55:救い
『ニ、ゲ、テ』
ポルタリア魔法学院に戻ってきてからも、聞こえなかったはずのアバド――ユーリの声がずっと鼓膜の奥に反響しているようだった。
砂となって消えてしまった彼女が最後に残した言葉。果たして本当に“逃げて”と言い残したかったのか、私の読み違いなのか、もう確かめる術はない。しかし確かにユーリは私に“それ”を伝えようとしてくれていて――
(この黒い粒はなんだろう)
小瓶に入れた黒い粒をじっと見つめる。おそらくユーリの中から“出てきた”石の残骸。指の先ほどのサイズで、黒くくすんだそれは石炭のように軽かった。
まずユーリの体が砂になって消えた。その後、私の胸元に残された複数の石。守護石か、媒介石か――その正体は定かではないけれど、とにかく彼女の体の中にはそれらが埋め込まれていたのだと思う。もしくは、彼女が何らかの方法で体内に取り込んだか。
一体なんのために? どうやって?
いくら考えても理由が分かるはずもなくて、私は自分の胸元を覗き込んだ。
そこに輝く二つの石。レジスタンスから渡された媒介石と、叔母様から頂いた守護石。
(叔母様……)
ユーリは無事、叔母様の許へ行けただろうか。天国で叔母様と、そして家族たちと再会できただろうか。
そうであって欲しいと願いつつ、脳裏に浮かんだ複数の顔。それは今回の作戦で出会った、アバド被害者の遺族たち。彼らは今もなお苦しんでいた。その苦しみを与えたのは他でもない、ユーリなのだ。
何か理由があったに違いない。明らかにアバドとしてのユーリは正気を失っていた。その理由とは? なぜ彼女が選ばれてしまったのか?
何一つとして分からない。考えれば考えるほど、思考が絡まって出口が遠ざかるようだ。
「カーガ」
不意に名前を呼ばれて顔を上げる。ここ――アバド対策本部が使用している学院内の資料室に、疲れた顔のウィルフレッド先輩がやってきた。
帰ってくる道すがら、馬車の中で私の身に起こったことはすべて話した。その最中、どんどん顔から血の気が引いていく先輩が心配でならなかったが、彼は学院に着くなり足早にどこかへ消えてしまったのだ。おそらくは上に報告を上げに行っていたのだろう。
ウィルフレッド先輩は座ったままの私に大きく頭を下げた。
「ありがとう。君のおかげで世界を脅威から救うことができた」
大袈裟な感謝の言葉に恐縮してしまう。実際何もしていない。ただ椅子に座って、ただアバドに襲われて、勝手にアバドが消えただけだ。
顔を上げてくださいと声をかければ、ウィルフレッド先輩は向かいの椅子に腰かけた。そして前のめりになって私の顔を覗き込んでくる。
「体調は大丈夫か?」
「検査して頂きましたけど、特に怪我も不調もなく、元気です」
土気色の顔色をしているウィルフレッド先輩の体調の方が私としては気がかりだったが、指摘はできずに笑顔で答える。そうすれば先輩はほっと息をついて、そのまま全体重を椅子に預けるように深く座り込んだ。
「今回の件は、正式な発表があるまで外部に漏らさないでくれ。……アバドの正体含め、どう発表するか検討中だ」
深い息と共に吐き出された言葉に、私は頷くことしかできなかった。
アバドが消滅したのは世界中にとって喜ばしい報せだろう。しかし大きなニュースだけに、どこまで情報を公表してどこからは世間に隠すか、緻密な話し合いが必要なはずだ。
重い沈黙が流れる。私はアバドの体から出てきた石について切り出すべきか悩んでいた。
小瓶にいれた小さな黒い粒は、アバドが唯一残したものだ。証拠として対策本部に預けるのが一番いい。しかし預けてしまえば重要な証拠品として、今後私が手にすることは叶わないだろう。
『ニ、ゲ、テ』
アバド――ユーリの最後の言葉が蘇る。この言葉も伝えるべきだ。いや、私の推測による不確かな情報を伝えるのはかえって混乱を招くかもしれない。
早い話、私は疑心暗鬼に陥っていた。ユーリは何から逃げろと言ったのだろう。この学院から? この国から? この世界から?
あの石の正体は? 守護石? 媒介石? それとも全く別のもの?
いったい誰に聞けばいい? 誰なら信じることができる? 強者を取り立てて弱者を虐げるこの世界で、何も持たない一番の弱者である私は、誰に助けを求めればいい?
レジスタンスは問題外。しかしだからといってポルタリア魔法学院も信用に足る組織とは言えない。対抗戦のときに教師から受けた仕打ちを忘れることはできなかった。
ポルタリア国も同様だ。どこまでも弱者に寄り添わないこの国に泣きついたところで、ただの小娘である私の叫びは握りつぶされてしまうのではないか。
ここから先、選択を少しでも誤れば取り返しのつかないことになるかもしれない。そう思うと身動きが取れなくなってしまった。
「顔色が良くない。今日はゆっくりと休んでくれ」
そう言って私より顔色が悪いウィルフレッド先輩は退室した。どうやら今日はもうこれで解散のようだ。
ゆっくりと椅子から立ち上がる。するとすぐ背後に気配がした。振り返らずとも分かる。ギルバートだ。
先ほどまで部屋の隅で待機していた彼は、私の体に触れることなく、けれどまるで支えるように、庇うように、いつもより近くに立っていた。
彼もきっと、今回のことをレジスタンスに報告するだろう。アバドに対するレジスタンスの動きはいまいち読めないけれど、アバドが消えたことで何か変化はあるのだろうか。
思えば、私はアバドのおかげでポルタリア魔法学院に裏口入学することができた。アバドはもう消えてしまった訳だが、だからといってすぐに学院側もアバドの被害者というモルモットを放り出すことはしないだろう。元々訳あり学級である第五生徒に所属しているし、学院生活は今までと変わらず送れるはず――
ゆっくりと歩き出す。ギルバートがすぐ後ろをついてくる。触れるか触れないかのぬくもりに、私は自分でも気づかないうちに安堵を覚えていた。
強張っていた体から力が抜けていく。動きの鈍かった脳が一気に覚醒して、目の前の靄が晴れていくような気持ちだった。
(誰を信用すればいいのか分からない。なら、自分で動くしかない)
それは至極単純な話だ。誰も頼れないなら、まず自分が動く。情報が少ないから今の私は悩んでいるのだ。それならまず調べて、情報を精査して、誰なら信用できるか、誰に協力を求めるべきか、見極めるしかない。
ぎゅう、と黒い粒が入った小瓶を握りしめた。細いけれど、まだ道は途切れていない。出口へと繋がっている。そう信じて進むしかない。
ひとまず黒い粒の正体について調べよう。アバドが消滅したことで国や学院、そしてレジスタンスがどう動くかにも注視しなければ。
そう心に決めたと同時に、寮部屋の前に到着した。ふっと背後から気配が遠ざかる。私は離れていくぬくもりを追うように思わず振り返った。――そうすれば、穏やかな光をたたえた薄紫色の瞳と目が合う。
「笑っているように見えた」
とても穏やかな声だった。
「アバドが消える瞬間、少しだけその表情が見えた。もうほとんどが砂になっていたが……俺には、彼女が笑っているように見えた」
ユーリの最後の瞬間を思い出す。果してギルバートがどこから私たちを見ていたかは分からないが、確かに彼女は微笑んでいた。
「ようやく解放されることに喜びを感じて……アンタに、感謝してたんだと思う」
事実だけを端的に語るいつもとは違い、言葉を探しながら話すギルバートは普段より幼く見えた。――違う、年相応に見えた。だって彼は私より年下なのだ。元の世界で言えばまだ高校生。私が高校生のときなんて、自分が暮らしている国や世界のことなんて一切考えず、ただぼんやりと、のんびりと、日々を生きていた。
生まれた世界が違うだけで、こんなにも違う高校生活を送らなければならないなんて。もしギルバートが私と同じ世界に生まれていたら、どんな高校生活を送っていたのだろう。一人教室の隅で読書をしていただろうか。案外友人たちに囲まれて、仕方がないと呆れた表情を浮かべつつ、外へと連れ出されていたかもしれない。
いいな、と素直に思う。そして同時に、彼にそんな風な高校生活を送って欲しかった、とも思った。
「アンタのおかげだ。アンタは……一人の少女を、救った」
その言葉に、なぜだろう、涙が出そうになった。
ウィルフレッド先輩に世界を救ったと言われたときはなんの感動もなかったのに。ただただ恐縮するばかりで、実感も何もなかったのに。
――私は、ユーリを救うことができた? 力を持たない私が、この世界で己の無力を幾度となく痛感してきた私が、一人の少女を――救った。救えた。
じわりと涙で視界が歪んで、私は慌てて俯いた。そして前髪を整えるふりをしてこっそり涙を拭う。
私が泣いたことにギルバートは気づいているかもしれないが、指摘されることはなかった。
「ありがとう。ギルバートも、ゆっくり休んで」
ギルバートは小さく頷いて踵を返す。その背中が廊下の角を曲がるまで、私は扉の前でじっと見送っていた。
――アンタは、一人の少女を救った。
未だ鼓膜の奥で反響するギルバートの声。自分の無力さを嘆く私を知っていたから、彼はそう声をかけてくれたのかもしれない。――いや、ただの気まぐれでも慰めでも、救世主さまに向けたお世辞でもなんでもいい。
少なくともこのときの私は、ギルバートの言葉に救われていた。




