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 彼が"そこ"に来たのは、数年前のことである。否、正確には、彼はそれを数年前の出来事であると考えている。

 その日、彼は就職のために、何度目かの面接を受けていた。圧迫面接の末、厳しい言葉を投げ続けられた彼の我慢袋は、ついに爆発した。面接官の理不尽な質問に、彼ははっきりと不遜な態度で反論した。言葉というものは一度表に出ると、それを支えるために何倍もの言葉が続く。彼のそれは10分ほど続いた。途中から後悔が押し寄せてきたものの、今更引っ込みもつかず、口を開けたままの面接官を残して部屋を立ち去った。

 彼には昔から、そういうところがあった。頭に血が昇ると、駄目と分かりつつも、口が勝手に動く。それで幾度も失敗を繰り返してきたのだった。

 帰り道の足取りは重かった。自分の難儀な性格を呪いながら、彼はふらふらと歩いた。普段なら真っ直ぐに家に帰るところだが、今日はそういう気分ではない。昼間から開いている居酒屋を探して、駅とは反対方向へと向かった。

 ガラガラッ

 年季の入った木製の扉を引く。錆と劣化でスムーズには動かない。暫しの悪戦苦闘の末に、彼は店内に足を踏み入れた。

 ……"そこ"は、店の外観とは似つかない様相だった。お世辞にも綺麗とは言い難い外観から、古びた店内を想像した彼は、映画で見た様な近未来的な"そこ"の雰囲気に完全に呑まれてしまった。

「時任アユム。1973年2月16日生まれの22歳。間違いないか?」

 背後から聞こえた男の声に、彼は驚きを隠すことなく振り返った。男は年老いていて、背が高く、深い皺と痩せた身体が少しばかり不気味である。一方その姿とは対照的に、身なりは整っていて、寝台列車の車掌のような格好であった。

「あんた誰だ?俺は小汚い居酒屋に入ったはずだが。ここは明らかに居酒屋じゃない」

「質問に答えろ。時任アユム、間違いないか?」

 男の声は随分と不機嫌である。

「あぁ、そうだ。名前は合ってる。それよりここはどこなんだ」

「ここは<セル>だ。貴様のような<ロスト>が来る場所だ。自分は<案内人>。自分の名は既に忘れた」

「何だその、<ロスト>ってのは?俺はそんな得体の知れないものになった覚えはない」

「貴様には関係のないことだ。全ては宇宙が決める。貴様は偶然そうなった。考えるな、受け入れろ」

 彼ーー時任はその説明に何一つ納得はいかなかったが、しかし男の醸す雰囲気には有無を言わさぬ物々しさがあった。時任は仕方なく、男の"案内"に従うことにした。

 今更ながら時任は、"そこ"が、空港のロビーのようであると思った。幾つかの、革製のソファーが並んでおり、奥の方にはゲートのようなものも見える。灯りは控えめでやや暗く、辺りの様子が少し見づらい。

「ここで飯を食え。好きなものを言うといい」

 <案内人>は何もない場所で突然に立ち止まり、そう言った。すると、確かに何もなかったはずの場所に、木製のテーブルと硬い椅子が現れ、気づけば時任はそこに座っていた。椅子を引いた記憶すらなかったが、時任は既に座っていたのである。

「あんたは常に唐突だ。人にはもう少し、心の準備の時間がいる」

 時任は恨み節を呟いた。それに対し、<案内人>は小さく鼻で笑った。

「ここから先、<セル>の中に"時間"はない。故に貴様の食事はこれで最後だ。最後の晩餐に相応しいものを頼むといい」

「"時間"がない?それはおかしい。現に俺たちはさっきから会話をしているし、移動もしている。それは"時間"が経っているということだ」

「貴様の常識はここでは通用しない。ここでは"変化"と"変質"は異なる意味を持つ。"変化"は起こるが、"変質"は起こらない。故に食事の必要はない。歳をとることもなく、死ぬこともない。

 ここでは原因と結果は一方向ではなく、決まった順序が存在しない。"時間"がないというより、"時間"という概念が意味を持たないのだ」

 <案内人>はそれまでではじめて長い説明をした。時任は勿論その論理を受け入れてはいなかったが、この<セル>という場所が牢屋のようなものであるなら、この先まともな食事を取れない可能性があるのは確かだと思った。

 時任は特上の寿司を二人前と、貝汁、茶碗蒸し、それから日本酒を少し、頼んだ。決して食通ではない彼だが、それでもその寿司がこれまで食べたものの中で最も美味であることに異論はなかった。食事中、<案内人>が羨ましげに眺めるのを、時任はわざと無視した。

 食事を終え、最後の酒を呑み込んだところで、時任はやはり気づかぬうちに席を立っていた。目の前には、部屋の奥に見えたあのゲートがある。<案内人>は時任を強引にその前に立たせ、何やら得体の知れぬ機械のスイッチを押した。

「あんた今何した、また勝手に……」

「今から貴様の"役割"を決める。ただの二択だ。<案内人>か、<観測者>か」

「ちょっと待て。その"役割"ってのは一体何だ」

 チーン、とベルが鳴り、時任の問いは掻き消された。見ると彼の手の甲には双眼鏡のような図柄が刻印されており、それを一目見た<案内人>がわざとらしく舌打ちをした。

「貴様は今から<観測者>だ。じゃあな」

 その声がまだ耳に残る内に、時任は背中を強く押される感覚を覚えた。その瞬間、床が抜けて強い重力が急激に身体を襲い、時任は深い闇の中へと落ちていった。遠くの方で<案内人>が、意地悪な笑みを浮かべているのが小さく見えた。

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