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「<セル>からの脱出者の記録を見たいのですがーー」
「1999番書庫の10列目、7610段目だね」
扉の前には齢100をとうに超えていそうな老婆が座っていた。レインは迷うことなく彼女から伝えられた場所へと進み、時任は慌ててその後を追った。
書庫もまた、どれほどあるのか分からないほどに広く、そして各本棚は遥か高くまで伸びている。壁に掛けられた長い梯子は、その一段一段がやけに細く、頼りない。
「あー、あの婆さん、7610段目とか言ってたが、まさかこれで登るわけじゃないよな?」
「あなた一人ならそうでしょう。しかし今は私がいます。梯子は不要です」
レインはそう言うと、何やら聞き慣れない言語を唱えはじめ、終いには楽団の指揮者のように、大仰に腕を振った。すると2人の体は重力から解放され、エレベーターのように垂直に上昇した。
「どうやらこの辺りですね。思ったよりも数が多い。手分けして見てみましょう」
唐突な空中浮遊に驚く間さえ与えず、レインは幾つかの本を抜き出し、時任に手渡した。時任がその内の一冊を開くと、残りは彼と同じく空中で静止した。
本の中身は無数の文字と映像とで構成されていた。文字について、時任はその一つさえ見たことがなかったが、それらを目で追うだけで内容は頭の中に自動で入力されていった。
「スプリング・シーカー。β宇宙出身。2078年、α宇宙への脱出を試み、失敗。その結果、3人の<ロスト>と惑星衝突を引き起こす。その罪と再度の<ロスト>化により"消滅"」
その物騒な文面とともに、映像内には突如姿を現した彼女と、続く惑星衝突で生命の半分が失われる凄惨な<観測>結果が映し出されている。
他のページも類似の内容ばかりが続き、時任はここに来てから初めて、"疲労"に近いものを感じることとなった。
「時任君、どうやら私は、君に謝らなくてはならない」
その、突然のレインの言葉は呟きに近い小さなものだったが、広大な書庫にはよく響いた。
「これを見て下さい。ここ、デスクに戻ればより鮮明な映像で<観測>できますが……これでも事を理解するには十分でしょう」
レインの白く長い指が示すのは、α宇宙、1995年3月11日の映像。そこには他でもない、レイン自身が空間の裂け目から姿を現す様子がある。
「この"記録"によれば、どうやら私は、α宇宙への脱出を成功させたようです。そしてその結果、一人の<ロスト>を新たに生んだーー」
「……俺か」
「あなたは私の脱出の犠牲者だった。なんと詫びれば良いのか」
時任はしかし、冷静だった。その明らかな矛盾に気がついていたからである。
「だが、あんたは実際、まだここにいるじゃないか。これは"記録"だろう?まだ起こってもいないことが、なぜ書かれている。何かの間違いだ」
「いいえ、ここでは"時間"の概念は意味を持ちません。原因と結果は、必ずしも一方向には定まらないのです。ここでは未来が過去であり、過去が未来なのです」
「つまり、後悔が先に立つと?」
「ええ、その通りです」
時任はそれでも尚、冷静であった。先ほどまで感じていた、感じていると思っていた、怒りや焦りといった感情は、既に彼の中には無かった。
「けれど時任君の言った通り、私はまだここにいる。私が脱出を止めたなら、時任アユムが<ロスト>になる必要もなくなり、元の宇宙に戻れる可能性もあるかもしれない……」
レインは眉間に皺を寄せ、ぶつぶつと独りごちた。その神妙な面持ちに、時透は初めて笑いが溢れた。
「レイン。あんたはいい奴だ。あんたがこれからする選択を、後悔する必要はない。それに魔法使いであるあんたが俺の宇宙に行けば、あらゆる常識がひっくり返る。俺はここで、それをじっくり<観測>させてもらおう」
あれからどれほどの時間が経ったのか、ここでは感じることができない。彼はα宇宙を映すモニターに手を伸ばす。日付と場所を打ち込み、椅子に深く腰掛ける。
モニターには、その世界には明らかに場違いな、宙に浮かぶ男がいる。燃え盛る炎の中を、それが何でもないという顔で悠然と通り抜ける。その先で、男が時空の狭間に姿を消すのを見て、彼は独り、頰を緩めた。




