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54:ユーリ



 ――その日、とうとう叔母様がアバドに襲われた“事件現場”にやってきた。

 設置された椅子に座り、周囲に大きな魔方陣が描かれ、“餌”としてアバドを待つ。同行してもらっている対策本部の中にウィルフレッド先輩の姿があるからか、いつも以上に場の空気はピリピリしていた。

 だからだろうか、私の心臓もなんだか嫌な音を立てているような気がする。



(心がざわざわする)



 嫌な予感。虫の知らせ。

 そういった非科学的なものはあまり信じる方ではないけれど、正直ここ最近は気が抜けていたのは確かだ。どうせ今回も現れないだろうと諦めにも似た空気が漂っていたときもある。だから気合いを入れなおそうと、私は軽く頬を叩いた。


 今回の“事件現場”は優しい風が吹き抜ける、美しい公園だった。敷地内には花畑や大きな湖などがあり、晴れた日に散策するにはもってこいの場所だ。しかしアバドが現れてからというものの人々の足は遠のいているようで、心無し寂れた雰囲気が漂っていた。

 ここは叔母様とユーリの思い出の場所だったと聞いている。ぼうっと眺める景色の中に、二人の姿が見えた気がした。

 草原の上でピクニックをする姿。花畑を散策する姿。叔母様がユーリを呼んで、ユーリが笑顔で振り返る。

 まるで経験した記憶のように鮮明に思い浮かべることができる。ここから見える湖の畔でも、きっとたくさんの話をしたのだろう。穏やかな風を受けながら、キラキラ輝く湖面を見つめて――

 そのとき、ざわりと湖面が“蠢いた”。



(……何?)



 最初は小石が落とされたような、小さな波紋だった。しかしその波紋は次第に大きくなり、そして――“何か”が勢いよく飛び出してきた。



「湖の方向! 警戒して!」



 ブレンダさんの声が響く。

 複数人の魔術師が湖から飛び出してきた“何か”を追いかけるように大きく飛び上がり、空中で包囲した。そして捕獲しようと陣を組んだのだが、瞬間、“何か”が強烈な光を発して爆発する。

 爆風と激しい水しぶきに晒され、私は椅子ごとその場に倒れた。

 鼓膜がぼわぼわしてうまく音が拾えない。強烈な光を直接見てしまったせいで目が開けられない。――つまりは今この瞬間、私は何が起こっているのか全く分からなくなってしまった。

 誰かが声を張り上げている、ような気がする。魔法があちこちで発動している、ような気がする。しかし確信が持てず、視界も確保できない状態で、私は身動きが取れなかった。

 ただぎゅっと体を丸めて、目と耳が回復するまでじっと待つ。

 大丈夫。何かあってもウィルフレッド先輩たちが、ギルバートが護ってくれる。それに――叔母様から頂いた守護石もここにある。

 自分の胸元をまさぐり、指先にあたった石を握りしめる。目は見えていないのに、不思議とその石が叔母様からもらった守護石だと私は確信していた。

 大丈夫、大丈夫――



「アバドだ!」



 その声によって静寂が破られた。

 ――アバド。

 とうとう現れた怪物。

 人々が戸惑う声が一気に雪崩れ込んでくる。交戦している真っ最中らしく、再び爆音に鼓膜が揺らされて頭がガンガンした。



「結界が壊れた!?」


「違う、吸収されてる!」



 ざわめきが近づく。

 周りの温度が一気に下がったような感覚に襲われて、私は手足を縮こまらせた。

 ――この場から逃げ出す? 動かない方がいい?

 この一瞬の迷いが命取りだった。



「マリア!」



 ギルバートの声が、私の名前を呼んだ。――瞬間、首に冷たく細い指先が絡みついた。

 体を仰向けに倒されて、腰のあたりにひんやりとした感覚が訪れる。重みはない。ただ冷気がそこにあるだけだ。

 首に触れた指先に力はない。ただ触れているだけで、絞められているわけではなかった。しかし触れた 場所から広がる冷たさに全身が凍り付いていくようで、私は身動きが取れなくなってしまった。

 ゆっくり、ゆっくりと目を開ける。瞼の裏に焼き付いた強烈な光はすっかり消え、目の前には深い深い闇が広がっていた。



(……アバド)



 怪物は私に馬乗りになっていた。

 深い闇に目を凝らす。自分の首に伸びる腕の輪郭から辿り、顔があるであろう場所に見当をつけ、じっと“そこ”を見つめる。黒い靄を振り払うように、震える手を伸ばす。

 指先がなめらかな曲線に触れた、気がした。



「ユー……リ?」



 首を絞められている訳でもないのに苦しい。言葉と共にこぼれた息は白く、寒さのせいか下半身の感覚がなかった。



「あなた、本当にユーリなの?」



 もう一度問いかける。すると喉元に触れる指先が僅かに反応したような気がした。

 アバドの正体を確かめなければならない。今がこれ以上ない好機チャンスだ。

 そう分かっているのに、アバドから発せられる冷気のせいで体の感覚がなくなっていき、意識も遠のく。体温のみならず命まで吸い上げられているような錯覚を覚えた。――いいや、錯覚ではないかもしれない。叔母様たちアバドの被害者は凍える寒さのなか、全てを奪われてしまったのだとしたら。

 そのとき全身を駆け抜けたのは恐怖だ。自分の命が今にも消えてしまいそうな感覚に、しかしどうすることもできなくて、気づけば私は涙をこぼしていた。

 脳裏に浮かんできたのはたくさんの思い出。そして親しい人たちの顔。あぁこれが走馬灯かと他人事のようにぼんやり思い――叔母様の顔が浮かんだ瞬間、視界の隅が光った。

 沈んでいた意識が一気に浮上する。何が起きたのかと顔を起こして、光の正体に気が付いた。



(叔母様の守護石……!)



 守護石はまるで私を守ってくれるように、アバドに語り掛けるように、私とアバドの間で光瞬く。石から発せられる光は叔母様みたいに温かくて、冷え切った全身に一気に血が巡る。

 凍えていた指先が動く。体が動かせる。

 私は勢いよく上半身を起こした。そして光る守護石を掴むと、アバドが纏う黒靄に掴んだ手ごと突っ込んだ。

 ――光が、暗闇を照らす。黒い靄を晴らす。

 そうして現れたのは、一つの顔。血の気の引いた肌はボロボロにひび割れて崩れ落ち、口元はただれ、眼球は黒く染まっている。けれど紛れもなく――写真で見た少女・ユーリだった。



「叔母様は亡くなった! あなたを想いながら……!」



 気づけば叫んでいた。

 黒かったはずの髪も真っ白になっており、変わり果てた姿が痛々しい。ぎょろぎょろと動く眼球の動きは獣のようで、言葉が通じるかも分からなかった。

 ショッキングな姿に一瞬体が竦む。しかし捕獲しなければと咄嗟に彼女を抱きしめた。

 ――そのとき、私とユーリの間で光り輝いていた叔母様の守護石もそのまま抱きしめたので、胸元に一気に熱が伝わった。石はまるで心臓のようにどくんどくんと鼓動を刻んでおり、母親に抱きしめられているような心地よさに、自然と瞼が下りる。



(あたたかい……)



 何が起きたのかは分からない。けれどきっと、いいや絶対、叔母様が助けてくれたのだ。彼女のユーリを思う気持ちが奇跡を起こしたのだ。

 ふと、背中に腕が回った。ユーリが抱き返してきたのだと思った。

 ユーリは元に戻れるだろうか。しかし戻れたところで、彼女は多くの人の命を奪ってしまった。どんな事情があるにせよ裁かれるだろう。

 ――この先どうなるかは分からない。けれど、ただ、とにかく、生きてくれていれば何とでもなる。叔母様はそれを望んでいたはずだ。だから、だから。

 私は逃がさないように更に強くユーリの体を抱きしめた。すると耳元でふ、と息が落とされて――抱きしめていたはずの背中が、まるで砂のようにぼろりと崩れた。



「ユーリ!?」



 慌てて腕の力を緩める。そしてユーリの顔を覗き込めば、背中と同じように体のあちこちがボロボロと崩れ落ちていた。

 崩れた箇所は砂となって風に攫われていく。私は何もできないまま、ただどんどん人の形を失っていくユーリを見ていることしかできない。

 下半身が全て崩れてしまったのか、ユーリの体がそのまま私の方に倒れてきた。しかし触れ合った箇所から砂へと変わってしまい、重さはいっさい感じない。

 ぐったりとした上半身が、ユーリの顔が、胸の上に乗っかっている。私は唖然とその頬に手を伸ばし――彼女が笑っていることに気が付いた。

 黒い眼球をこちらに向けて、崩れ落ちる指先をこちらに伸ばして、ユーリの唇はゆっくりと動いた。



『――』



 瞬間、一際大きな風が吹く。おそらくは魔法が近くで爆発したのだろう。

 衝撃に目を瞑って――次に目を開けたときには、ユーリの姿はもうなかった。

ただ胸元のあたりに黒くくすんだ塊がいくつか残っており、消えたユーリの輪郭を辿るように手を伸ばす。それらは加工された石のようだった。守護石か、いや、これは――?

 風によって塊はどんどん崩れていく。しかしそれでも唯一形を保っていた黒い石を光に晒した瞬間、心臓がどくんと大きく鼓動を刻んだ。



(……媒介石?)



 そう思った理由。それは――私が持たされた媒介石の色味とよく似ていたからだ。一見黒く見えたのだが、光に透かすとよく似た紫色をしていて――しかしよく確かめるよりも早く、その石もまた砂になって崩れてしまう。

 辛うじて残ったのは、砂鉄のような小さな黒い粒だった。私は思わずそれを隠すように手の内に握りこむ。

 ――こうしてアバドは、ユーリは、全てを風に攫われて消えた。消えてしまった。



「マリア、大丈夫か!」



 唖然とその場に座りこんでいると、頭上から声が降ってくる。顔を上げれば、額に汗を浮かべたギルバートがこちらを見下ろしていた。

 そこでようやく私はあたりを見渡す。周囲はまさに散々たる状況で、美しかった公園が一転、戦場と化していた。



「アバドは……消えたのか?」



 ギルバートが私の肩を支えながら呟く。しかしそれに答える余裕はなかった。

 先ほどのユーリの様子を繰り返し思い出す。彼女は崩れ落ちる寸前、笑っていた。そして声こそ聞こえなかったものの、ゆっくりと唇を動かしたのだ。

 ユーリが最後に伝えたかった言葉。それを汲み取ろうと必死に記憶を辿る。

 ありがとう? ごめんなさい? たすけて? しなせて?

 どれも違う。もう少し短い単語だったはずだ。おそらくは、三文字。

 記憶の中のユーリの唇の動きを思い出す。目を閉じて、彼女の動きをトレースするように私も口を動かす。

 最初は横に口を開いていた。おそらく母音は“い”だ。次は僅かに縦に開いて、その次もそこまで唇が大きく動くことはなかった。多分、同じ子音だ。

 い、あ、あ? い、え、え?

 思いつく限りの文字を当てはめていく。――そうして、ある一つの言葉に辿りついた。

 確証はない。けれど一度思いついてしまったら、もうそれ以外考えられなくなってしまった。

 ユーリはあのとき、私に向かってこう言った。



『ニ、ゲ、テ』



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