がゼロになるアイドリングタイムが発生する」
ゴブ太が首をかしげる。
「0.3秒? まばたきしてる間に終わっちゃいますよ?」
「そうだ。その0.3秒の隙間に、別の仮想魔法陣から『隠しフロア増設プログラム』を1行ずつ分割して流し込むッ!!」
それは、常軌を逸した「手動でのタイムシェアリング」だった。
二つの巨大な列車の運行を、人間が手動でポイント(切り替え器)をガチャン、ガチャンとコンマ数秒単位で動かし続けて正面衝突を避けるような暴挙。1フレームでもタイミングがずれれば、バッチ側のガベージデータと増設側の構成データがマナの次元で衝突し、致死量の爆発を起こす。
「お前たちの仕事は『安全装置(物理)』だ。俺が【戻せ!】と叫んだら、大魔導コアの下部にある緊急排熱レバーを全力で引け。ショートしかけたマナを大気中に逃がすためだ」
「りょ、了解ッス!!」
「行くぞ。……地獄の始まりだ」
ガルムは両手を振りかざし、空中に複数のエクセル魔法陣を展開した。
青白い光が彼の顔を下から不気味に照らし出す。
「夜間バッチ、一時停止ッ!」
コアの轟音が、一瞬だけ止む。
「増設コード、注入ッ! 行数指定、1から500行までッ!」
ガルムの指先が、空間を弾き飛ばすような速度でキーを叩き込んだ。
ドクンッ!!
大魔導コアが異様な脈動を打った。緑色の光が赤に変色し始める。
「バッチ再開ッ!」
その瞬間、コアから爆風のような熱波が弾け飛んだ。
バシイィィィン!!
ガルムの展開していた魔法陣のうちの1枚が、過負荷に耐えきれずに火花を散らしてショートした。
「あつっ!?」
顔のすぐ横で弾けた熱波に、ガルムの髪の毛の数本がチリチリと焼け焦げる。
だが、止まれない。
「次ッ! 一時停止ッ! 501行目から1000行目まで注入ッ!」
「再開ッ!」
「熱量オーバー! 戻せゴブ太アアア!!」
「うおおおお!! 引きますぅぅぅ!!」
ガコンッ!とゴブ太がレバーを引いた瞬間、コアの天井のバルブからシューゥゥッ!!と真っ白い高圧の蒸気(排熱マナ)が噴き出した。
管理室の中が、サウナのような蒸気とオゾンの焦げた匂いで満たされていく。視界は数メートル先も見えないほど白く濁り、けたたましいアラートの電子音と、ガルムの怒号、ゴブリンたちの悲鳴が入り乱れる。
それはまさに、神の定めたシステム(自然の摂理)に、人間(下級魔族)の汚れた手作業で対抗する冒涜的な儀式だった。
「……停止ッ! 注入ッ! 再開ッ!」
ガルムの目は血走り、毛細血管が完全に破裂して白目が真っ赤に染まっていた。
指先の感覚はとうの昔に麻痺している。魔力回路を使用しすぎたせいで、爪の間からタラタラと黒い血が流れ落ち、キーボードを汚している。
「第二フロア、構築完了……第一からポータル接続……! 次、第三フロアのコーディングにかかるッ!」
「PLさぁぁあん! レバーが、レバーが熱すぎて持てません!! 皮が剥けます!!」
「歯で噛みついて引けェェエッ!!」
「ヤダーーーッ!!」
ガルムの視界が明滅する。
オゾンの悪臭。焦げる髪の毛の匂い。血の味。蒸気の熱。
身体中の全感覚器が「これ以上はやめろ、死ぬぞ」と脳に強烈なエラー信号を送り続けている。
ふと、ガルムは頭頂部に薄ら寒い「風」を感じた。いや、風はないはずだ。過度なストレスと魔力の逆流により、毛根が死滅し、髪が抜け落ちているのだ。三十代の男にとって最も恐ろしい物理ダメージが、今、リアルタイムで進行している。
だが、彼の手は止まらない。
やらなければ、殺される。上司に、あるいはシステム(融解)に。
中間管理職は、どんな不条理の中でも、現場を回すしかないのだ。
「……ラストッ! 33,500行目から最終行までッ!」
ガルムは血だらけの右手を振りかぶり、最後のエクセル魔法陣に「実行」の痛撃を見舞った。
システム全体が、数秒間完全に沈黙した。
光も、音も、揺れも消える。絶対の無音。
やがて――。
ポーン……。
という、拍子抜けするほど軽快な電子音が鳴り響き、大魔導コアの表面に巨大な「COMPLETE」の緑文字が浮かび上がった。
「……」
「……お、終わった……?」
ガルムは、魔法陣のキーボードの上に顔から突っ伏した。
ビターン、という情けない音が部屋に響く。
「PLさぁぁあん!! 死なないでください!! 息して!!」
ゴブ太が駆けより、ガルムの肩を揺さぶる。
ガルムはピクリとも動かないまま、かすれた声で呟いた。
「……バッチ処理、完了……」
「はい!」
「……増設サブダンジョン3基……エラーなしでコミット完了……」
「やりましたねPLさん!! 奇跡ですよ!!」
ガルムはゆっくりと首を横に向け、窓の外を見た。
魔界の空は、白々と明けかかっていた。本来であれば休み(週末)が始まる、清々しい土曜日の朝陽だ。
魔王城からの追加要件と、夜間バッチメンテの地獄の重なり合い。それを、血と汗と抜け毛を代償に乗り切ったのだ。
「……ゴブ太」
「はい、PLさん」
「……週末(休み)って、なんだっけ」
「美味しいんですか、それ?」
ガルムは目を閉じ、泥のような眠りの淵へと、静かに意識を落としていった。
モニターの片隅。
世界終了のカウントダウンが、静寂の中で誰にも知られず時を刻んでいる。
世界終了まで:87日と10時間。




