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第八十六話 雨の気配

 半刻ほど経って少しだけ月が動き、窓から差し込む光の加減が変わる。


 俺も休息を取る必要があるとラクエルさんたちが気遣ってくれて、プレシャさんをそっと俺の膝の上から下ろそうとする。するとプレシャさんの睫毛が震えて、目が薄く開いた。


「ん……」

「すまない、起こしてしまったか」

「ふぁ……あ、あれっ? あたし、いつの間に……グラス先生、それにみんなもっ……!?」


 プレシャさんは慌てて身体を起こす。そして俺が近くにいることに気づくと、ベッドの上にぺたんと座り込んで、髪を慌てて直したり、居住まいを正したりする。


「貴方ったら、この部屋にグラス先生のベッドを置きたいなんて言い出すんですもの……なんとか騎士長に対抗することだけ考えていたのではなくて?」

「そ、そんなこと……あたし、先生が来るなんて思ってなくて、もし来てくれることになるんだったら、部屋を片付けようって思ってて……」

「……やはり、変わりつつはあったのだな。グラス殿が来てから、よく笑うようになった」


 ラクエルさんに言われて、プレシャさんは口をぱくぱくと動かす――その顔は真っ赤で、ディーテさんは口元を押さえて楽しそうにする。


「これからは、もっとプレシャと親しくなれそうですわね。騎士に馴れ合いは禁物とも、訓練校では言われたものですが」

「……あたしは、ラクエルねえのことはずっと尊敬してるけど……ディーテさんだって、ちゃんと仲間だと思ってるよ?」

「ええ、私もですわ。認めてもらえるっていいものですわね」

「プレシャ、ラクエルねえというのは……」


 ラクエルさんはその呼び方が恥ずかしかったのか、訂正しようとする。しかし俺の方をちら、と見やると、こほんと咳払いをした。


「……細かいことは、今は良いか。プレシャ、身体の具合はどうだ?」

「え……う、うん、凄く元気だけど……あれ……?」


 ラクエルさんは目を見開く――プレシャさんの頬に、一筋の涙が伝ったからだ。


「……あたし……何か、すごく長い夢を見てたような……っ、ラ、ラクエル姉……?」


 プレシャさんに近づくと、ラクエルさんは彼女を正面から抱きしめた。そうせずには居られなかったという想いが、見ているこちらにも伝わってきた。


「これから見る夢は、未来のことであるといいな。プレシャ……」

「……うん。あたしも、そう思う。大人になったら、夢ってそんなに見るものじゃないかもしれないけど……」

「何を言ってるんですの、その若さで。貴女もグラス先生にお花をもらって、時には良い夢を見て眠りなさいな」


 レスリーが俺の方を見て小首を傾げる――お花とは何か、というように。俺は花の球根を取り出すと、呼びかけて花をつけてもらった。


「これが『夜忘花ナイトフラウ』です。もし皆さんの部下に不眠の方がいたら、これを枕元に置くなどしてもらえると、寝付きが良くなって、眠りも深くなると思います」

「……愛らしい花だな。これをグラスが、ディーテに……」

「グラス先生も隅におけないよね。そういうことばかりしてたら、レスリーも落ち着かないんじゃない?」

「っ……わ、私は……グラス先生に、注意をできるような立場じゃ……」

「『レンドルさん』としてよりも、『レスリー』のあなたがお目付けをしていると分かったほうが、グラス先生は気が引き締まりそうですわね」

「ま、まあそれはそうなんですが……とにかく、不眠は万病の元になります。そろそろ朝に備えて、皆さんも休まれたほうが良いと思います……な、なぜ笑うんですか」


 ラクエルさんとプレシャさんが揃ってこちらを見て笑っている。ディーテさんとレスリーまで――笑うのは良いことだが、こうも微笑ましいものを見るようにされると落ち着かない。


「召喚主さま、顔が真っ赤なのです。照れてる、っていうのですか?」

「……きっと、そう。見ているだけで、少し楽しい」

「ルーネとレイまで……心配してくれたのはいいけど、子供はそろそろ寝る時間だぞ?」

「今日は、召喚主さまと一緒に寝たいのです! 大事な戦いに備えるのです!」


 夜が明ければ、アスティナ殿下は決断を下す――動くべきときは、いつなのか。


 専守防衛に徹していた今までとは違う。こちらから打って出て、ジルコニアの拠点を攻める――ラクエルさんたちも最前線で戦うことになるだろう。


 俺たちに何ができるのか。改めて、話し合っておく必要がある――植物、空気、水の三つの精霊が揃うことで、何ができるのか。それを、最大限に模索しなくては。


 ◆◇◆


 衛生兵の居館に戻り、自室の扉を開ける。すると、机に向かっていたノインが立ち上がり、こちらにやってきた。


 ノインは支給された就寝着に、湯上がりに底冷えしないようにと貸し出されたガウンを羽織っている。水の精霊使いである彼女は、湯浴びをしたあとの髪の水気を魔法で飛ばすことができるようで、その髪はさらりと乾いていた。


「グラス様、申し訳ありません……部屋を出ずにお待ちしようと思っていたのですが、沐浴の準備ができたと衛生兵の方が呼びに来られて……」

「ああ、それは全然問題ないよ。湯冷めしないように、できるだけ温かくしておいてくれ……ええと、それよりもまず……」


 ノインは紐で髪を束ねていて、いつもと違う印象に見える。それに加えてあろうことか、俺がカルテを見るときなどに使っている眼鏡をかけていた。


「ノインさん、それはグラス先生のものなので、勝手に使うのは……」

「あ……ご、ごめんなさい。この部屋は少し明かりが弱いから、眼鏡を使わないと文字が見にくくて……」


 ノインにも俺の軍医としての業務を補佐してもらうことになっているので、俺が自分で執筆している途中の、応急手当や介護についての『手引き書』を読んでもらうことになっていた。


 魔法士として貢献してもらうことが優先なので、実際に助手としての勉強をしてもらうのは先になると思っていたのだが。ノインは眼鏡を外し、俺に返すと、何かくすぐったくなるような目を向けてくる。鈍い俺でもわかる、それは尊敬の視線だった。


「この本をグラス様が書かれたなんて……文字も丁寧で読みやすくて、読むほどに頭に染み込んでくるような内容だったわ」


 ノインは気持ちが高揚しているようで、元の彼女らしい口調が混じる。俺からしてみれば彼女は学院の優等生で、先達と言っていい存在なので、敬語よりも対等な相手として話してくれる方が落ち着くものがある。


「内容が濃いから、この続きはしっかり時間をかけて読ませてもらいたいけれど。戦いに出れば、『絶対』ということはないわ」


 絶対生きて帰れるということはない。それを言うノインの瞳には、無視できないほどの諦観がある。


 ――最後くらいは、自分の思うようにして死にたい。


 ――私のことを何でも言うことを聞く『女』としか見ていなかった連中に、私が道具でないことを教えてやるのよ。


 あの時はまだ、ノインは冥霊によって命を蝕まれ、自分の意志に反してジルコニア軍に従わされていた。


 彼女がどんな思いを味わったのか、俺に全てを知る権利はない。


 ノインの言葉に悲壮さはなく、この戦いで何が起きたとしても、それを受け入れる覚悟を決めているように見えた。


 だから、今のうちに手引き書を読んでおこうと思ったのなら。俺はプレシャさんと同じように、ノインにも伝えておかなくてはいけない。


「絶対はない……確かに、戦いはそういうものだと思う。それでも死んでいいと思って戦うより、生きたいと思って戦うほうが、生き残る可能性は上がるはずだ」

「……グラス兄の、言う通りだと思う。みんなで同じ方向を向かなきゃ……だから、ノインさんも……」


 レスリーの言葉に、ノインはしばらく答えずにいた。それは理想論だと言われてしまっても、おかしくはないと思った。


 ――だが、違っていた。ノインはふう、と息をつくと、肩に入っていた力を抜いて、表情を和らげる。


「……そんなふうに言ってもらうのは、初めて。宮廷魔法士は、命を落とすとしても王国のために笑って死ねと言われていたから」


 時に兵を率いることもある宮廷魔法士――彼らは王国における魔法士の頂点に位置し、大きな権限を与えられるが、同時に責務を負っている。


 俺は宮廷魔法士の末席に加わっただけで、最上位の魔法士たちのことは知らない。義姉さんは俺に死を覚悟しろとは言わなかったが、覚悟して当然と思っている人もいるということだ。


「……一軍を相手にできるような魔法士は数えるほどしかいないのに、使い捨てるような扱いをするんだな」

「宮廷魔法士の中でも、階梯によって立場は明確に分かれているのよ。第十三階梯以上は、国王陛下の勅命以外は強制されなくなる……私に冥霊を宿したヨルグ・フロストは、その段階には一つだけ届かない」

「十三階梯に入るために……もしくは、宮廷魔法士としての地位を上げるために、第二王妃に取り入ったということ……?」


 レスリーの推論を、ノインは肯定も否定もしなかった。ノインもヨルグの行動原理が、権力欲にあると考えてはいるのだろう。


「そのために、新しく加わったばかりのノインを……」

「……私も、宮廷魔法士になることに憧れていたから。それを言い訳にすることはできないけど、思考停止をしていたのよ。より上位の魔法士に従うことが、国のためになることなんだと……そう思って……」


 ノインは自分の身体を抱くようにする。水色の髪が顔にかかり、瞳を覆い隠す。


 彼女はこの国のためになると信じて、ヨルグや第二王妃の私欲を満たすために従わされていた。


 毅然と振る舞っていても、過去の出来事が消えるわけではない。憎しみと、後悔――それは繰り返し人の心を苛み続けてしまう。


「……辛いことがあったのなら、いつかグラス兄に話せるといい。私でも、他の誰かでもいい……この騎士団のために頑張ろうと思ってくれているなら、私たちは……」

「そうだな……俺たちは、仲間だ。耳触りがいいことを言ってると、そう思うかもしれないけど……」


 声をかけると、ノインは何も言わずに俺の手を取る。冷たい手――だが、触れているうちに徐々に熱が戻ってくる。


「……『重い』女が、これ以上増えても困るでしょうけど……命を賭けるのなら、あなたと、あなたの守りたいもののためがいい」


 気がつけば、ノインの身体の震えは止まっていた。


 医術や魔法を使うだけじゃなく、他にも医者ができることはある。ノインが俺を拠り所にするというなら、俺はしっかりと地に足に着けて立たなくてはならない。


「……重いって……もしかしなくても、私のこと?」

「い、いや、俺はそうは思ってないんだけど……ノインだって重いというわけじゃなくて、その、何というか……」

「同性同士では、思うところがあるのよ。勘が働くというか……私も生きて戻って、もっとレスリーさんとは色々なことを話したいわね。主にグラス様のことを」


 また俺に対して敬称を使う――それは俺に対して、過剰に感謝を示すためではなく、彼女がそうしたいからしているようだった。それはそれで、落ち着かないことこの上ないのだが。


 ◆◇◆


 やがて、朝が来る。


 俺は殿下の侍女たちから呼ばれて、朝食のあとに一人で殿下の居館に向かった――まだ殿下の『霊導印』を完成させたばかりなので、状態を見てほしいという。


 ソアラさんとカリンさんは、俺を殿下の部屋に招き入れると、自分たちは退出していった。魔力の流れを見て欲しいと言って、殿下は背もたれのない椅子に座り、俺に背を向けて服をはだける。必要なことではあるのだが、緊張しすぎて、自分でもどう頼んだか自覚ができていなかった。


「……グラス。私はジルコニアを攻める前に、ウェンデルの街の議場に赴き、町長と話をします。昨日の夜のうちに、ラインフェルト家にも使いを出しています」


 ラインフェルト家――西方領の農民を束ねる豪族。その家長であるハルトナー氏は病に臥せっていたが、俺がルーネを派遣して治療し、今は容態が大きく改善している。


 この状況でジルコニアを攻めるとなれば、ラインフェルト家の立場としては反対ということになるかもしれない。その状態で攻撃を強行するのではなく、殿下は義理を通しておくべきだとお考えなのだろう。


「かしこまりました。正午に軍議を行うとおっしゃっておられましたが、それまでには戻られるのですか」

「そのつもりです。理解を得るための努力はするつもりですが、説得に時間がかかる場合は、要塞に戻る時刻が遅れるかもしれません。それでも、夕刻までは遅れないと思います」


 俺は話を伺いながら、殿下の肌には触れず、魔力の流れに滞りがないことを確認した――だが、体中にくまなく描き込まれた霊導印が、殿下の魔力にひとりでに反応している。


「……どうですか? 少し、眠っている時に身体が火照るのですが……」

「殿下は本当に、膨大な魔力を生み出されておいでです……神樹はこの西方領に『根』を広げ、殿下の魔力を供給されて活性化しています。そうしてもなお、余剰の魔力があると考えられます」

「そうなのですね……グラスから手ほどきを受けて、魔法士としての修練を積めば、もう少し抑えられるのでしょうか」

「わ、私が殿下に手ほどきをするというのは……その、大変恐れ多いことです」


 俺は精霊魔法の基礎は学んでいるが、実技からはほぼ我流で身につけた。そんな俺が人に教えたりしたら、変なくせがついてしまわないだろうか。


 しかし殿下は、肩越しに俺を振り返ったまま、何か言いたげにされている。はだけた胸元をしっかりと手で隠されているので、身体を捻っても危ういことはないが――それとは別の理由で、床に手を突いて謝罪したいような気分にさせられる。


「……私には、グラスに教えてもらっても無理なのですか?」


 殿下がそんな表情をされるとは想像もしていなかった。拗ねている――いや、俺が頼みを聞かないことを、不服だと思っておられるのだろうか。


「そ、そんなことは全くございません。魔力を身体の強化に使うことができて、さらに霊導印を持っている方というのは、他にいらっしゃらないとは思いますが……」

「無理ではないのなら、教えなさい。この戦いが無事に終わったらということで構いません」


 柔らかい口調で、けれどきっぱりと命令される――頭ごなしに言われるよりも、よっぽど俺はこういう形に弱い。


「……戦いが終わった後の約束事をするのは、無責任だと思いますか?」


 殿下も戦いに臨むときは、覚悟をしている。どれだけ超然として見えても、殿下は自分が生き残ると確信しているわけでも何でもなく、不安を覚えてもいる。しかし、それを殿下は決して部下たちの前で見せることはないのだろう。


 俺には、見せてくれている。それを光栄に思うより何より、殿下のお心に応えなくてはならない。


「いえ。僭越ながら、ぜひ俺からもお願いさせていただきます。殿下に、精霊魔法の基本的な部分をお教えさせてください」

「……はい。ですが、こちらからお願いしているのですよ。そんなにかしこまる必要はありません。グラスが先生なのですから」


 服を元通りに着直すと、殿下は立ち上がる――窓から差し込む日の光の中で、鎧を身に着けていない彼女の立ち姿は、どこまでもたおやかだった。


 そして殿下は窓に近づいて空を見ると、俺の方を顧みながら言った。


「今日の夕刻までには、雨が降ります。この要塞の周囲に……そして、ジルコニア側にも」


 殿下の言葉は、ジルコニアへの攻撃が、今日決行されることを示唆していた。


 抜けるように青い空に、雨の気配は感じない。しかし殿下の言葉ならば、間違いはない――それは、巫女としてのアスティナ殿下が受けた、ユーセリシスの神託そのものだからだ。


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