第八十四話 集う四騎士
プレシャさんにとってアスティナ殿下は直属の上官ではあったが、これまで直接の言葉を受ける機会はなかった。
第三王女として周囲から常に注目されているために、アスティナ殿下は常に慎重な振る舞いを強いられていたからだ。
レーゼンネイア騎士団では、部隊長以上の指揮権を持つ騎士は、補佐役を務める副官を介して部下に指示を出すことが慣例になっており、特定の下位騎士と直接言葉をかけることは推奨されていなかった。
準正騎士は軍全体としてはエリートではあるが、個人の戦闘能力が高いために一般兵とともに最前線に出ることが多く、上級騎士の視点からすると未帰還となる可能性の高い部下となる。一人ひとりに思い入れを持つようなことがあれば、指揮の精度を落とすと考えられていたのである。
――しかし、アスティナ殿下は違っていた。慣習を破って上官の評価を悪くすることを厭わず、部下であるプレシャさんを案じてここに来たのだ。
いつも背筋がぴんと伸びているラクエルさんが、さらに姿勢を正して殿下に礼を示す。殿下は小さく手を挙げてそれに応じると、プレシャさんの入れられた独房の前に立った。
鉄格子ごしに、プレシャさんの霞んだ視線の先で、殿下が立っている。プレシャさんはその姿を神々しいと感じていた――しかし同時に、耳に囁く声が、思ってもみない言葉を口から出させる。
「……ここは、殿下の来る場所じゃありません。あたしは赦免されたいとは思ってない。あたしの村を売ったあいつらを殺せなかったことを、今でも悔やんでる」
「っ……プレシャ、殿下がどのようなお気持ちでここに来られたのか……っ」
「いいのです、ラクエル。プレシャの思いに気づかず、優秀な槍騎士として先陣を切り開くことをお願いしてきた……私は、プレシャの果敢さが頼もしいと思っていました。その槍が、どんな感情を込めて振るわれているのかも知らずに」
静かな光を湛えた殿下の瞳を、プレシャさんは何も言わずに見上げた。
ラクエルさんから、プレシャさんはアスティナ殿下の人柄について少しだけ聞かされていた。王女として生まれた彼女は、政略の材料にされて一生を終えることを望まず、祖国と自分の親しい親族を守るために、プレシャさんと同じ年齢で士官学院に入り、通常は四年かかるところを、半分の二年で全ての課程を終えて卒業した。
その絶世とも言われる美貌に、王国の王女を娶ることを夢見て、騎士団の幹部が幾度となく接触を図った――しかしアスティナ殿下は、決して彼らの思惑通りにはならず、『孤高の剣姫』という異名で呼ばれるに至るまで、個人の努力だけで戦功を重ねた。
プレシャさんにとって憧憬の対象であるラクエルさんの、さらに遠くに立つアスティナ殿下。しかし彼女もまた、保身のために民を捨てた貴族出身の士官を、決して罰することはできない。
アスティナ殿下は東方で戦功を立て、いずれは中央に戻る。元々前線にいること自体が例外なのだから、自分のように戦の中で一生を終える軍人とは違う。
「……あたしは憎いから、許せない奴を生かしておきたくないから戦うだけ。あたしたちの村を裏切った奴も、グルニカ都市同盟の奴も、何一つ変わらない。この国の貴族だっていうだけ、裏切り者の方が憎いくらい」
――優しいのね、プレシャは。あなたはお母さんの誇りよ。
――邪魔をする人は全て殺してしまいなさい。この綺麗な人にも、私たちの苦しみなんて、決して分かりは――
呪いのように、優しい声が聞こえてくる。無差別の殺意が、プレシャさんの中から沸き起こる――それは正義によるものでも、彼女の意志によるものでもない。
今の彼女では、どれだけ強くても、戦場で長く生き残れるとは思えない。この時から、レーゼンネイアに移ることさえできないように思えた。
なぜならプレシャさんの中には、他者から与えられたものとはいえ、目の前にいる殿下への殺意しか無いからだ。
アスティナ殿下も気づいているはずだ。なのに、彼女は。
ただプレシャさんの全ての感情を、ありのままに受け止めながら立っている。
「今のこの王国には、あなたの村が敵に襲われる原因を作った者たちを罰する法がありません。国王陛下が直々に処罰を決定しなくてはならない……ですが、騎士団から陛下に報告されるのは、戦いの勝利と敗北のみです」
当時は東方、南方の戦いが激しく、国王陛下は心労を重ねて病床に伏していた。かつてレーゼンネイアの太陽と呼ばれたバルトロメオ二十五世は、五十歳を過ぎて大病を患ったあと、無理の利かないお身体になったと言われている――公の場に出る機会は激減し、王の代理をカサンドラ第二王妃が務めることすらあった。
その国王陛下に、プレシャさんの村を陥れた貴族に対する処罰を上申する。それがアスティナ殿下にも不可能であることは、殿下の深い憂いを帯びた瞳が示していた。
王女と言っても、何の権限も持っていない。裏切り者を罰するつもりもない。プレシャさんはそのことに失望はしなかった。
プレシャさんのすり減った心に、黒い染みが落ちる。人としての精神が、蝕まれていく――。
「……敵に勝てばそれでいいのなら……それまでに、こっちの人間が何人死んだってかまわない。そういうことでいいんだ……?」
「プレシャ……ッ、アスティナ殿下の御前で、そのような……っ!」
「いいのです、ラクエル。私は、彼らを罰することができない……部下の無念を晴らすことすらできない上官に、統率者の資格はありません」
――騙されてはだめよ、プレシャ。この人は見せかけの言葉で、あなたを懐柔しようとしているだけ。
――王女は自由を求めている。あなたを都合のいい捨て駒にして、功績を上げたいだけなのよ。
「うん……分かってる……お母さん……」
「……プレシャ」
ごく小さな呟きだった。しかしそれを、殿下とラクエルさんが聞き逃すわけもない。
ラクエルさんは唇を噛んでいる。アスティナ殿下は彼女の様子を見やると、もう一度プレシャさんに向き直った。
(……駄目だ。これ以上、プレシャさんを放っておいたら……だが……)
過去だと分かっていても、願ってしまう。プレシャさんに絡みつくような黒い気配を、今すぐに拭い去らなければならない。
――しかし。その時点では封じられていたはずのアスティナ殿下の魔力が、僅かにその身体から溢れ出す。
殿下はプレシャさんがどれだけ拒絶しても、諦めることも、見切りをつけようとすることもしていなかった。それが良く分かる、慈愛を感じさせる力だった――魔力が溢れるようなことは、殿下の身体に大きな負担をかけてしまうのに。
「都市同盟との戦いは、ここ一ヶ月は膠着状態にあります……これ以上は双方の負担が大きく、講話の機会を模索する動きもあります」
「アスティナ殿下、恐れながら……現在の状況では、都市同盟に国境の要衝を奪われており、その状況を変えないことには、講話の動きは進まないかと……」
「……それは、状況が変わらなければです。一週間後の作戦について、先ほど東方方面軍総督殿が決定を下されました。都市同盟の体勢を崩し、我が軍の優位を示す……アルドローン渓谷に睨みを効かせている、敵の砦を攻めます」
アルドローン渓谷――それは、レーゼンネイアとグルニカの国境南部を東西に貫く『回廊』と呼ばれる天然の要害である。
冬季は降雪によって通行できなくなるが、今の季節から夏にかけては歩兵と馬で進むことができる。しかしグルニカ側は渓谷に隣接させて砦を作っており、国境が近づくと容赦なく矢の雨を降らせてくる。
しかし、アスティナ殿下とラクエルさん、プレシャさんほどの常識を覆す『猛将』ならば、騎乗したまま渓谷を駆け抜けることもできるだろう。
「アルドローン渓谷を我が軍の支配下に置ければ、グルニカ軍は何としてでも奪還しようとするでしょう。しかし私たちはあくまで遊撃隊……我が本隊が動かなければ、彼らも渓谷に兵を割くことは難しい。今は彼らが有利な地形にいるため、今のような兵員の配備で済んでいるのです」
こちらが渓谷に砦を作ろうとすれば、敵は妨害に出てくる。しかし、こちらからは攻められない――渓谷が戦略上で重要な場所となると考えず、拠点を作らなかったこちらの先見が甘かったといえる。
アスティナ殿下ならば、国境周辺の地形図を見ただけで、どこを押さえなくてはならないかを判断できるはずだ――彼女は神樹と契約する前から、戦局を見通す力があったのだから。
話を聞いていたプレシャさんは、これから自分が何を言われるのかを予測していた。
牢にいる自分に、殿下が罰を与えに来たのだ。そしてそれはプレシャさんにとって喜ぶべきことだった。裏切り者を罰することと、敵兵を斬ることは、彼女にとって等価だからだ。
「……あたしが、切り込んで……道を切り開けば……」
プレシャさんの力があれば、命を賭してただ進むことだけに力を使えば、渓谷を駆け抜けられる。
しかし、そうではなかった。俺が知っているアスティナ殿下という人物は、昔から変わることなく、部下だけに犠牲を強いることを決してしなかった。
「いいえ……あなた一人ではありません。プレシャ、あなたは私たちと共に行きます。三騎で渓谷を駆け抜けるのです」
「っ……殿下、それはなりません! 殿下がどれほどお強くとも、自らそのような……っ」
「今はまだ、私は一部隊を預かるのみです。隊長と部下の間にある差は、絶対的というほど大きなものではない……違いますか?」
殿下は、ご自分が王位継承権を持つ第三王女であるということを、敢えて度外視して話している。
ラクエルさんは何かを言おうとする。しかし殿下の決意を宿した瞳は揺るがない。
「……一緒に……あたしたち、三人で……?」
殿下のその無謀ともいえる信念が、プレシャさんの人間らしい感情を取り戻させてくれた。
母の死を招いた貴族への憎しみはひととき薄れ、勇敢な槍騎士であるプレシャ・ホルテンシアの本来の輝きが戻ってくる。
「はい。私と、あなたたち二人。この三人だけが果たせることです」
その時はまだレーゼンネイア王国も、グルニカ都市同盟も知らずにいたのだ。
後に剣姫将軍と呼ばれるアスティナ殿下。そして彼女に仕える二人の騎士が、それぞれ一騎当千の強さを持っていることを。
◆◇◆
次に俺が見た光景では、プレシャさんは既に懲罰房を出ていた。
上官であるラクエルさんへの報告を終え、鍛錬に向かうために要塞の廊下を歩くプレシャさんに、見覚えのある男が野次を飛ばしてくる。
――ダドラム。集団でプレシャさんを呼び出し、自分の言うことに従わせようとして成らなかった人物。
「どうやって王女に取り入った? ……そうか、騎士団に入るなんて物好きだ、あの王女は女にしか興味が無いということも……」
「っ……こ、こいつ、またダドラム様に向かってそんな目をっ……!」
眼光を鋭くしたつもりもないプレシャさんは、ダドラムとその取り巻きの男たちを心底侮蔑しながら、それでも怒りを飲み込んだ。
「あたしのことは何を言っても構わない。でも、殿下のことを悪く言うのは許さない」
「は、ははっ……まだそんな強がりを。知っているぞ、お前が叔父貴に掴みかかって厳罰を申し付けられたことを」
「っ……!」
その言葉が意味するのは、ダドラムの叔父が、プレシャさんの村を売ったということ。このヴァルカヌス要塞に駐留している騎士が、どれだけ腐敗しているのか――。
失望してもおかしくはない。しかしここでダドラムに怒りをぶつけても意味がないと、プレシャさんは理解していた。
「懲罰房を出てもお前は終わりだよ、プレシャ。もう一度チャンスをやろう……俺に従え。そうすれば、今後も騎士の地位にいられるよう働きかけてやる」
そんなことがよく言える、と震えさえする。それでもプレシャさんは、殿下と出会うまでとは、明らかに違っていた――俺が知っている、快活に振る舞っている時の彼女に近づいている。
「あたしには、あんたがこだわるほどの価値はないよ。戦うことしか能がない女より、あんたにはよっぽど良い相手がいると思うけど」
「……後悔するなよ、プレシャ。俺は二度も温情をかけてやったんだぞ?」
ダドラムはそう吐き捨てると、取り巻きを連れて立ち去る。残されたプレシャさんは、拳をきつく握る――だが、その力が緩められる。
ラクエルさんが心配して、プレシャさんの後をついてきていたのだ。彼女は後ろからプレシャさんに近づくと、肩に手を置き、一度、二度と優しく叩く。
「女性の比率が多い国とはいえ、騎士団は男性社会だ。まして貴族の出では、ろくに実戦も経験しないままで権力を得る者もいる……あのような男は、女性騎士を低俗な欲望の対象としか見ていない。よく、言葉を抑えてくれた」
血の繋がりがなくても、ラクエルさんのプレシャさんに対する労りは、実の姉のようにも見えるものだった。
プレシャさんはラクエルさんの手に触れると、そんなに気遣わなくていいというように笑ってみせる。ラクエルさんの漆黒の瞳には、青髪の少女の笑顔が映っていた。
「ラクエル姉みたいな美人ならまだしも、あたしに興味を持つなんて物好きだよね。それに殿下のお姿を見たら、なおさらあたしみたいな男女はどうでもよくなりそうなのに」
「……中には、戦う力を持つ女性を従わせることに満足を覚える男もいる。それに、プレシャは自分の評価を低くしているが、そのようなことは全くない」
「それこそ、身内びいきだと思うけど。ラクエル姉は優しいから……じゃなくて、優しくて強いから、って言わないとね」
「なぜ訂正するのだ……優しいとだけ言うと、私が照れるとでも思っているのか?」
見ている俺のほうが微笑ましくなるようなやり取り。プレシャさんの荒れ果てていた心が、殿下とラクエルさん――騎士団内にいる味方の存在によって確実に癒やされている。
それでも柔らかく覆うだけでは、消えない傷もある。俺がプレシャさんを見ていて感じていた危うさは、この頃から続いていたのだ。
「……弱みは見せないようにしないとね。貴族はあたしたちを駒としか見てないから」
プレシャさんの視線の先に居たのは――ディーテさんだった。
当時の彼女は、現在とはまるで違う印象の容姿をしている。まだ騎士というより、貴族の令嬢が鎧を着ているという方が近いと感じるほど、戦いというものが似つかわしくない繊細さを感じさせた。
「プレシャ……貴女の境遇については知っています。しかしこの国の貴族全てが、貴女が思うような人たちではありません。今の言葉は、訂正してくださいませ」
「……ディーテさんの弓の腕は、あたしも凄いと思うよ。貴族なのに、ちゃんと武術を磨いて騎士団に入ってる」
「私のことを少しでも、同僚と認めていただけるのなら、私の意見を……」
「あたしの考えを自分の思う通りにしたいなら、あたしを負かしてみなよ。そうして言うことを聞かせればいい」
明確な挑発――それは、本来なら同じ騎士に対してしてはならないことだ。
しかしディーテさんは冷静だった。プレシャさんの言葉を正面から受け止めて、全く動じずにいる――その胆力に、プレシャさんも内心で僅かに驚いていた。
可憐な貴族の令嬢。まるで違う境遇で生まれ育ったはずのディーテさんに、プレシャさんは自分にも通じるものを感じ取っていた。
「私たちの務めは、騎士団の一員として敵国を退けること。私がどんな働きを見せるかで、プレシャにも評価してもらいたいと思っています」
「……プレシャ、ディーテの言う通りだ。槍を向ける相手を間違えてはならぬ」
「……あたしは評価するも何もないよ。あたしも殿下やラクエル姉に、使えるかどうか見てもらう立場だから」
「差し出がましいことを言うようですが……『使われている』と思っているのなら、貴女はアスティナ殿下のことも、ラクエル殿のことも分かっていらっしゃらない。外から見ている私の方が、よほど理解できていますわよ」
ディーテさんも、一筋縄ではいかない。プレシャさんの挑発に意趣返しをすると、彼女は淑やかに礼をしてみせて歩いていった。
ラクエルさんは何も言わずにプレシャさんを見ている――しかし、不意に口の端を緩めて、ふっと笑った。
「あのように気骨のある騎士は、嫌いではないのだろう?」
「……ああやって、あたしのお姉ちゃんか何かみたいなおせっかいなことを言うのは、ラクエル姉だけで十分だから」
プレシャさんの返答に、ラクエルさんは微笑むばかりだった。
戦いの合間に流れる、穏やかな時間。しかしそれは束の間のものに過ぎず――東方方面軍は、この二日後に重大な作戦を決行することになる。
ヴァルカヌス要塞の主戦力が敵の主力を引きつけているうちに、別働隊がアルドローン渓谷を抜けた先にある、都市同盟の砦を攻撃する。
その別働隊に選抜された中には、周囲の反対を振り切り、自ら志願したアスティナ殿下の部隊が含まれていた。




