第九十一話 雲間の太陽
プレシャさんは幾らも待つことなく、先に仕掛けた――地を這うような低さで槍を構えて駆ける。アレハンドロの後ろに控えている射手、そして長槍兵は全く反応できず、狙うことすらままならない。
「――はぁぁっ!」
地面から飛び上がりながら、プレシャさんが長槍を振り上げる。アレハンドロの馬が驚いて反応する時間すら与えず、彼女の槍の穂先がアレハンドロの首を狙う――しかし。
(なっ……!)
鈍い金属音と共に、プレシャさんの槍がそらされる――アレハンドロの腕、そして頬から血しぶきが散る。
プレシャさんの槍は確かにアレハンドロに当たったはずだった。しかしアレハンドロは落馬もせず、プレシャさんの槍を受け流す――剣で応じれば間に合わないところを、手甲で受けたのだ。
「ぐぅっ……!」
無傷ではない、それでもプレシャさんの初撃を受けて生き残った。そしてアレハンドロは空中ですれ違う際に、プレシャさんの腹部に当て身を入れる。
「っ……ああっ……!!」
濡れた地面に、プレシャさんの身体が叩きつけられる。
敵将の首を狙い、それが成らなかったときのリスクを知っていて、それでもプレシャさんは飛び込んでいった。
アレハンドロを討てば、こちらの勝勢は明らかとなる。アレハンドロをこのまま他の敵兵に紛れて逃すことはできなかった――しかし。
「グラス兄、駄目っ……今出ていったら、グラス兄が……っ!」
プレシャさんは落ちた先にいた兵士の槍を転がって避けると、槍を一閃して薙ぎ払う。
「――はぁぁぁっ!」
まだ、戦える――それを示すように、プレシャさんは次々に襲いかかる長槍兵を槍一本で捌き、打ち負かしていく。
「アレハンドロ……あの男は、ここでっ……!」
ノインが魔法を唱え始める――雨が上がったばかりで周囲に満ちていた水精霊の力が、彼女のかざした手の先に集まり始める。
魔法を使えば俺たちの位置を知られる――だが、そんなことは言っていられない。アレハンドロは負傷した腕を使わず、左手に携えた見たことのない形の武器をプレシャさんに向ける。
(小型の弓……駄目だ、植物の精霊に呼応しない……!)
「――プレシャさん、退いてっ……!」
「っ……!」
ノインが水精霊アプサラスを召喚し、水弾を発生させて連続で撃ち出す――一発一発が圧縮されていて、着弾と同時に破裂するような衝撃が生じる。
「ぐぁっ……!」
「うぉっ……!」
これが宮廷魔法士の力――しかしアレハンドロは、負傷した腕を使うことを厭わずに、高速で迫る水弾を弾き飛ばす。
――水弾が霧散する中で、白い髪を振り乱しながら、アレハンドロは獣のような眼光を放つ。それまでは感情を露わにすることがなかったアレハンドロの目に、初めて明確な殺意が宿る。
「っ……あ……ああ……っ」
「――逃げろ、ノインッ!」
「……空気の精、エアリア……ッ、我らを守る不可視の壁をっ……!」
俺はノインを庇おうとする――アレハンドロは一切の躊躇なく、背後に控えていた射手に指示を出し、自らもまた鋼鉄の武器をノインに向ける。
アレハンドロの武器から打ち出されたのは、鋼鉄の矢――レスリーの展開した空気の壁が矢の威力を軽減するが、完全に減殺することができずに貫通してくる。
「くっ……!」
「――グラス兄っ!」
ノインを庇った俺の腕に、矢が掠める――焼けるような痛みが走り、すぐに自分の身体に毒が入り込み始めたことを知覚する。
「グラス先生っ……!」
「――俺は平気です! プレシャさん、退いてください! 加勢が来てくれれば、チャンスは必ず巡ってきます!」
「っ……!!」
毒の成分が生物由来のものならば、対処は難しかった――だが、トリカブトの類から抽出された植物毒だったことが幸いした。
「レスリー、空気玉を頼む!」
「う、うんっ……エアリア、お願いっ……!」
レスリーが撃ち出した空気玉に、自分が受けて抽出した毒を封入する。敵の追撃を振り払い、こちらに駆けてくるプレシャさんが身を低くして加速した瞬間、その上を空気玉が走り抜け、アレハンドロに向かって飛んでいく。
「っ……!?」
アレハンドロは空気玉を振り払う。封入された毒を撒き散らすことになるとも知らずに。
(俺たちを侮った……プレシャさんの槍を、ノインの魔法を凌いで、奴は勝てると確信した。その油断が命取りだ……!)
相手がどのような魔法を使うのか――それを知らないことがどれだけ恐ろしいかと、ミレニア義姉さんも話していたことがあった。
実力が格上の魔法士でも、格下の魔法士に相性によって敗れることもあるという。相手の虚を突くことさえできれば、初歩的な魔法が必殺の効果を生む――。
「がっ……ぁぁ……!!」
「な、なんだ……将軍殿が……っ!」
アレハンドロが胸をかきむしる。俺の身体に入り、抽出された毒は、より敵の身体をめぐりやすいように変質している――毒は通常よりはるかに早く呼吸をするための筋肉を麻痺させ、身体の自由を奪う。
毒で敵の自由を奪うことは、医者の本分とは反することだ。それでも、今はどんな手を使っても、全員で生き延びなくてはならない。
「――レーゼンネイアの狗が、邪魔をするなぁぁぁぁぁっ!」
アレハンドロが吼える――その、次の瞬間に。
一迅の疾風が俺たちの後方から駆け抜けていく。そしてアレハンドロが放とうとした矢が撃ち出される前に、白光のように剣閃が走った。
「がっ……ぁぁ……」
アスティナ殿下に続いて、ラクエルさんが突撃をかける――長槍兵たちが吹き飛ばされ、射手隊が射掛けた矢は全て弾かれて、巨馬によって蹴散らされる。
「部下の命を自ら捨てさせる獣に、狗と呼ばれる筋合いはありません」
殿下の剣でアレハンドロの甲冑が断ち割られる――そんなことが可能なのは、殿下もまた巫女となっても、魔戦士としての力を備えているからだ。
「――アスティナ……貴様だけでも……っ!!」
深手を負ったアレハンドロが鋼鉄の弓をアスティナ殿下に向ける――だが。
アスティナ殿下がアレハンドロの近くにいる。それは、神樹の力を媒介することができる巫女が、敵の懐に入り込んでいることを意味していた。
(神樹の枝に住まいし宿樹よ。巫女に宿りて、その身を守る盾となれ……!)
ミストルティンを遠隔召喚する――殿下に向けて放たれた矢を、彼女の腕に絡みついた宿り木の蔦が視認できないほどの速度で伸びて止める。
これが神樹の巫女の力。俺だけで魔法を使うときとは比べ物にならない力を引き出すことができる。
アレハンドロはプレシャさんの槍を止めるために、剣を握る右腕を捨てた。そうでなければ、殿下と一合切り結ぶことくらいはできただろう――しかしそれも叶うことなく、自分の放った矢の毒で最期を迎えようとしている。
「――化け物がぁぁぁぁぁっ!!」
最後の最後まで、アレハンドロは獣から人間に戻ることはなかった。自分の理解が及ばない相手を化け物と呼び、すでに感覚がないはずの腕で剣を振り上げる。
しかし、その剣が振り下ろされることはなかった。
流れ矢か、それとも誰かが狙いをつけて放ったものか――アレハンドロは飛んできた矢を受け、崩れ落ちるようにして落馬する。
「閣下っ……アレハンドロ閣下っ!」
「閣下が……アレハンドロ将軍が、負けた……」
アレハンドロの部下たちは、もはや抵抗が無意味であると悟ったようだった。指揮官を討ち取られ、包囲されて退却することもままならない。
敵兵が動くこともできず、投降もできずにいる中で、一騎の騎士が近づいてくる。軍営の中にいる兵士の中でも年齢を重ねた、壮年の男性――彼は馬を降りると、武器を持っていないことを示して、殿下の前で膝を突く。
「あなたの名前と、所属を述べなさい」
「私はリヒアルド・オーロックと申す者……この砦の副将を務めていた者です」
ジルコニアの兵たちは何も言わず、ただ殿下とリヒアルドを見つめている。彼らは憔悴しきって、いつ恐慌に陥ってもおかしくない状態だ――しかし、殿下の放つ清冽な気が彼らの目を引きつけ、心を落ち着かせている。
敵兵にすら、崇敬の感情を持たれる。俺が仕えている人物は、そんな絵物語のようなことを本当に起こしてしまう器量の持ち主だった。
「私はアスティナ・レーゼンネイア、運河向こうのアイルローズ要塞を守る者です。あなた方はこれより我が軍の捕虜となり、この軍営は我らの管理下に置かれます」
「はっ……」
リヒアルドは返事をするが、許されるまで頭を上げない。その副将の姿を見たことで、兵士たちはようやく事態を理解し始める。
アイルローズ騎士団が、二千五百の兵で、遥かに兵数が多いと見られるこの砦を陥落させた。ジルコニア帝国の重要な拠点が奪われたのだ。
雨が上がったあとも薄雲に隠れていた太陽が姿を見せ、雨露の残る軍営を照らす。ノインはアレハンドロを見つめたままで動かなかったが、やがて空を仰いだ。
砦を包囲していた兵士たちが入場し、敵兵たちは投降していく。俺は殿下の許可を得てアレハンドロに近づき、彼を最後に射貫いた矢が、鋼鉄製であることに気づく。俺たちの軍が使っている矢は木製の軸に風切り羽根と金属の鏃をつけたものだ。
――白い鴉を射落としたのは、他ならぬジルコニアの兵が放った矢だった。
軍船を接岸させることができたのか、ディーテさんが馬に乗ってこちらにやってくる。ラクエルさんは負傷したプレシャさんに肩を貸している――俺自身も傷を負っているが、まず彼女の傷を診なくてはならない。
「グラス先生……あたし、格好悪いところを見せちゃったね」
「そんなことはありません。プレシャさんはとても勇敢でした」
「あまり甘くするとまた一人で突撃することになる……命を捨てるような戦い方ではないが、敵の力を見誤ると危険であることに変わりはない」
「うん……ごめん、ラクエル姉。あたし、もっと強くならなきゃ……」
この軍営の医療所を使い、プレシャさんの治療をさせてもらうことにする。リヒアルド副将はこちらに協力的で、敵軍の混乱はすでに静まりつつあり、降伏したことがつつがなく周知されていった。




