第九十話 泥の鴉
砦の中の安全を確かめたあと、ブリジットさんが連れていた騎兵が一騎正門から出てきて、アスティナ殿下に報告を行う。
『グラス。私たちはこれより、アレハンドロ将軍と話をします。こちらが勝利した形とはいえ、敵兵はほとんど無傷のままです。こちらに利がある提案を押し付けるよりは、まず向こうの出方をうかがうことができればと思います』
『かしこまりました。殿下……俺たちも魔法を使い、気配を悟られぬよう、交渉の様子を見ていても良いでしょうか』
進言すると、殿下が少しだけ迷うような間を置いた――彼女が何かを躊躇することは珍しい。こちらにも緊張が伝わってくる。
『……可能な限り、敵兵を無力化させられるでしょうか。私たちが話をするのは、中央に位置する幕舎です。そこが見える位置に敵兵が配置されているようなら、警戒するに越したことはありません』
『はっ……承知しました。必ずやってみせます』
『グラス……申し訳ありません。軍医のあなたに、危険を強いるようなことをして。プレシャのことをよく頼って、くれぐれも無理をしないようお願いします』
殿下は直属の近衛騎士十六名と、彼らに従う騎兵八人ずつ――百二十八名を連れて砦の中に入っていく。ラクエルさんは包囲の維持を任され、敵の動きを一寸たりとも見逃さないように、巨馬の鞍上から見つめていた。
プレシャさんは一度本隊の麾下にある部下に自分の馬を任せると、歩いてこちらに戻ってくる。槍を使って伸びをすると、その瞳が鋭さを増す。
「……先生、心配しなくていいよ。あたしは前までのあたしとは違う……先生のおかげで変われたんだから」
「心配はしていません。とても頼もしいと思っていただけです」
「っ……そ、そう。先生、何か急に落ち着いてきてない? ちょっと前だったらすぐおどおどしたり、焦ったりしてたのに」
「あ……い、いや、偉そうに見えたのなら謝ります、素直に思ったことを言っただけなんですが」
「その『素直に思ったこと』が、私とレスリーには困りものと言わざるをえないのだけど……お互い、苦労するわね」
「……もう慣れっこだから」
二人の言うことも気になるが、うかつに触れると藪蛇になりそうだ。今は、俺たちの果たすべき任務に集中しなくてはいけない。
「プレシャさん、神樹との契約を介して殿下と話すことができました。俺たちは砦の中に入って、未然に殿下たちの危険を防ぐよう動きます。敵将と対話している間を狙って、敵が動く可能性は否めません」
「みんな砦から引きずり出せば……なんてやり方だと、それこそ抵抗されるんだろうね。あたしたちは簡単には死なないけど、部下同士の戦いは避けなきゃ」
「殿下もそうお考えだと思います。レスリー、気配を消す魔法をお願いできるかな」
「うん、分かった。空気の精霊エアリア……我らを包む空気を、気配を絶つまやかしに変えよ……」
潜入任務において、レスリーの力は無類の威力を発揮する。俺たちは『そこにいても認識できない存在』となり、壊れた砦の正門を誰にも気が付かれないままに通り抜けた。
まず俺たちは、付近に人がいない場所へと移動する――殿下たちが向かった中央幕舎の前で、敵兵とこちら側の兵士が睨み合っている。
武器を捨てた敵兵が、武装した騎兵の前に立たされる。その心境は察するが、彼らも俺たちの要塞に入っていれば同じことを俺たちに求めただろう。
「北側の丘にクロエの部隊が陣取ってる。北の壁の上は気にしなくていいとして……陣営の中を見渡せる見張り台が、中央西と東に二つある」
「分かりました、見張りを無力化しておきましょう……ノイン?」
「……アレハンドロが何かをするなら……部下を使い捨ててでも……この砦を……」
ノインの目は目の前の光景ではなく、どこか違う場所を見ているように思える。
アレハンドロは、それほどの憎しみを彼女に負わせたのか。それとも、それはかつて自分を従えていた相手に近づくことへの恐怖か。
「ノイン、アレハンドロ将軍はどう出るのか、ある程度推測できそうなのか?」
「っ……ごめんなさい。私は……あの男を乗り越えなくてはならないのに……」
「……大丈夫。ここまで来たら、敵の将軍の思い通りには絶対させない」
レスリーがノインの手を握る。そして首元の汗を拭う――ノインはレスリーの手を握り返すと、その身体の震えが少しだけ和らぐ。
「……アレハンドロはきっと何かをしてくる。彼の駒を少しでも減らさないと」
「じゃあ、まず東側の見張り台に行くよ。見張り台の上にいる兵は槍で気絶させてもいいけど、どうする?」
「こういう時のために俺がいます。レスリー、空気玉の準備をしておいてくれ」
今まさに殿下が部下を伴い、アレハンドロがいると思しき幕舎に入った――俺は物陰でアルラウネを召喚し、東側の見張り台に近づく。
レスリーの作った空気玉に、アルラウネの催眠花粉を封入する――この砦全体に効果を及ばせようとすれば持続時間が短くなり、魔力もすぐに枯渇する。しかし、一人に催眠をかけるのは難しいことではない。
「召喚主さま、上にいる人に催眠をかけられましたのです」
「よくやった、ルーネ。レスリー、ルーネを預かっておいてくれるか」
「グラス先生、あたしが背負って一気に登ってあげる。その方が早いし、先生の体力も温存できるから」
「は、はい、頼みます……っ!」
プレシャさんに背負われた次の瞬間、彼女は梯子をよじ登るのではなく、垂直方向に駆け上がった――レスリーの魔法で音や気配が絶たれているから可能なことだが、改めて彼女の身体能力の凄まじさを見せられ、感嘆する。
見張り台には一人の兵士がいて、床に座り込んでいる。顔を上げさせると、アルラウネの花粉による催眠が完全に効果を現していた。
「うまくやれば、アレハンドロにも同じ方法が通じたんじゃ……」
「いえ、この催眠では質問に答えさせることはできても、能動的に言うことを聞かせることはできません。将軍として振る舞えない状態になったアレハンドロの言うことには、さすがに敵兵も従わないでしょう」
「あ……ご、ごめん、あたし、単純に物事を考えすぎるっていうか……」
「俺も同じことを考えはしましたが、何より陛下が、魔法による干渉を望んではいないでしょう」
対話が決裂しそうになったときの保険としても、催眠魔法はリスクがある。敵が口と鼻を布で覆っているだけでも、効果が出るまで時間がかかる――ジルコニアの騎士や兵たちを見る限り、口を覆っている者が多い。見張り兵は口を覆っていないが、それは一時的なことで、首に布が巻かれている。普段はこれで口元を覆うのだろう。
「質問にいくつか答えてもらう。この砦は、本当に投降勧告を受け入れるつもりなのか? 白旗を上げた意図を聞かせてくれ。アレハンドロ将軍は何を考えている」
「……アレハンドロ将軍は……一介の兵である俺たちに……策を明かしたりは、しない……ただ、見つけろと……」
「見つけろ……? それは、何をだ」
「……敵軍に、魔法士がいる……魔法士の姿を見つけ次第、殺すか、捕らえろと……」
全身に悪寒が走る――俺たちの存在を察知し、アレハンドロは明確に殺意を向けてきた。
ノインがこちら側についたと気づいただけなら、『魔法士』という言い方をするだろうか。ノインだけでなく、俺とレスリーの存在にも気づいた可能性がある。
「先生、あたしは見張り台から周りを見てみる。もう少し聞き出せそうなことがあったら質問してみて」
この兵士は、「策」と言った――つまり彼個人としては、アレハンドロが何かの策を講じていると考えているということだ。
今からでは時間がない。この場において有効な質問は何か――聞いておくべきことは何か。
「アレハンドロ将軍が信頼している、副官はいるのか?」
「……リヒアルド、千人長……もとはこの軍営を率いていたが、アレハンドロ将軍が、その上につくことになった……レーゼンネイア侵攻軍の、総指揮官として」
そのリヒアルドという人物に催眠をかける――いや、時間がかかりすぎる。
『――グラス』
そのとき、アスティナ殿下の声が聞こえた。すでにアレハンドロ将軍と対峙している最中のはずが、あえて俺に呼びかけてきているのだ。
『私達が目にしている人物……アレハンドロと名乗る者ですが、降伏すると言っていながら、無思慮にこちらへの譲歩を求めてきてもいます。自分の意思ではなく、何者かに命じられたままに話しているような違和感があるのです』
アスティナ殿下の言葉が、ある一つの推論を導く――それが当たっているのなら、一刻の猶予すらない。
「アレハンドロ将軍に、何か容貌の特徴はあるか?」
「……白い髪がよく目立つ……長身で、細身に見えるが……身体は鍛えあげられている……頬に、古い傷跡がある。年は……三十には届かないほどで……大将軍の中では、最も若い……」
『――殿下、目の前にいる人物の頬に、傷はありますか』
『傷……はい、少し前に負傷したのか、手当をした跡があります』
この兵は古傷と言い、殿下は新しい傷と言う――その不整合が意味するものは。
『――殿下、目の前の人物はアレハンドロ将軍ではなく、影の可能性があります!』
『っ……皆、この幕舎から出なさい! 外にいる兵たちも、早く!』
殿下が声を上げる――次の瞬間、起こってはならないことが起こった。
「っ……なに……!?」
轟音が耳をつんざく。衝撃が空気を震わせる――そして、鼻をつくのは流れてくる火薬の匂い。
「あいつら……まさか、殿下を……!」
「殿下と対面したのは、アレハンドロではなく偽物だった……もっと早く気づくことができていれば……っ!」
ノインの呟きが脳裏を過ぎる。部下を使い捨ててでも、この砦の『陥落』を防ごうとする――そんな策を使う人間が本当にいると、俺たちは考えることができていなかった。
俺は見張り台から中央幕舎を見やる。間一髪のところで殿下は脱出し、外にいた殿下の部下たちは周囲の敵兵を制圧していた。しかし、まだ予断を許さない状況だ。
『殿下、砦から逃れてください! 敵は混乱に乗じて殿下を討ち取ろうとしています!』
『……心配しないでください、グラス。私はアレハンドロにも騎士としての矜持があるものだと思っていました。しかし、そうではなかった』
中央幕舎に向けて矢が飛んでくる――しかし。
「――はぁっ!」
殿下はその全てを剣の一閃で弾き落とす。まるで、飛んでくる矢の方向が全て予測できているかのように。
「騎兵は散開し、砦を制圧しなさい! 本隊は敵将を逃さぬよう、包囲を続けるのです。ラクエルには突入するように伝えなさい。クロエの隊は北側からの脱出を封じ、城壁に矢を射掛けるのです!」
殿下直属の騎兵たちが動き始める――そして正門から突入してきたラクエルさんの部隊が、残っていた兵たちの戦意を挫くように、目に映るものを薙ぎ払いながら突き進む。
「プレシャさん、俺たちも動きましょう……プレシャさん?」
プレシャさんが一方向を見つめたままで動かない。彼女と同じ方向を見ると、そこには外套を羽織り、青みがかった芦毛の馬に跨った騎士がいた。
「……白い髪……あれが……本物の、アレハンドロ……!」
「プレシャさんっ……!」
「あいつを討ち取る……先生、そうすれば戦いは終わる。だから、あたしは……!」
槍を手にしたプレシャさんが見張り台から下りる――そして彼女は立ちふさがる敵兵をなぎ倒しながら猛進していく。一度は武器を捨てた兵たちは手近のものを使って応戦しようとするが、それでプレシャさんを止められるわけもない。
「グラス兄っ……」
「グラス様、私にアレハンドロを討たせて! あの男が、あの男さえいなければっ……」
見張り台を降りた途端にノインが言う――俺は『緑の癒やし』を使い、彼女の心を鎮める。
「今はこの場を無事に切り抜けることだ。プレシャさんを一人にしてはおけない……だが、砦の中は武装解除した兵がほとんどとはいえ、正面から戦うのは得策じゃない」
「……私がグラス様を守ります。ですが……こんな私では……」
「ノインさんは無理しないで。私が、二人を守るから」
「アレハンドロを憎む気持ちはわかる。でも、俺たちは一人で戦ってるわけじゃない。それは忘れちゃだめだ」
ノインは頷きを返す――そして護身用の短剣を抜く。レスリーも、俺と比べれば護身の心得はあると分かっているが、それでも交戦は避けなくてはならない。
「貴君らは騎士の誇りを無くしたのか! 味方を捨てて得られるものなど何もない、それがなぜ分からぬのだ……っ!」
ラクエルさんの声が聞こえる。幕舎に火薬を隠し、爆発させる――巻き込まれたアレハンドロ将軍の偽物、そして付き添っていた敵兵は、恐らく一瞬にして命を落としただろう。
殿下も逃げ遅れれば無事ではいられなかった。しかし、白い鴉の計略は阻まれた――彼の思い通りに進んではいない。
「――我が名はプレシャ・ホルテンシア! 騎士の誇りがあるならば尋常に勝負せよ、アレハンドロ将軍っ!」
アレハンドロにまで辿り着いたプレシャさんが、跳躍して長槍を振り下ろす――それを両手で構えた長剣で受け止めると、あろうことか、アレハンドロはプレシャさんの一撃を弾き返した。
「くっ……!」
「誇りなど、泥水を啜って味わう勝利ほどの価値もないものだ。果敢にして小さな騎士よ、最後に相手をしてやろう」
策が成らずに逃げることを考えるのなら、アレハンドロは自身が本人であることを認める必要はないはずだ――だが、プレシャさんの勝負を受けた。
策を巡らせるだけの人物ではない。アレハンドロは騎士としての実力にも、絶対の自信を持っている。
「上からで言ってくれるけど。あんたはその『小さな騎士』にやられるんだよ」
プレシャさんが槍を構える。アレハンドロは長剣を構え、馬上から見下ろす――その瞳には、一切の油断がなかった。
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