第八十三話 飛べない鳥
プレシャさんはラクエルさんに連れられ、東方戦線の本部に向かい、騎士団付属の訓練校で騎士候補生として学ぶことになった。
ラクエルさんに指導を受ける機会は少なかったが、プレシャさんは彼女の言いつけをよく守り、男子の候補生にも負けないように修練に明け暮れた。だが、その記憶はプレシャさんの中では、苦痛もなにもない、今の自分を作り上げるための蓄積として、ただ淡々と残されていた。
初めは重りのなかった棒を、一日に三百回。それでも手応えを感じなくなると、彼女は正規の授業時間外に、棒に重りをつけた訓練用の器具を作り、ひたすらに振り続けた。
髪を短くして、少年のような姿をしていたプレシャさんは、男子から『男女』と陰口を言われたりしたが、少しずつ気にしなくなった。彼女は騎士を目指すこと、自分の目的を果たすためには、性別など意識しても無意味だと割り切ったのだ。
十歳前半の少女には過剰すぎる訓練を、彼女は持って生まれた魔力を肉体の回復に費やすことで克服し、小柄な身体から想像もできないほどの身体能力を身につけていった。そこで、彼女が精霊魔法を学び、魔法士となる道は消える――彼女は自分が魔戦士の素養を持っていることに気づかなかったが、周囲はその異質な力に気がつき、少しずつ彼女を恐れるようになっていった。
やがてプレシャさんは模擬戦に参加するようになり、自分の背丈より遥かに長い棒を操り、相手の弱点を貪欲に狙う獣のような立ち回りから、『雌狼』という別称で呼ばれるようになった。
彼女に勝てる者は、教官ですら一人もいなくなった。騎士候補生となって二年、若干十二歳の少女が、武技の成績のみで首席となった――だが、前線に出ることを望むプレシャさんの希望は叶わず、士官として選抜されたのは、貴族の血を引く男子の候補生だった。
十八歳の青年。彼にも、一抹のプライドがあったのかもしれない。武技で一度も勝つことのできなかったプレシャさんに対して、彼はあからさまな悪態をついた。
『貧民あがりのくせに生意気なんだよ。下士官から気に入られてるからって、調子に乗りやがって。見てみろよ、お前に打たれたところがまだ腫れてるぜ。どうしてくれる』
『……そんなこと、あたしは知らない。訓練で叩いた覚えもない』
『おまえに覚えがなくてもこっちにはあるんだよ!』
彼は取り巻きの男子を何人も連れて、プレシャさんが反論できないようにと学舎の裏に連れ出した。安心しきり、勝ち誇った様子で、立ちすくんでいるプレシャさんに近づき、その顎に触れる。
『自分の立場を弁えて、今後は貧民は貧民らしく大人しくしていろ。武器がなければ、お前なんて何もできやしないんだからな』
人間は、なぜこれほどの悪意を人に向けることができるのか。過去に起きた出来事でも、俺はとても黙っていられなくなる。
だが、これは過去に起きた出来事でしかない。ただ、見ているしかない――しかし。
『はは、やっと分かってきたか。いいだろう、雌犬の子にふさわしい躾ってやつをしてやる。おい、誰も来ないように見張ってろ』
次の瞬間から、記憶は途切れ途切れになる。読み取れるのは、全てを燃やし尽くすような怒りと、そして、殺意。
『――あたしの母さんを、悪く言うな!』
プレシャさんは棒を持ってはいなかった。だから、彼女を取り囲んだ男子たちも油断しきっていた――しかし。
『こ、こいつっ……ぐぁぁっ!』
プレシャさんは最初に、武器――護身用の木剣を持っている相手を狙い、体術のみで制してみせた。またたく間に相手の腕を極めて棒を奪うと、彼女を嘲った貴族の青年に向かっていく。
『母さんを侮辱するやつは、絶対に許さない……!』
『ひぃぃっ……!』
貴族の青年が、情けない悲鳴を上げる。プレシャさんは命を奪っても構わないというつもりで、渾身の力で木剣を振り上げる――しかし。
『っ……離せっ……離せぇっ……こいつが、こいつが母さんをっ……!』
木剣を驚異的な握力でつかみ、止めていたのは――ラクエルさんだった。髪を切って印象が大きく変わっているが、間違いない。
彼女はプレシャさんをここに連れてきたときよりも、武人としての風格を増していて、記憶を見ているだけの俺が思わず震えを覚えるほどだった。
『彼女の話は指導部屋で聞かせてもらう。貴公らの行為については直属の教官に報告をする。今は授業外時間なのだから、直ちに宿舎に戻るように』
『ふ、ふざけるな……こいつは俺を、殺そうとしたんだぞ! 子爵家の跡継ぎ候補の俺に、木剣で殴りかかったんだ! そんなことが許されるか!』
貴族の青年は挑発をしておいて、自分のことを棚に上げて言い訳をする。それを見てラクエルさんは何も言わず、プレシャさんを囲んでいた三人を見回した。
『……なぜ、下級生の彼女を一人で呼び出したのだ? 騎士訓練校の規則では、異性との学業以外における個人的な干渉を禁ずると定められているはず』
『そ、それは……こ、こいつが、俺たちに対して反抗的だったから……ひっ……!』
それまでほとんど感情の動きを見せなかったラクエルさんの瞳に、鋭い光が宿る――それだけで貴族の青年は震え上がり、一歩、二歩と後ずさりをする。
『他の候補生と私闘をすること、集団で圧力をかけるなどの行為は禁止されている。もしそのようなことが行われたのなら、処分は厳しいものになるが……』
『……お、俺たちは……何もしちゃいない。殴られそうになったなんてことも、無かった……』
『それでいい。彼女に対して悪意のある内容を喧伝するようなら、このことは訓練校全体の問題とさせてもらう』
『くっ……うぅ……』
ラクエルさんの眼光に向き合えず、口惜しそうにプレシャさんを見る青年の目には、プレシャさんを敵視したり恐れたりという以外の感情が込められていた。そう――執着だ。
何が目的で、プレシャさんを呼び出したのか。それを悟っても、俺はあまりに稚拙だとしか思うことができない。力づくで好意のある相手に言うことを聞かせて、何になると言うのだろう。
『ダ、ダドラム様、ここはひとまず引いた方が……』
『っ……言われなくても分かってる! 失礼する……っ!』
ダドラムと呼ばれた青年は、取り巻きを連れて足早に去っていく。残されたプレシャさんは俯いたまま、木剣をまだ離すことができずにいた。
『……それは、おまえにふさわしい武器ではない。準正騎士になったら槍を贈ると約束したな。ここで我慢できなくては、それもできなくなる』
プレシャさんがラクエルさんに槍を教わったのは、ラクエルさんが訓練校に滞在した短い期間の間だけだった。しかし、プレシャさんはラクエルさんのことを、槍の師として慕っていた。
そうでなければ、プレシャさんは前後不覚となってラクエルさんにも打ちかかっていた。プレシャさんは、母親を侮辱した相手を許してなどいない――ラクエルさんを悲しませないために、すんでのところで殺意を封じ込めたのだ。
『あたしは……ラクエル姉みたいには、なれない。お母さんの敵を討つために、騎士になるまで、我慢しなきゃいけないのに……』
『……私がプレシャと同じ状況に置かれたら、同じように憤っただろう。そのことを恥じる必要はない。おまえの槍が自らの誇りを守るために振るわれるのなら、本当は止めるべきではなかったと思う』
『……ううん。あたしがあいつを殺したら、きっと貴族の親が出てきて、あたしを処刑しようとする……そうなったら、あたしをここに連れてきてくれたラクエル姉に迷惑がかかる。あたしは馬鹿だけど、それくらいのことは分かるから』
プレシャさんは気丈に話すが、声の震えは隠せなかった。ラクエルさんは少しだけ逡巡したが、昔のようにプレシャさんを抱きしめることはしなかった。
訓練校では、誰の目があるか分からない。現役の軍人であるラクエルさんが、学生のプレシャさんに便宜を図ったという噂が広まると、やはりプレシャさんの立場を危うくすることになってしまうだろう。
『国を守るという志を忘れ、自らの欲を満たすために横道に逸れる者がいる。プレシャ……そのような者たちを、私も、私の主君も決して許しはしない。汚れた水が合わぬなら、少しでも早く騎士の資格を得ることだ』
『……うん。ラクエル姉……あたしは、行けるのかな……自分が行きたいところに』
プレシャさんの言葉が向けられているのは、目の前にいるラクエルさんだけではなかった。
ここには居ない人――プレシャさんはどこか遠くに向けて、虚ろな眼差しで語りかけていた。
『……必ず、行ける。だが、忘れないで欲しい。生き急ぐことが、何かの償いになるということはない』
感情を押し殺しながら、それでも溢れてしまっているような声だった。
プレシャさんの張り詰めた心がかすかに和らぐ。彼女は確かに、ラクエルさんの言葉に安らぎを感じて――そして。
『ありがとう、ラクエル姉。あたし、もっと強くなって戦場に行く。ラクエル姉に、恩返しがしたいから』
笑って言ったのだろうと思う。プレシャさんの視点で過去を見ている俺には、彼女の表情はわからない。
だが、その言葉は本当の心を覆い隠すためのものでしかなかった。
今は闇からラクエルさんの手で引き戻されても、ずっと、プレシャさんには声が聞こえているのだ。
ラクエルさんが後ろ髪を引かれるような様子で、それでも背を向けて立ち去ると、プレシャさんは木剣を見つめながら言った。
『……ごめん、ラクエル姉。あたしは……』
プレシャさんはすでに、無意識下で魔力を身体能力の強化に使うことができるようになっていた。
行き所を無くした感情は、木剣の柄を握る手に込められ――少女の握力で砕けるはずのない木剣が、めきめきと軋んで折れる。
木の断面の尖った部分が、プレシャさんの手のひらに傷をつける。指を伝って流れ落ちようとする自らの血に、プレシャさんはためらいなく唇をつける。
痛みを感じていない。本来ならすぐに治療を必要とするような傷さえ、プレシャさんはまるで意にも介さなかった。
――彼女はとうの昔に、自分が生きているという実感を失っていた。
彼女を突き動かすのは、彼女自身の意志ではなく、聞こえ続けている声だった。
◆◇◆
そして、一年ほどの時が流れる。
プレシャさんは当時最年少で準正騎士の称号を与えられ、彼女を部下にしたいと言っていたラクエルさんの要請通りに、東方戦線の前線に配属された。
プレシャさんが初めて所属した部隊こそが、アスティナ殿下の率いる第五十七騎馬遊撃隊だった。訓練校で馬術を学んでいたプレシャさんは、自分の馬とラクエルさんと約束していた長槍を与えられ、魔戦士としての実力を発揮して、次々と武功を立てていく――しかし。
配属されて三ヶ月が経った頃のこと。プレシャさんは正騎士に昇格する寸前で、東方の拠点であるヴァルカヌス要塞の懲罰房に入れられていた。
襤褸を着て、腕と足に木の枷を嵌められて拘束された彼女は、牢の隅に住み着いている鼠を見つめていた。
『……プレシャ』
声がして、壁に背を預けて座っていたプレシャさんはゆっくりと顔を上げた。鉄格子の外に立っているのは、髪の伸びたラクエルさんだった。
魔戦士は魔力によって身体の代謝が向上し、髪が伸びるのも常人よりずっと早くなる。それは、ラクエルさんが常に激しい戦いに身を置いていることを意味していた。
もう、この頃から彼女の身体は負荷に悲鳴を上げ始めていた――超重量の馬上槍を、常に振るっていることが見て取れる。プレシャさんの記憶の中にある姿であっても。
時刻は夜のようだった。高い位置にある空気窓から、差し込む光は、月明かり――その中で、ラクエルさんは静かにプレシャさんを見つめていた。
『……なぜ、私に言わなかった。この要塞に駐留する士官について、調べていることを』
『……ラクエル姉に言ったら……迷惑を、かけるから……』
プレシャさんがかすれた声で言うと、ラクエルさんは憤りを隠しきれずに顔に出す。それは、まるで泣いているようにも見えた。
『彼らは、罰せられるべきことをした……だが、他にもやりようはあったはずだ。お前が牢に入れられるようなことをせずとも、他に……っ』
『……あたしがやらなきゃいけないのは、隣の国の奴らだけじゃなかった。あの日……敵に通じて、あたしの村を無茶苦茶にしたやつら……そいつらが、まだのうのうと生きてて、あたしの村を売ったことを……罪のない、冗談みたいに……っ』
プレシャさんは、自分の村に敵軍が侵入した理由を調べていた――それは、彼女の村を守備していた部隊が、敵軍の襲撃時に何の対応もしなかったからだ。
『……プレシャが住んでいた村の守備に当たっていた部隊は、練度が低く、本来は戦闘が行われている領域からは遠い場所にあった。彼らに離間を仕掛けた敵軍が、老獪だった……』
『でも……ラクエル姉たちが助けに来てくれる前に、あいつらは逃げた。村にやってきて色々なものを欲しがったのに、最後には村を売って……それがしかたなかったんだって、悪いことじゃないんだって、あいつらは言い訳ばかりして……っ』
それが、敵軍が国境を超えて潜り込み、プレシャさんの村が襲撃された理由だった。
一時の利益のため、自分たちが交戦する危険を避けるために、罪のない人々が暮らす村を敵軍に売った。
だが、軍規に反する大罪を犯したはずの彼らは、罪を咎められることはなかった。
『……貴族の子息は、騎士として武功を立てることで領地を封じられる。だが、全員が戦果を挙げられるほど勇敢ではない』
『貴族だから……あたしの村を捨てて逃げても、罪に問われない。そんなこともあったって笑っていたって、咎められもしない』
ラクエルさんは答えない。
俺は貴族のことに通じているわけじゃない。でも、学院に居たころも、貴族の出身だからと便宜を図られる生徒はいた。『当たり』の精霊を引くだけでなく、成績の優秀さも求められる局面はあるからだ。
そのことに、俺は強い疑問を持ったことがない。『貴族だから』というだけで、家格が高い人間は優遇を受ける、それが国というものだと思っていた。今となっては、そのことを恥じ入る思いしかない――プレシャさんに対する、貴族の若者たちの態度を目にしたあとは。
だが簡単には、国の構造も、人々の意識も変えられない。それを分かっているから、ラクエルさんは何も言えずにいる。
『あたしの村はこの国にとって、それくらいの価値しかなかったんだ。裏切り者のあいつらと同じ騎士として戦うくらいなら……』
『……いつか、話したことがあったな。誇りを守るためになら、その槍を振るうことを止めるべきではないと』
『だったら……どうしてあいつらを殺しちゃいけないの……? 母さんは、あいつらを殺せって言ってるのに……!』
ラクエルさんが目を見開く。彼女はこのとき、初めて知ったのだ――プレシャさんを今も駆り立てているものの正体が、何なのかを。
『あたしは騎士になんてならなくていい……あいつらに罪を償わせられるなら……』
『そうしたところで……何が残る。まだ、殴っただけで終わりならばいい。彼らの発言にも問題があった……だが、次に同じことが起これば……』
『……ラクエル姉も、結局貴族の顔色を伺うんだ。ラクエル姉の家が、貴族と関係があるから……あたしとは、生まれから違うから、あたしを憐れんで……』
プレシャさんの言葉をすべて、ラクエルさんは黙って受け止めた。
その悲しそうな顔を見て、プレシャさんも本当は気がついていた。ラクエルさんを責めても、何の意味もないこと――そして、取り返しのつかないことをしていることに。
それでもプレシャさんは、言ってはいけないと分かっていながら、その続きを口にした。
『あたしが母さんの仇を討てるかどうかなんて、ラクエル姉はどうでも良かったんだ……そうだよね、関係ないもんね。あたしはただの、拾われた子どもで……っ』
彼女の胸のうちは、ただ空虚だった。
ラクエルさんの部下となって初めて戦果を上げたとき、プレシャさんはラクエルさんに褒められ、それを心から嬉しいと思った。
寡黙なラクエルさんが時折こぼすように見せる柔らかな微笑みに、プレシャさんは憧れ、彼女のように強く、美しくなりたいと願った。
自分が女性であることを忘れなければ、強くはなれない。そう思っていたプレシャさんが髪を伸ばし始めたのは、ラクエルさんの姿に少しでも近づきたいという思いがあったからだった。
プレシャさんにとって、ラクエルさんは誰よりも大切で、憧れそのものでもあった。
しかし優しかったはずの母の面影が、プレシャさんを戒める――彼女の心が過去から離れようとするたびに、逃れようもなく。
『……プレシャ。ずっと、心の中では……私のことを、信じていなかったのか……?』
そんなことはない。そう答えたいのに、プレシャさんは言葉にできない。
復讐のひとつを果たせなかった無念を、ラクエルさんにぶつけても意味はない。分かっていても、プレシャさんの意思は、聞こえてくる声に捻じ曲げられる。
――そうやって、私のことを忘れてしまうの? プレシャはあんなに優しい子だったのに。
そこには居ない人物の声が、はっきりと聞こえる。プレシャさんにとってそれは現実であり、幻想でも何でもない。
確かにそこにいる。プレシャさんを後ろから抱くようにしている、母親の霊体が。
――あなたは強いから、お母さんの仇を討ってくれるわね。
だが、それは違う。プレシャさんの知っている母親ではない。彼女の罪の意識が引き寄せた意思を持たない精霊が、自責の念に感応して変化した姿だ。
人の記憶の中に、精霊が及ぼした事象は深く刻み込まれる。だから、俺は気がつくことができた――当時に精霊医がいれば、もっと早くにプレシャさんを蝕む病に気づくことができたかもしれない。
『あたしは……誰のことも、信じたりは……』
決定的な言葉がこぼれようとする。プレシャさんは、ラクエルさんの目を見られない――心が軋んで痛んでも、止めることができない。
しかし空疎な言葉が最後まで紡がれる前に。その声が、二人の耳に届いた。
『それは、プレシャ。貴女の本心ではないはずです』
『っ……殿下……なぜ、こちらに……』
牢の澱んだ空気が、彼女のまとう清冽な気によって浄化されていくようだった。
――アスティナ=レーゼンネイア。金色の髪を持つ第三王女が、ラクエルさんの視線の先で、白銀の鎧を身に着けて立っていた。




