第八十五話 夜明け
プレシャさんの記憶を見ているうちに、分かったことがある――彼女の心は、俺に出会う前には、すでにある程度癒やされていたのだということ。
それでも彼女が悪夢に苛まれるのは、なぜなのか。理由は一つだった。
姉のような存在のラクエルさんに出会い、志に共感する主君と出会っても、彼女の中にある罪悪感を消すことはできなかったのだ。
あの日、村の外に出なければ。母親を守ることができていれば――。
失われた命を呼び戻す方法がこの世のどこかにあるのだとしても、俺は知らない。そんなことができる精霊がいるなんて、聞いたことがない。
それなら、俺に何ができるのだろう。俺はただ人の夢に入り込んで傍観しているだけで、まだ何一つ医者らしいことなんてできてない。
(……召喚主さま、プレシャお姉さんは、ずっと同じ夢を繰り返してるのです。それはきっと、辛いことを思い出したら、嬉しいことも思い出さないと、心が壊れてしまうからなのです)
プレシャさんの夢と、俺の意識を繋いでくれているルーネが語りかけてくる。
ルーネの言う通りなら、それはどれだけ悲しいことなのだろう。
まだ、俺には何が答えなのかが分からない。何をすれば、過去に囚われた心を自由にすることができるのか。
プレシャさんの記憶が流れていく。アスティナ殿下の遊撃隊に参加し、彼女はアルドローン渓谷に入る――同行しようとする部下に、無駄死にをすることになると制して、三人の騎士だけが先行し、突破を試みる。
渓谷道には、騎兵対策として馬防柵が敷かれている。グルニカ都市同盟にとって、この地は難攻不落の要害であるはずだった――『通常の騎兵』が相手ならば。
「――はぁぁぁぁっ!」
ラクエルさんが馬上槍を振るい、馬防柵を薙ぎ倒しながら進んでいく――その光景は、まるで竜巻でも通り過ぎているかのようだった。
戦場に、鐘の音が響く――降り注ぐ矢に、ラクエルさんの馬が大きないななきを上げて半身を立ち上げてしまう。
「何をしている……後続の、弓騎兵は……っ」
「――ラクエル、槍を持ち替えてください! 敵に気づかれるのが早い……これは……っ」
アスティナ殿下は降り注ぐ矢を細身の剣で防ぐ――このまま三騎で突破するはずだった彼女たちは、事態に気づいて馬を止めざるを得なかった。
「なぜ……国境の内側にまで、敵の弓兵が伏せている……プレシャッ!」
「――はぁっ!」
槍を一閃し、プレシャさんは後ろから飛んできた矢を叩き落とす。そう、後ろだ――彼女たちが通り過ぎた、渓谷を挟む崖の上から、敵の弓兵が射かけてきたのだ。
そして、振り返って見た光景に愕然とする。彼女たちに続き、後方から援護するはずだった部隊の姿はなかった――三騎の後に続いて敵の弓兵を牽制するための長弓部隊、そして弓騎兵が続くはずが、渓谷に入るどころか、退路を塞ぐような位置に陣取っている。
――後続部隊を率いているのは、ダドラムの叔父。その傍らに控えているダドラムは、アスティナ殿下の直属の部下だけを前に出させ、自分たちの役割を果たそうとはしなかった。
「卑劣な……貴殿らは、こんな時にまで下らぬことを……!」
「ラクエル、プレシャ、敵の攻撃を引きつけてください……っ、他の騎兵たちには、矢を防ぐことはできません! ですが、私たちなら……」
殿下を見殺しにしたと伝われば、ダドラム達は罪に問われる――それでもこんな愚行に出たのは、自分の命可愛さに保身に走った結果だろう。
それとも、カサンドラ第二王妃がすでに干渉していたのか。どちらにせよ、敵地で孤立した形にさせられたアスティナ殿下たちは、渓谷を出て生き延びることさえ難しいと思えた――しかし。
「――プレシャッ!」
降り注ぐ矢を打ち払い続けていたプレシャさんが、馬を駆けさせた――アスティナ殿下も、ラクエルさんも、彼女に追随できる状況にはなかった。
ラクエルさんが破壊した馬防柵地帯は、騎兵に対する抑止力の役割を果たさなくなっていた。敵の砦から出てきた騎兵たちは、それでも誰も自分たちのところに到達できないと踏んでいただろう――プレシャさんが降り注ぐ矢の中を駆けてくるまでは。
「なぜ矢が当たらん……っ、死にぞこないがっ……!」
「――やぁぁぁぁっ!」
血風が吹いた。空を裂くように長槍が繰り出され、敵の騎兵に一合も応じさせることなく、一人、また一人と討ち取っていく。
「――プレシャ、戻れ! 一人で突出するな、敵の砦に近すぎるっ……!」
ラクエルさんが叫んでいる――プレシャさんには、その声が届いていた。
「あたしは……もう……」
幾人もの騎兵の返り血を浴び、避けようのない矢を肩に受け、それでも彼女は前に進もうとする。
「……これで……終われる……」
「――うぉぉぉぉぁぁぁぁぁぁっ!!」
仲間の死を目にして激昂した騎士が、身を捨てて猛進してくる――矢を受けたプレシャさんの動きが鈍り、辛うじて捌こうとするが、握力が一瞬弱まって長槍が手を離れる。
敵の騎兵が雄叫びを上げる。その瞬間も、プレシャさんは恐怖を感じてはいなかった。
――しかしそれは、心を無にして、痛みも何もかも受け入れようとしただけだった。
「――お引きなさい、プレシャ!」
聞こえるはずのない声がした。
プレシャさんの身体が反応する。彼女が繰り出された敵兵の槍をすんでの所で避けた瞬間、一本の矢が敵兵の肩に突き立つ。
「ぐぁっ……!」
プレシャさんは敵騎から槍を奪い、馬上から突き落とす――それを力の入らない右手を使わず、左手だけでやってのけた。
援護の矢は、ディーテさんが放ったものだけではなかった――渓谷の南側、崖の上に並んだディーテさんの部下たちが、敵軍に向かって矢を降り注がせる。
「アスティナ隊長、ラクエル殿! 正騎士ディーテ以下五十余名、遅れ馳せながら馳せ参じました! これより指揮下に入ります!」
ディーテさんは南側の崖上に伏せていた敵の弓兵を、奇襲をかけたのか全滅させていた――北側の弓兵たちは、向かい側から飛んでくる長弓で牽制され、渓谷への攻撃の手を緩める。
プレシャさん、ラクエルさんだけではない――ディーテさんも、弓騎兵としては並ぶ者のない『猛将』だ。
援護を得たアスティナ殿下は、部隊員の百余騎に突破を命じる。それでも動かないダドラムたちは、もはや保身のために身を滅ぼした運命に混乱するばかりのように見えた。
殿下たちが生き残れば、彼らの裏切りは露見する。全体では千の兵であるはずが、殿下の指揮に従っているのは二百にも満たない――しかし、地形に頼った敵側の兵力はさほど多くはないはずだった。
「プレシャ、しっかりしろ! すぐに傷の手当をする……もう少し、もう少しだけ耐えるのだぞ……っ!」
ラクエルさんが追いつき、プレシャさんはその後をついて、片手で手綱を引いて馬を走らせる。アスティナ殿下や他の騎兵も追いつき、無事に渓谷を抜ける――そして。
渓谷に目を光らせ、国境の要衝を押さえているとされた敵国の砦は、石壁ですら突き壊すラクエルさんの馬上槍による突撃を受け、レーゼンネイア軍の侵入を許した。
侵入されることを想定していなかった砦は脆く、渓谷を突破して一刻の後には、砦にレーゼンネイア王国の旗が上がった――アスティナ殿下と三騎士が揃っての初めての戦いは、勝利という形で幕を閉じた。
◆◇◆
アルドローン渓谷の砦をレーゼンネイアが占領したことで、グルニカ都市同盟は大きな打撃を受けた。
何度も砦の奪還を試みて成らず、度重なる交戦で疲弊しきった都市同盟は、市民の不満を抑え込むことができなくなり、レーゼンネイアに有利な条件で停戦を申し入れ、受け入れられた。
都市同盟の軍備縮小を停戦条件にしたことで、東方方面軍もまた縮小され、『東方守護』と名を変えはしたものの、軍人たちは中央に戻るか、他の戦場へと赴くことになった――それが原因で都市同盟の強硬派による奇襲を受けることにもなるが、そのときアスティナ殿下はすでに東方戦線で上げた勲功を理由に、西方戦線に転属し、アイルローズ要塞の守将を任じられていた。
女性だけのアイルローズ騎士団。それは、アスティナ殿下の部下を志望した騎士や兵たちが、皆女性であったことを意味している。
男性騎士たちは、『女性の指揮官』を受け入れられなかったのだ。しかし王女でありながら前線で剣を取って戦うアスティナ殿下の姿は、女性騎士や兵たちには熱狂的に支持された。
正騎士となったプレシャさんは、攻撃隊長に任じられ、領内の暴動鎮圧、そしてジルコニア帝国の侵入に際して、獅子奮迅の活躍を続けた。
アスティナ殿下への尊敬、ラクエルさんへの憧憬。ディーテさんとの友人関係――そして、プレシャさんの強さを慕う要塞の兵士たちとの交流。
その全てが、プレシャさんにとって心地の良いものだった。
しかし夜になれば。母親の残した人形を抱いて眠り、悪い夢にうなされ、近づく人を拒絶せずにいられなくなる。
暗闇の底。いつもプレシャさんはこんな場所で、罪の意識に苛まれ続けている――俺の眼前に見えているような、彼女の母の姿を見せられることで。
『何が悪いの? この子は私のもの。自分の娘を大切に思うのは、当然のことでしょう』
罪の意識という名の病巣に宿り、プレシャさんを蝕む霊――それはもはや、冥霊と同質のものに他ならなかった。
ノインに宿されていた冥霊を目にしてもなお気づかずにいたのは、プレシャさんが全てを受け入れようとしていたからだ。母の姿をしたものを、彼女は否定することができなかった。
そんなプレシャさんの心を、俺は心から尊敬し――その苦しみに付け込む何もかもから、救いたいと思う。
『それなら、あなたが返してくれるの? 私が娘と一緒にいるはずだった時間を』
『……それは、できない』
プレシャさんの母親の姿をした冥霊が、笑う。俺の無力を嘲笑っているのだ。
『この子は渡さない。私の可愛いプレシャ……永遠に幼いままで、私と同じ所に行くのよ』
(召喚主さま……っ、プレシャさんに悪夢を見せてるものが、きますっ……!)
『っ……!』
冥霊が姿を変える――人を模した姿が、見る間に変わり果てていく。
黒い蛇。ノインを蝕んでいたものと似て非なるそれは、子供のままの姿をしたプレシャさん――彼女の精神そのものに絡みつき、その首筋に食らいついていた。
『くぅ……うぅっ……おかあさん……ごめんなさい……たすけられなくて……』
『……こんなふうに……人の心に潜んで、苦しめて……何年も……!』
彼女がこれほど苦しんでいい理由など、あるはずがない。騎士として戦い、この国を守り続けてきた――戦う力を得るために、血の滲むほどの努力をして。
『あなたもこの子と一緒に……ここで、永遠に眠りなさい』
(――召喚主さまっ、逃げてっ……!)
プレシャさんを縛り付けている黒い蛇が、俺に向かって牙を剥く。
ルーネに心配をかけるとは分かっていたが、俺はあえてそれを腕で受けた。夢の中でも突き立つ牙の痛みは変わらず、むしろ現実より激しい苦痛を味わう。
『ぐぅっ……あ……あぁ……』
『……馬鹿な子。この人間を捨てて逃げていれば、苦しまずに済むのに。なぜ人間は、いつも無駄なことばかりするのか』
プレシャさんの母親の模倣をやめた冥霊の声は、ひどく耳障りなものだった――何重にも聞こえて、人の喉から出る音をしていない。
(召喚主さまっ……召喚主さまをいじめるなら、私が相手にっ……)
『大丈夫だ……こんな痛みは何でもない。大したことはない……』
悪夢とはいえ、流した血はそのまま死に直結する。精神が血を流すというのは、魔力を失うことと同義だ。
『これで痛みを分かったなんてことはない……ただの一部だ。プレシャさんが味わってきた苦しみの、一欠片も知っちゃいない……』
『当たり』の精霊を引いたら軍属の魔法士になる。俺はそれを当たり前のように考えてきた――そして、そうならなかったことに一度は失望もした。
『はずれ』の精霊を引いたと、自分を不幸だと思った一瞬さえも、今は恥じるべき過去でしかない。
俺は学院という安全な場所で、戦火に怯えることもなく学ぶことができた。プレシャさんは、そんな俺が当たり前だと思っていたものさえ与えられなかった。
『俺は馬鹿だ……大馬鹿だ。プレシャさんが俺を先生と呼んでくれても、それを当然のことみたいに受け入れてた。俺は……俺は、彼女に先生なんて呼ばれる資格は無かったのに……っ、魔法を使って結果を出したからって……それだけで、偉くなったつもりで……っ』
彼女と同じように戦えているつもりになっていた。剣も槍も使えなくても、魔法で役に立てているんだと。
俺のことを認めてくれたこと、それだけで満足していた。違和感を覚えていながら、それを確かめることをしないでいた――彼女がこうして苦しんでいる間も。
『……おか……さ……だめ……私、だけ……その、人は……』
途切れ途切れに聞こえる声。これほど苦しくても、彼女は助けを求めない。
痛みよりも、苦しみよりも、彼女が享受すべきものがある。
そのために――冥霊の牙による毒を、浄化する。
『何を……しようとしているの? 私をこの子から引き剥がそうとしても、そうはいかないわよ。私の牙が深く刺さっているのだから。このままいずれ、この子は死を迎える……邪魔をしないでもらえる?』
人の心を蝕む毒。通常の医術では、その特効薬などは存在していない。長い時間をかけて癒やし続ける、それしか方法がないとも言われている。
だが、それが精霊の一種によってもたらされるものならば、話は違う。俺は『精霊医』――精霊のもたらす病理なら、癒やすことができるはずだ。
『俺にも牙を打ち込んで、それで終わりと思ったかもしれないが。医者が蛇に噛ませるには、意味がある……ルーネ! 俺の中にできた毒の抗体を抽出してくれ!』
(っ……抗体……ご主人様が、毒を戦おうとする力……レイも来て欲しいのです、ふたりでご主人様のお手伝いをするのです!)
『待ってた。私にも、できることがあると思ったから』
アルラウネによって夢の中に引き入れられ、レイが姿を現す――全ての瘴気を飲み込み、自らの力とする『魔蔘マンドレイク』。その力を持ってすれば、抗体を作り出してなお俺の中に残った毒を吸い出すのはわけもないことだった。
『……抗体を作る前に、毒が回ったら危なかった。召喚主さまは、無茶をしすぎ』
幼い少女の姿をしたレイに、きっ、と睨まれてしまう。しかし心配をかけたことを謝るのは、全てを終わらせたあとだ。
『毒の抗体……そんなものを作り出したところで、私をこの子の心から消すことはできない。ずっと一緒……プレシャが全てを壊してしまうまで、見守っていてあげないと』
最後まで演じ続けるのか――それとも、これはプレシャさんの願いなのか。どんな形でも母親に生きていて欲しいという願いが、この病を生んだのか。
そんなプレシャさんの優しさを、尊いと思う。だが、もう終わりにしなければならない――それが理想で、ただの決めつけだと言われても、俺はプレシャさんの母親が娘を苦しめようとしているなんて思わない。
『これ以上、いなくなった人を侮辱するな。プレシャさんの母親は、そんなことは絶対に言わない……!』
『……駄目……お母さんが、死んじゃう……私は、もう……』
『――駄目なんかじゃない! 何もかも、遅いなんてことは決してない!』
レイの力で、俺の動きを縛る毒が消える。次の瞬間、俺の腕が輝きを放つ――『巫女』である殿下を介して繋がった神樹が、俺の召喚に応じたのだ。
――我が枝に住まいし宿樹よ。契約者の右手に宿り、その目に映る全ての穢れを祓わん――。
俺の腕に、神樹との契約を示す印が浮かび上がる。嵐のように襲いかかる、プレシャさんを縛り付けていた黒い蛇――恐れることは何もなく、右手を突き出す――腕全体から生じたヤドリギの蔦は、黒い蛇の動きを阻害し、絡みついて、力を吸い上げて枯らしていく。
『――あぁぁっ……あぁ……消える……消えて、しまう……』
『だめ……っ、消さないで……私から、お母さんを……っ』
『――前を見るんだ、プレシャ・ホルテンシア! 貴女が自分の手で手に入れたものは、貴女自身が認めなければ価値かないんだ!』
俺の言葉が届いたのか、それとも、ミストルティンの力か。
幼い姿のプレシャさんの精神体が、冥霊の束縛から開放される。しかし分離した冥霊は、まだプレシャさんに再び取り憑こうと彼女の周囲を飛び回る。
『召喚主さま……っ、あの敵をこの場に留めているのは、プレシャさん自身なのです。プレシャさんが、自分で勝たなきゃだめなのです……っ!』
ルーネは地面から自らの分身である花を生じさせ、プレシャさんを守ろうとする――しかしルーネの言葉通りに、冥霊は弱まるどころか、力を再び増していく。
今の幼い姿では、プレシャさんに勝てというのは不可能にも思えた。
『だが、それなら……俺が力を貸す。患者が治るために手伝いをするのも、俺の仕事だ……ミストルティン!』
最後の賭けだった。もう一度プレシャさんが取り憑かれる前に、彼女自身が、冥霊を打ち倒さなくてはならない――そのために、ミストルティンの力を貸す。
『……あ……』
蹲っていたプレシャさんの腕に、淡い輝きを放つヤドリギの蔦が絡みつく。
ミストルティンは、プレシャさんの心に従う。『生きたい』という感情に。
黒い蛇が牙を剥き、プレシャさんに襲いかかる。それを彼女は――両手を開いて、自ら受け止めた。
『プレシャさん……っ!』
『……大丈夫なのです。召喚主さま……プレシャお姉さんは……』
アルラウネの方が、何が起きたのかをよく理解していた。自分の心に毒牙を突き立てていた冥霊を抱きしめ、プレシャさんはその右腕に纏わせたミストルティンに囁きかける。
『……お母さん、ごめんなさい。あたしは……』
ミストルティンが輝きを増す。消えかけていた冥霊に、神樹の眷属が持つ、途方もない浄化の力が注ぎ込まれる。
『――あぁぁぁぁぁっ……ぁぁぁぁぁ……!』
悲鳴は途中から、人あらざるものの発する音に変わり――そして、消えた。
力尽き、倒れこむプレシャさんの身体を、アルラウネの生じさせた草が受け止める。俺は駆け寄り、その時初めて、プレシャさんの心に残った傷痕を目にした。
『……先生には……見せたくなかったな……あたしの、一番醜いところ……』
醜いなんて欠片も思わない。しかし、すぐに言葉が出てこない。
今はただ、医者としての務めを果たすことしかできない。ぼろぼろに擦り切れ、首の牙痕が大きく残ったプレシャさんの心の姿が、あまりにも儚く見えたから。
『……この血清で毒が消えます。プレシャさん……どうか、受け取ってもらえますか』
プレシャさんは頷く。そしてルーネは、彼女の身体を抱きとめた植物から花を芽吹かせる――花びらに生まれた露を、俺はプレシャさんの口元に運ぶ。
毒から作り出されたとは思えないほど、透明な雫――抗体は、プレシャさんの心を冒していた毒を消し去っていく。
『……ありがとう、先生……』
声が聞こえる。プレシャさんの夢から、意識が急速に離れていく。
最後に聞こえてきた声は――いつかの、俺自身のものだった。
――プレシャさんは、化け物なんかじゃない。
彼女がその言葉をどう思ってくれていたのか、今は分からない。そこに嘘などないと彼女に伝わっていてくれたらと、今はただ願った。
◆◇◆
月明かりが差し込んでいる。荒れ果てた部屋の窓は閉ざされていたはずなのに、今は誰かの手によって開けられていた。
――レスリー。フードを被って男装しているが、彼女が部屋に入ってきていた。
「……レイが、グラス兄が心配だって言うから。連れてきたら、少しして静かになって……入ってきたら……」
レスリーは何か、続きを言いにくそうにしている。心配して来てくれたのなら、部屋に入ってきたことも、咎められることではないと思う――のだが。
「……すぅ……」
(っ……!!)
寝息がすぐ近くで聞こえる――俺はいつの間にかベッドに座っていて、膝の上にプレシャさんがうずくまっている。
「い、一体これは……その、治療のために無我夢中で、無意識下の行動がだな……」
「それは、分かるけど……プレシャさんが悪夢を見てる時は近づいては駄目って、ラクエルさんたちが言ってた。でも、もう大丈夫みたい」
レスリーは微笑んで、こちらに歩いてくる。彼女は床の上に落ちてしまった人形を拾い上げると、優しく撫でるようにして埃を払った。
「大切なもの……ちゃんと、綺麗にしてあげなきゃ。許してもらわないと、できないけど」
「そうだな。プレシャさんが望むなら、直してあげてほしい」
俺は膝の上にいるプレシャさんに触れることもできない。ルーネは楽しそうに見ており、レイは少し物欲しそうにしている――自分もしてほしいというように。
「プレシャさんには、今日グラス兄の治療が必要だったと思う。いつも、生き急いでるみたいで……見てて、心配だったから。強い人だから、私が心配するのはおかしいのかもしれないけど」
「そんなことはない。歳が近いことだし、これからはもっと話したりできるといいな」
「……うん。私もプレシャさんが良ければ、話がしたい。ジルコニアのことが落ち着いたあとに」
俺たちが会話を始めたからか、ドアがノックされてゆっくりと開く。やはり心配で起きていたのか、ラクエルさんとディーテさんが部屋に入ってきて、眠っているプレシャさんを見て息をついた。
「……長く付き合いのある私でも、プレシャがこれほど人に気を許している姿を見たことがない。グラス、一体どのような方法で……いや、聞くのも野暮というものか」
「少し、羨ましい……い、いえ。不眠の解決方法としては、なかなか良い手段ですわね。プレシャったら、こんなに幸せそうな寝顔で……」
「……召喚主さま、お部屋に戻ったら、あ、あのっ、あのっ……」
「だ、だめ……私たちは、精霊だから、我がままは言っちゃ……」
何も駄目なんかじゃない。夢の中でも叫んだことだが、今の意味合いはこんなにも平和だ。
ルーネも、レイも。そして、騎士団の皆も――戦いの日々から離れ、穏やかな暮らしを送れるように。俺はこれからも、できる限りのことをしていく。
「二人とも頑張ってくれたから、遠慮することはない。精霊の頼みを聞くのは、精霊使いとして当たり前のことだ」
「わぁ……っ」
「……本当に……私、危ないのに……」
マンドレイクは扱いによっては危険な植物というのを気にしているのだろうか。何度も助けてもらっている俺としては、そんな心配は要らないのだが。
「……せんせ……」
まず当面の問題は、プレシャさんがいつ目覚めるかということなのだが――夜明けまで待たなくてはならないかもしれない。その時は二人きりというわけにはいかないので、ルーネとレイの二人に見ていてもらうしかない。
明日の軍議で、今後の方針が決まる。ラクエルさん、ディーテさんには十分に休んでもらわなくてはならない――レスリーとノインも。
そして、一つ確かめておきたいことがある。ミストルティンをプレシャさんに貸し与えた時の感覚――あれは、俺の魔法の新たな可能性を示唆するものだと思えた。




