第八十八話 雨雲の幻
ジルコニア帝国、第一軍営。レーゼンネイア王国と、国境代わりの運河を隔てた位置にあるその軍営地には、ジルコニア軍における全兵力の三分の一が駐屯していた。
過去形であるのは、アイルローズ要塞への攻撃が失敗に終わったこと、そしてジルコニアにとって長年の脅威である北部山岳地帯の亜人族、そして西部に広がる『果ての森』の民たちとの戦いが激化し、兵員を割く必要が生じたことが理由だった。
ジルコニア軍の頂点に立つ『三翼将』の一人、アレハンドロ・フレースベルは、残存していた兵力五千のうち、千名を中央に戻さざるを得なくなった。それは、部下の百人長が十名指揮下を離れるということでもある。
残りの兵力は四千――アレハンドロの得ている情報では、アイルローズ要塞の兵力をまだ上回っている。しかし堅牢な要塞を攻撃し、攻め落とすならば、理想を言えば一万の兵力が欲しいところだった。
それでもアレハンドロは、つい昨日までは、この状況にあっても勝利を確信していた。
彼の戦術の中核を担っていたのは、他ならぬレーゼンネイアからの密使として訪れた魔法士――彼女の魔法を用いた奇襲は成功し、例え敗走に終わっても、アレハンドロはより魔法の力を上手く利用することで、要塞を落とすことができると信じていた。
「ぐぁっ……ぁ……ぁぁっ……」
「しょ、将軍っ……どうか怒りをお鎮めください、このままではレダが死んでしまいます!」
軍営の中で最も大きな幕舎の中で、アレハンドロは報告を終えたばかりの部下の首を両手で吊り上げていた。部下が足掻くさまを無感情に見つめたあと、その場に打ち捨てる。
幕舎の屋根に、ごうごうと雨が叩きつける音が響いている。この雨音の中では、ここで行われていることに他の兵が気付くことはない。
「がはっ、ごほっ……」
「私はノインを連れ戻せと言った。あの魔法士が、私の元から離れたままでいることなどできない……見つからないというのは、ありえない話なのだ。なぜ、そのような嘘をつく?」
「じ、自分は、嘘など……ノイン殿は、砦の中のどこにもおらず、軍船が一隻消えて……あぁっ……!」
アレハンドロの蹴りを受けて、レダと呼ばれた兵士が吹き飛ぶ。もうひとりの男――アレハンドロを補佐する初老の副官は、地に伏して喀血するレダの前に立ち、庇おうとする。
「これ以上は、ご容赦を……! レダを殺すというなら、私をお斬りください!」
「……副将……どの……」
レダの鎧は留金が壊れ、その下の鎧下が破り裂けて、肌が露出している。ジルコニアの兵のほとんどは男性だが、通信兵や後方からの輸送を担う輜重兵は、女性が務めている場合もある――レダはその一人だった。
アレハンドロは男であっても女であっても、兵士であれば性差を意識することはない。しかし副将のリヒアルドは、徹底して割り切ることをしない人物だった。
「リヒアルドよ。貴君は今の報告をどう考える?」
「ノイン殿……戦闘魔法士を失ったということは、魔法に頼る戦術を用いることはできぬと……」
「ジルコニアには、あれほど有用な魔法士は存在しない。アイルローズ要塞に魔法士が派遣されておらず、我らが魔法士を擁する状況においては、苦もなくあの要塞を落とすことができただろう……それが成らなかったのは、なぜだと思う」
アレハンドロに問われる前から、リヒアルドも気づいていた。射手隊の弓が突如として使えなくなり、射出不可能となった――その理由は、決して弓の整備不良などではない。
「アイルローズ要塞に、魔法士が加わったと考えられます。前回の攻撃の段階で、すでに迎撃に出てきていたものかと……」
ノインの行方が知れず、敵軍に魔法士が加わっている。その事実が兵たちに伝われば、著しく士気を下げることになる。
アレハンドロはレダに罰を加え、そして自軍の不利を確認した今でも、およそ感情というものを表に出さない。リヒアルドは長く副官を務めているが、この青年と言える年齢の将軍が、戦においてわずかでも動じた姿を見たことがなかった。
――そのアレハンドロが、不意に口の端を歪める。リヒアルドは戦慄を覚え、冷や汗を流しながら、白い髪と灰の瞳を持つ若き将軍と対峙する。
「ノインが消えたことと、アイルローズに加わった魔法士……この二つには関係がある。リヒアルド、私の言わんとするところが分かるか?」
「っ……は、はっ……承知しております。敵の魔法士を排除することができれば、まだこちらにも勝機はございます。ノインの所在についても、敵の魔法士が知っているものかと……魔法士の脅威を知るのは、魔法士でございますから」
「……ノインを差し向けた砦からは、ベイルも姿を消している。あの男はいずれにしても、我らに協力する意思は無かったと考えられる。レーゼンネイア侵攻軍指揮官として、ベイルについては反逆罪を適用する。存命していたとしても、救出を考える必要はない」
造船所を兼ねた西の砦で指揮官を務めていたベイルを、アレハンドロはノインを遣わせて籠絡するつもりでいた。
アレハンドロは女性に興味を持たないが、ノインが男たちからどう見られているのかは理解している。壮年のリヒアルドは娘のようにしか見ていなかったが、ベイルは一度顔を合わせただけで、ノインに明らかな色目を使っていた。
安易な手段だったとアレハンドロは思う。だが、奪われたなら奪い返せば済むことだとも考えていた。
「ノインがもし敵軍に奪われたとしても、誰も『あれ』を御することはできまい。『あれ』は、私の命令のみを受け付ける契約に縛られている」
アレハンドロは人間を駒のようにしか捉えていない――常にそのような態度ではいないが、リヒアルドの前では本音を見せることがある。
「ノインが、敵軍に自ら潜り込んだということも考えられます。レーゼンネイアの民であったノインが協力を申し出れば、敵も疑いますまい」
「……そうだ。しかしそうでないとしても、ただで終わらせるつもりはない」
兵を退くとしても、爪痕を残す。アレハンドロは将軍に上り詰めるまで、無敗だったわけではない――敗北してもなお、次の勝利に繋がる傷を相手に残してきた。
それゆえの『鴉』。アレハンドロは無数の部下の死の上に立ち、それを糧にして最後に勝利を収めてきたからこそ、その異名で呼ばれている。
(……将軍はもう一度アイルローズを攻撃したとき、魔法士を排除する……あわよくば、ノインの奪還までを考えておいでになるだろう。それが済めば、この軍営を一度離れるつもりでいる。魔法士を排除するために犠牲を払ったとしても、陛下や他の将軍からの追及は最小限で済むはず)
ジルコニアはそれほどに、レーゼンネイアの魔法士を脅威と考えている。ジルコニアにも魔法士はいるが、戦闘魔法士ほどの力を発揮できる者はおらず、レーゼンネイアのような養成機関も存在しないため、後方支援である程度役に立つかどうかといったところだった。
「アイルローズの魔法士はもう一度、必ず現れる。わずかな異変も見逃すな」
「はっ。兵たちには、そのように……」
――リヒアルドが答えた瞬間だった。
鼓膜を揺るがすような音と共に、地面が、そして幕舎が揺れた。軍営がにわかに騒がしくなり、アレハンドロは剣を佩いて幕舎外に出る。
リヒアルドはすぐにその後を追わず、地面に倒れ伏しているレダに近づく。
「……リヒアルド様……私は……」
「何も言うな。アレハンドロ閣下はこのまま中央に戻れば失脚する。しかし、敵の魔法士さえ仕留められれば、そうはならぬかもしれぬのだ」
リヒアルドはレダを引き起こそうとするが、レダは助けを断り、自ら起き上がる。憔悴してはいるが、瞳の輝きは消えてはいない。
「……自分が魔法士を仕留めれば、叔父上は……あの男に成り代わることができるのですか……?」
レダの言葉に、リヒアルドは背後を振り返る。幕舎の外に出たアレハンドロが戻る様子はない――ただ、外から声が聞こえてくる。
この軍営が敵に攻められることなど、想定の外だった。アレハンドロはレーゼンネイアが攻撃命令を出さないと確信しており、それに準じて策を練っていた。
アレハンドロがレーゼンネイアに内通者を持っていることは、リヒアルドも察知していた。だからこそ、副官の立場であり続けることに疑問を覚え始めていた――敵に通じているということは、勝っているならばいいが、負けたときには戦犯とされるほどの急所となる。
「機会をうかがうのみで良い。もし魔法士を見つけることができたら、その時は……ノインは殺すな、可能な限り捕らえねばならん」
レダが頷くと、アレハンドロが呼ぶ声がして。リヒアルドは幕舎の外に出ていく。降り注ぐ雨の中で、軍営東側の防壁から黒い煙が上がっていた。
すでに火は消えているが、被害は甚大だった――木製の防壁が広範囲に渡って破壊され、櫓も一つ壊されている。
「これは……一体、何が……」
「運河に軍船が現れ、東方向より砲撃! 大砲によるものと思われます!」
「馬鹿を言うな、大砲など使えるものか! この雨の中で……!」
リヒアルドは激昂するが、アレハンドロは動じていない。伝令の兵を呼びつけ、鐘を鳴らさせて、混乱する兵たちの動きを止めさせる。
「――軍船に対し、投石機と弩で牽制しろ。大砲をこれ以上使わせるな!」
「っ……閣下、軍船から兵が上陸すれば、軍営への侵入を許すことになります!」
「その予測こそが敵の狙い。あれが陽動であれば、敵はどこから来る……西の平原だ」
「では……全軍に告ぐ! 出撃準備が整い次第、正門より出て陣形を組め! レーゼンネイア軍はそちらから……」
リヒアルドが指示を出そうとした瞬間だった――『軍営の北側』から、兵たちの悲鳴のような叫びが聞こえた。
「敵襲、敵襲ぅぅぅっ! すでに、すでに、北に敵軍が回り込んで、丘から……っ、ぐぁぁっ……!」
空から、矢が降り注ぐ――軍船から射手が降りてきたわけではない。
全方位に対して常に見張りがいるにも関わらず、敵の部隊が軍営の裏に回り込んでいる。雨に紛れても、そのような行軍は絶対に不可能なはずだった。
「――アレハンドロ将軍っ!」
アレハンドロは突き動かされるように、近くにいた愛馬に跨がり、軍営の正門に向かう。
叩きつけるようだった雨が、上がり始める。この雨が魔法によって降ったものなのだと、アレハンドロはようやく気がつく――ノインが、自分に敵対しているのだと。
「――うわぁぁぁぁぁっ!!」
「い、いつの間に出てきたんだ……っ、うぁっ、うぁぁぁっ!!」
正門方面の見張り番が、泣き叫ぶような声を上げる。黒雲が割れ、合間を抜けてきた陽射しを、アレハンドロは呪いのように感じた。
――正門が、破城槌で突き破られる。破壊された正門の残骸の向こうに、アレハンドロとジルコニアの兵たちは、悪夢のような光景を見た。
見えるのは、陣を組んだレーゼンネイアの兵たちと、空にはためく旗。
「……アスティナ……レーゼンネイア……」
混乱する兵士たちの怒声の中で、アレハンドロに追いついたリヒアルドは、確かにその呟きを聞いた。
剣姫将軍が、攻勢に転じた。雨が上がった途端に、突如として姿を現したアイルローズ騎士団は、すでにジルコニアの軍営を完全に包囲していた。
※いつもお読みいただきありがとうございます! 更新が遅くなり申し訳ありません。
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