第八十二話 空を焦がす炎
アイルローズ要塞における隊長格の騎士たちは、『士官棟』に私室を持っている。プレシャさんも今は私室に戻っているとのことだった。
要塞の三階層には屋根が覆っていない場所があり、『士官棟』に向かうときはそこを通ることになる。空には雲間に月が浮かんでいる――前にディーテさんと一緒に見た時と比べると、月が少し欠けている。
ディーテさんに『夜忘花』を使ってもらってから、彼女の健康状態は随分と良くなった。睡眠は疲労回復、精神の均衡を保つことの両面に寄与するため、少しでも睡眠の周期が崩れていたら改善に取り組むべきだ。
長くジルコニアの攻撃に対し、孤軍奮闘してきたこの要塞の兵たちは、目に見えて健康を害してはいなくても、疾患のもとになる症状が出ている可能性はある。全員の健康診断をするべきだと思うが、全ては今回の作戦が成功した後に考えることだ。
士官棟の入り口前には年配の衛兵が一人だけいて、俺を見ると敬礼をしてくれた。俺にとっては母親のような年齢の女性だが、身体は鍛えられていて、棒を持った立ち姿には近づきがたいほどの気迫を感じる。
――だが、俺を見るなり、彼女は表情をほころばせた。どうやら、俺のことを知っていてくれたようだ。
「グラス先生、ようこそいらっしゃいました。士官の方々にご用向きですか? 夜の見回りをしているクロエ様以外は、全員お部屋におられますよ」
朗らかな笑顔だけを見れば、気のいいおばさんという印象を受ける。皆がそうだ――最初見た時は殺気立っている人が多かったが、現状は決して芳しくはないのに、表情が柔らかい。
専守防衛の時間は、アスティナ殿下の決意を以て終わった。それを、彼女たちは上官からすでに聞かされているということだ。
「明日の軍議の結果によっては、すぐにジルコニアを攻めることになると聞きました。グラス先生、要塞に残る仲間のことをよろしくお願いします」
「いえ、私も同行します。私たち魔法士も力を尽くしてことに当たらなければ、今の窮状を打破することはできない……すみません、ここに来てまだ日が浅いのに、そんなことを言ってしまって」
彼女は俺も行くと言ったことに驚き、そして心痛を隠すことなく顔に出した。そんな顔をさせてしまうのは、軍医の俺が随行することに命の危険が伴うと思っているからだろう。
俺自身、油断できないとは重々承知している。敵将アレハンドロがノインを従えることで精霊魔法の軍事的有用性を理解しているなら、こちらにノイン、あるいは魔法士がいると分かれば最優先で狙ってくるだろう。
「魔法が戦において、私どもの想像のつかない威力を発揮するとは聞き及んでおります。ですが……ごめんなさいね、こちらこそ勝手に、先生に息子のことを重ねてしまって。私はまだ小さい息子をいずれ戦いに出させるくらいならと、兵に志願したんですよ」
「……そうですか。息子さんは、まだ……」
「私の家族はポルトロの町に住んでおりまして、年に二度は帰る機会もあるのですが。帰るたびに大きくなっていく息子を見るのが生きがいになっております。両親がいないことで、息子には寂しい思いをさせているかと思ったら、そうでもないんですよ。私が騎士団にいることを、自慢に思ってくれているみたいで……」
彼女がこれほど饒舌に話す理由は分かる。同時に俺は、この人だけでなく、全ての兵士に帰りを待つ人がいるのだと確かめる。
そして彼女は、出兵を前にして覚悟してもいる。彼女は、誰かに話しておきたいのだ――自分の家族を、命をかけても守りたい子どものことを。
「またポルトロに戻ったときは、息子さんはさらに立派になっているんでしょうね」
無神経かもしれない。明日よりも、明後日よりも先にあることを、今口にするのは。
それでも俺は言う。何のために魔法を覚え、何のために人を活かす道を学んだのか、自分に対する戒めの意味も込めて。
「必ずみんなで戻りましょう。だから、俺もみんなと一緒に戦わせてください」
「……先生は、そんなにお若くても、やっぱり『先生』なんですねえ。こうして話していると、みんなの気持ちを全て見通していらっしゃる気がします」
「全員の診察をすることは、まだできていません。そのためにも、勝って帰ってこなければいけない……そうだ、遅れ馳せながら、お名前を聞いてもよろしいですか」
「私の名前はオデッサです。もし、私が……」
彼女は名乗ったあと、俺に何かを伝えようとする。それが何なのかを分かっていたから、俺は聞き届けるつもりでいた――しかし。
オデッサさんは首を振ると、言いかけた言葉を胸に落とした。
「いえ。グラス先生、先生とお話ができて良かった」
「俺もです。夜は冷えますから、後で身体が温まる飲み物を持ってきます」
俺にできることは少ない。士官棟に入ると、どうやら外での話を聞かれていたようで、世話係の女性がオデッサさんに飲み物を出しに行くところだった。
「夜分にお疲れさまです、先生。差し出がましいかとも思いましたが、今から衛兵の方に飲み物をお持ちします」
「ありがとうございます。あの、プレシャ隊長はどちらに……」
尋ねると、女性の表情が陰る。彼女は逡巡するが、それでも質問に答えてくれた。
「プレシャ様のお部屋には、夜はラクエル様しか訪問してはならないことになっています。でも、グラス先生なら……」
「……部屋の前まで行ってみます。そこまでは、許してもらえますか」
「はい。グラス先生のことは、プレシャ様も信頼されていると伺っておりますから。プレシャ様のお部屋は二階になります」
俺は二階に上がる階段の場所を教えてもらうと、そちらに向かって歩き始める。
そして二階に上がったところで――廊下の窓から外を見ている、黒髪の女性の姿を見つけた。
「ラクエル騎士長……」
名前を呼ぶと、彼女はぴくっと反応してから、ゆっくり振り返った。
薄手の就寝着の上からガウンを羽織った彼女は、日中に見せる厳格な騎士長としての姿とは全く違い、思わず見惚れるほどに優しい表情をしていた。
――しかしその瞳が、俺を見るなり憂いを帯びる。長い睫毛に月光をすべらせ、彼女は何も言わずに俺を見ていた。
「……プレシャのことは、私と殿下、そしてディーテのみの秘密にしておくつもりだった。プレシャ自身も、お前にまだ知ってもらいたいとは思っていないだろう」
「俺に、知ってもらう……プレシャさんは……」
何か隠していることがあるのかと言いかけて、そうではないのだと思い直した。
誰にでも、抱えているものはある。まだここに来て日の浅い俺に、明かせないことが多いのは当然だ。
「……俺には、プレシャさんが生き急いでいるように見えました。彼女がこの戦を勝ちに導くために自分を犠牲にすることを厭わないのなら、今のうちに話しておくべきだと考えてここに来ました」
「分かっている。プレシャが発言している間、グラスが緊張していて、思うところがあるというのは分かっていた……殿下もお気づきになっていただろう」
俺と殿下は、神樹との契約を通してつながっている。だから殿下は、俺がプレシャさんに会おうとしていると察したら、止めることができた。
だが、俺はここにいる。驕った考えを持ってはならないが、何にも咎められずここにいる時点で、プレシャさんとの面会は許されているという考えもある。
しかしラクエルさんがここに居るのは、俺を試すためでもあると思った。プレシャさんに会いに来ると読んで、会わせるべきかを判断するために待っていたのだ。
「……プレシャがどのような姿を見せたとしても、驚かないこと。昼間のプレシャとは違う姿を見ても、ありのままに受け止めてやってほしい。そう、約束できるか」
「はい。冗談や、気まぐれでここに来たわけではありません。出撃する将兵の健康を管理するのが、俺の務めです。プレシャさんは多くの兵をまとめる立場にある……彼女を見て気がかりに感じたことを、そのままにはできません」
彼女自身のことを案じているというのが一番だが、上手い言い回しも何もできない。ただ、私情に駆られて行動しているわけでないことは伝えるべきだと思った。
ラクエルさんは腕を組み、目を閉じて聞いていた。それは俺を威圧するようなものではなく、言葉を深く吟味してくれているのだと思った。
「……そうか。そうだな。試すようなことをしてすまない。おまえに治療をしてもらい、身体の調子を整えてもらったからこそ、私も焼けるような痛みに耐えることなく夜を過ごしていられる。私が一番、全ておまえに委ねるべきなのだと分かっている」
「ラクエル騎士長には、継続して治療を受けてもらわないといけません。もし時間があれば、後でお伺いさせていただきたいくらいです」
「いや……今夜は、私のことはいい。プレシャのことだけを考えてやってくれ。そして願わくば、彼女が長く見ている悪い夢から、おまえの手で……」
「何もかもを言うのは過保護すぎますわ。後は先生にお任せしましょう」
「……ディーテ、いつから聞いていたのだ。立ち聞きは貴族の誇りに反する行いではないのか?」
同じ階に寝室があるのか、ディーテさんが姿を見せる。彼女の就寝着姿は貴族の出身であるといえど、そこまで豪奢なものではないが、いつも鎧を着ている姿を見てきたので、とても新鮮に映った。
この騎士団が美女ばかりだというのを改めて確認して、鼓動が否応なく早まる――自分にはそういう衝動はないものだと思っていたが、これが種の保存本能というやつだろうか。動物の狩猟本能と同じように、理性での抑制が効きづらい。
「ふふっ……こんなに反応してくださると、自分が女であることを自覚させられますわね」
「な、何を言っているのだ……全く。グラスは反応してなど……」
「あ、い、いや……二人とも、いつもと印象が違うので……すみません、就寝前ですから当然ですよね」
照れている場合ではないと思うが、髪を下ろしたディーテさんとラクエルさんの二人を前にすると、ここは男が立ち入っていい場所ではないような気がしてくる。
そんな俺の内心を知ってか知らずか、ディーテさんは階段を途中まで降りてきて、俺の後ろに回ると、肩に触れて前に進むように促した。
「前にいただいたお花の置き方についても、本当は部屋に入ってもらって確かめて欲しいのですが。今はプレシャのことだけ考えてもらうのが、同僚としての気遣いですわね」
「うむ……ディーテ、私たちは念のために部屋に待機していよう。近頃は無かったが、プレシャがもし悪夢を見ていたら……」
「悪夢……それが、プレシャさんが常に持っている強迫観念の原因ということですか」
「……心の傷というものは、簡単に癒えるものではない。原因が分かっていても、私にはどうしてやることもできない。過去は変えられず、失ったものは戻らないのだから」
それでも彼女たちは、俺をプレシャさんのもとに行かせてくれるという。その信頼を裏切ることは、決してしたくない。
「俺は大丈夫です。二人は、部屋で休んでください。診察はまた後日行わせてもらってもいいですか」
空気を重くしたままでは二人に負担をかける。だから俺は、上手く演じられているかは自信がなかったが、笑ってみせた。
二人の目が赤らんでいる――そういう顔をさせたくはなかったのだが、二人とも心優しく、プレシャさんのことをそれだけ想っているのだ。
「……あの子のことをよろしくお願いします、グラス先生」
「私からも頼む。いつかプレシャが、戦で命を捨てるようなことをしないように……少しでもいい、彼女の心を……」
身体の傷や病気なら、治すことができると立証されていて、俺も治療に自信を持っている症例は数多くある。
それらと同等か、それ以上に治療が難しく、答えが見つからないことさえあるのが心の病だ。この要塞にも、戦闘による後遺症を残していた兵士たちがいた――だが、今は俺の姿を見て笑ってくれるようになった。
最初から諦めていては始まらない。難しいからと諦めてしまうよりは、自分にできることを探したい。
二人と別れて、薄明かりの廊下を進む。そして一番奥にある、プレシャさんの部屋の前に立った。
ドアをノックしようとして、もしプレシャさんが眠っているとしたら、起こすことはすべきでないと思った。木製のドアに触れ、室内の木製品から聞こえる『声』を聞くことで、俺はプレシャさんがどうしているかを確かめる。
部屋の中からは、ほとんど植物の『声』がしない。木製品は武器や衣服をしまう棚と、ベッドが置かれていると分かるが、とても殺風景に感じられた。
(……この声は……誰かと話してるのか? いや……違う……)
聞き間違いかもしれないと思った。誰でも寝言は言うものだ――だが。
部屋の中にある木製のベッド。その上で眠っているプレシャさんが、俺には泣いているように感じられた。
――お母さん……許して……置いていかないで……良い子にするから……――
その言葉が、何を意味するのか。わからずとも、胸を抉られるような痛みを味わう。
彼女は今、夢を見ている。それがラクエルさんの言う『悪夢』なのかどうかを、確かめる方法がある――人の心に触れることを可能にする精霊、アルラウネの力を借りる。
媒介となる球根を足元に置く。そして、小さな声で詠唱した。
「『妖花の園に咲き乱れる艶花よ……ひとたび現世に姿を現し、その力を示せ』」
召喚に応じて、球根を中心にして草の根が魔法陣を形成する。そして花が開き、アルラウネのルーネが姿を現した。
「召喚主さま、お呼びいただきありがとうございます。ふぁぁ、最近召喚されるときは、いつも外が真っ暗なのです」
「済まないな、夜遅くに」
「私は月明かりでも養分をいっぱい作れるのです。見てください、葉っぱがこんなに生き生きしているのです」
ルーネは頭の上に咲いた花を見せてくる。花の髪飾りのようにしか見えないが、この廊下に差し込む月光を吸収し、魔力に変換していた。
「……プレシャお姉さんが泣いてる声がするのです。召喚主様は、お姉さんを助けてあげたいのですよね?」
「できればそうしたい。だが……ここまで来て何だが、眠ってる彼女の部屋に入るのは……」
「そんなこと言ってる場合じゃないのです、すごく苦しそうなのです。このまま悪夢を見ていると、心がどんどん蝕まれてしまうのです。悲しい夢は、お花の根を枯らす虫さんみたいなものなのです」
アルラウネは必死に訴えてくる。ディーテさんも不眠で身体を蝕まれていたが、プレシャさんも持てる力を最大限に発揮するには、悪夢にうなされることなど無い方がいいに決まっている。
そうこうしているうちに、部屋に戻る前に様子を見ていてくれたらしく、ラクエルさんとディーテさんがやってきた。
「……おまえが遠慮しているようなので、やはり伝えておく。少し前まで、プレシャが夢にうなされるときは、私が付き添って休んでいた。彼女を落ち着かせられるのは、付き合いの長い私くらいなのでな……しかし、プレシャも大人になった。私に甘えていてはならないと、一人で休むようになったが……正直を言って、心配でならない」
「プレシャはグラス先生と他の女性を同室にしておくのが心配だと言っていました。彼女は先生を、自室に引き取ってもいいと思っていたのでしょう。可能性の話ですが、もし本当にそうなったとして、悪夢にうなされる姿を先生に見せてしまったとしたら……その方が、プレシャは苦しむでしょう」
俺と同室になるというのは、あくまで例えの話だ。ディーテさんが言いたいのは、プレシャさんが俺の前では常に気丈であろうとして、悪夢のことを隠すだろうということだ。
「もしプレシャがグラスを部屋に招くとしても、その時は……『今の状態』を見せまいとするだろう。それでは意味がない。グラスには、今の彼女の部屋を見てもらいたい。行き過ぎた干渉かもしれないが、とても放っておけるような状態では……」
「分かりました。プレシャさんが無断で部屋に入ったことを怒るとしたら、その怒りは甘んじて受けます。極力そうならないように努めますが」
「何でも自分の責任として背負いこむのは、先生の悪い癖ですわ。プレシャと私たちは同僚であり、甘えたことを言っているように思われるかもしれませんが……長く共に過ごした仲間なのです。あの子に怒られるべきは、お節介な私たちのほうですわ」
ディーテさんの言葉にラクエルさんが頷く。そして、彼女が扉を静かに開けた。
ルーネと二人で部屋の中に入り、俺は室内を目にして――その光景を、ありのままに受け入れた。
ラクエルさんに事前に言われていなければ、少なからず動揺していただろう。槍でつけたものなのか、切りつけたような傷がいくつも壁や床に残り、修繕された痕跡がある。
部屋の壁際には騎士団の幹部が使うものとは思えない古い木のベッドが置かれ、そこにプレシャさんは横たわらず、何かを抱えて座ったまま、壁にもたれかかっていた。
彼女が抱いているものは、ぼろぼろの人形。そしてベッドに立てかけられた槍は、いつでも彼女の手の届く位置にある。
「……召喚主さま、今は近づいちゃだめなのです。きっとラクエルお姉さんじゃないと、プレシャさんに近づいたら……」
この状態にあっても、騎士団の誰もがプレシャさんを『猛将』として扱った。
それは、プレシャさんの騎士の誇りが、彼女が抱えた心の傷とは関係がないものだからだ。
「ルーネの言う通りだ。今はまだ、これ以上近づくことを許されてない」
俺たちの国、レーゼンネイアに対する同胞の裏切りを咎めるとき、彼女が見せた怒り。それは、憎悪と言ってもいいものだった。
ともに戦ううちに、彼女は俺を仲間だと認めて、『先生』とも呼んでくれた。それでもどこかで、俺はプレシャさんとの間に、理解の及ばない部分があると感じていた。
「……全く、至らない医者だ。俺は、プレシャさんの強さを見て、心のどこかで怯えていたんだ。それで彼女の傷を癒やしたいなんて、よく言えたものだ」
「召喚主さま……」
足元の床にも、槍でつけられた傷がついている。もう一歩進めば、悪夢にうなされた彼女に攻撃されるかもしれないということだ。
「この距離を、埋める。アルラウネ、力を貸してくれるか」
「っ……はい。召喚主さまのためなら、お安いご用なのですっ……」
ルーネが答え、彼女が地面に手を触れる。すると、俺の足元から生えたアルラウネの蔦が絡みつき、床を伝って、プレシャさんのベッドに蔦が届く。
そして、蔦が一輪の花をつける。その花が開き、舞わせた花粉は、俺を眠りに導く――俺とプレシャさんの意識を繋いだままで。
彼女が見ている夢を、俺も見せてもらう。それがどれだけ辛いものなのかが想像できても、俺は今立っている場所から、一歩も下がる気はなかった。
◆◇◆
何か、金属のようなものがぶつかり合う音がする。馬の蹄の音、鎧を身に着けた人々が歩む音――そして、悲鳴。
俺が見ているものは、何なのか。色褪せた光景の中で、ただ空に上る黒煙と、家々を焼く炎の赤色だけが、鮮やかに色づいている。
『――お母さんっ! 待ってて、私がすぐ助けるから……っ!』
その声は、今よりも少し幼く、あどけなさを残しているが――確かに、プレシャさんのものだった。
これが、プレシャさんの見ている夢。幼い頃の彼女が、木の棒を手にして、何者かに襲われている自分の村へと走っていく。
(やめろ、行くな……プレシャさん、今行ったら殺される……!)
『わぁぁぁぁぁっ!』
これは過去に起きた出来事。敵国の旗を掲げた兵士たち――ジルコニアではない、王国の東方に国境を面している、『グルニカ都市同盟』の部隊が、村を襲っている光景だった。
意識を繋ぎ合わせた時点から、プレシャさんの記憶が俺の中に流れ込んできていた。しかしその情報量の膨大さと、記憶の中に焼き付けられた彼女の感情が、引き裂かれるような痛みを生む――ここにはない俺の身体ではなく、心そのものが痛みを覚える。
幼いプレシャさんは、一心不乱に駆けていく――力任せに破壊された、村を囲う柵の穴から飛び込んで、入り込んだ騎兵に気づかれても、子供とは思えない速さで走る。
『お母さん、お母さん、お母さんっ……!』
乱暴に涙を拭いながら、彼女は母親を繰り返し呼ぶ。そのたびに胸が締め付けられるようで、けれど今は何もしてやれない。
――過去を変えることはできない。しかし、目を逸らすことは許されない。
俺はまだ、戦がもたらす結果がどれだけ凄惨なものなのかを、一部を見て知ったつもりでいただけだった。
少女のプレシャさんが、炎をかけられた自分の家とおぼしき家の扉を開ける。
『……お母さん……?』
見るな、と叫びたくても、過去の彼女の行動を変えることはできない。
プレシャさんは木床に残った血痕を辿り、家の奥へと進む。そして、かつて母親と一緒に食事を取っただろうダイニングに入り、手当たり次第に破壊された室内を目の当たりにする。
他の全てが灰色に変わっていく。ただ、プレシャさんの足元に流れてきた血だけが、何よりも赤く視界に焼き付く。
『……嫌だぁぁぁぁぁっ……!』
手にしていた棒を取り落として、プレシャさんはすでに動かなくなった母親に駆けより、その身体に縋りついた。
彼女が母親と過ごした思い出が流れ込んでくる。それが一つずつ色を無くし、黒く塗りつぶされていく。
最後にプレシャさんが母親からかけられた言葉は、『今日はプレシャの誕生日だから、腕によりをかけて美味しいものを作るわね』だった。
少しでも早く帰っていれば。母親に我がままを言って、森に連れ出していれば――そんな後悔の中で、プレシャさんは気がつく。母親の手を握って、その指先に残った針傷に。
薙ぎ払われた部屋の中に、家具の残骸に紛れて『それ』はあった。プレシャさんのために、彼女の母親が作ったものだろう、手縫いの人形。
子供を喜ばせるために用意できる贈り物は、この村ではそうそう手に入らなかった。村では貴重な紙の本を欲しがっていたプレシャさんは、母が人形を作っていることを知っていながら、それを喜ぶことができていなかった。
血に濡れた手で人形を手にする。それを抱きしめたとき、彼女の眼前に、背後から伸びた影が映った。
『戻ってこなければ、死なずに済んだものを……悪く思うなよ』
――その声を聞いたとき、彼女は恐怖に竦むのではなく。
反射的に、傍らに置かれた棒を手に取り、自分の母を手に掛けたかもしれない、背後に立つ男に向けて振り払った。
『ぐぅっ……こいつっ……!』
鋭い打撃――しかし、鎧を身に着けた兵士に対しては、それは致命的な一撃にはなりえなかった。
兵士は思わぬ反撃に激昂し、長剣を振りかざす。木の棒で受けることなどできない――それでもプレシャさんが選んだのは、刺し違える覚悟で突きを繰り出すことだった。
『――あぁぁぁぁぁっ……!』
殺されてもかまわない。この男だけは、自分の手で――。
仇を打つべく繰り出された彼女の突きは、しかし完全に空を切った。
それは、巨大な質量を持つ武器が、兵士のいた場所を薙ぎ払ったからだった。鋼鉄の馬上槍を、地上で振るう豪傑――今と変わらぬ気迫をまとう黒髪の騎士、ラクエル=リトカーシャがそこにいた。
『あ……ああ……』
吹き飛ばされた敵兵は動かない。棒を構えているプレシャさんの姿を見て、ラクエルさんの瞳が憂いを帯びる。
『……すまない。もう少し早く、私たちが到着していれば……』
味方だと分かっても、プレシャさんは棒を下ろすことができない。行き所のなくなった感情が、身体の自由を効かなくさせている。
助けてくれた味方の騎士を、睨みつけることしかできない。それでもラクエルさんは、プレシャさんと黙って向かい合い続けた。
『……よく戦った。だが、棒を使えるというだけでは、この荒れ果てた戦地で生き延びることは難しい』
『……お母さんと……一緒にいる……お母さんは、あたしを置いていったりなんてしない。こんなのは……こんなのは……っ』
悪い夢だ。そうプレシャさんが口にする前に、ラクエルさんは馬上槍を手放し、攻撃されることも恐れずに、棒を構えたプレシャさんの前に出た。
『――くるなぁっ!』
反射的に繰り出された棒を、ラクエルさんは首を傾けるだけで避け、握りしめた。
『離せ……離せっ……!』
『……おまえには、武術の資質がある。村を襲った敵軍は、我らレーゼンネイア王国軍が掃討した……我が主君、アスティナ殿下の指揮のもとで』
『そんなこと知らない……あたしたちの村は、何も悪くないのに……っ』
『……どれだけ強くなっても、全てを護ることはできない。だが、我が軍ではそうありたいと考えている。それが、遠い理想であっても』
棒に込められた力が、緩む。それは、ラクエルさんの頬に流れた涙を見たからだった。
視界が、ぼやけて滲む。プレシャさんもまた、泣いている――悲しくても、泣くことさえ忘れていた彼女は、ラクエルさんの涙を見て思い出したのだ。
取り落とされた棒が、床を転がる。ラクエルさんは床に膝をついて、プレシャさんを抱きしめた。
それが、始まり。
プレシャ・ホルテンシアという一人の騎士は、彼女が全てを失ったその日に生まれた。




