第七十七話 雲海の天女
軍船に乗り込むと、ノインが出航の手順について教えてくれた。プレシャさんとラクエルさんが船を繋ぎ止めていた鎖を外すと、ノインは船橋に立つ。
朝はまだ遠いが、月は傾き始めている。東の方角から聞こえていたジルコニア騎兵の移動による地響きは、すでに砦のすぐ外にまで近づいている。
「ベイルが私たちの捕虜となったと分かれば、敵の対応も早くなります。できれば、少しでも混乱させておきたいのですが……」
「敵が砦に入ったところで、仕込んでおいた『罠』を使います。外からやってきた兵も巻き込むことができるので、この砦の機能は完全に停止するでしょう」
俺が進言しても、殿下はすぐには頷かなかった。唇を噛んで、一種の無念さをにじませる。
「戦いは、あなたの役目ではありません。それなのに私たちは、あなたにばかり頼ってしまっている。人を傷つけるために精霊を使うことを、あなたが望まないことを知っていながら」
明確に、敵兵を攻撃するために魔法を使う。マンドレイクを引き抜いて精気を吸われれば、兵士の中には命を落とす者もいるだろう。
「……こんなことを言うのは、私たちの勝手な理想論だ。だが、グラス……おまえには、私たちと同じように人を殺してほしくはない」
「そう……だよ。グラス先生は……あたしと違って、いつかまた、平和で明るいところで……戦いのことなんて、全部忘れて暮らさなきゃいけないから」
「本当に、理想論ですわね。でも……あなたの優しさを知っているから、あなたが変わってしまわないようにと、願わずにいられないのですわ」
それなら、俺は。
――戦が起こる前に、皆がその手で敵兵を殺す前に、時間を戻したかった。
それはいくら願っても仕方のないことだ。隣国との関係は俺達が生まれる前から悪化していて、戦わなければ国の形を維持することはできなかった。
俺は人を助けたいと願って軍医になった。人を守るために騎士になった彼女たちと、本当は何も違いはしない。
「……ご主人様は、変わらないのです。私が、絶対変えさせないのです。レイだって、そう思ってるはずなのです」
アルラウネの言葉に応じるように、俺の懐に入っていたマンドレイクの根が輝き出す――そして具象化したレイは、俺をじっと見上げて言った。
「……敵の精気を吸って、これ以上吸われて死にたくないなら、武器を捨てて逃げるように言う。そのあとのことまでは知らない……でも、それは召喚主様が心配しなきゃいけないことじゃない。敵は、召喚主様の仲間を何十人も殺してる。本当なら、自分も死なずに済むわけがない」
レイの価値観は、人間の世界に対する精霊たちの視点を代表するものだろう。元は精霊界の住人である彼らは、人間と契約して力を貸すことはあるが、あちらから干渉してくることは殆どない。
それでもレイは、俺の心情を汲んでいる。人を殺めるかもしれない、俺がそれを望まないと思っている。
「この砦の敵兵を、全員死に至らしめることもできる。でも、レイはそうしない……そうしたところで、何も変わらないことを知っているからだ」
「……召喚主さま」
俺の半分くらいの背丈しかないレイが、わずかに目を潤ませる。俺は身を屈め、彼女の頭を撫でた。
髪の間から特徴的な大きな葉が、髪飾りのように生えている。その葉やマンドレイク自体に、人を癒やすための力も秘められているのかもしれない。戦いの道具としての役割だけを、レイに期待することだけはしてはならない。
「ここの兵たちには、『足手まとい』になってもらうだけでもいい。アレハンドロ将軍がノインに新たな命令を下すために部隊を差し向けてきたなら、彼らも巻き込んで動きを止める」
「その間に、アレハンドロの本隊を叩く。できる限り迅速に……ですね」
アスティナ殿下の言葉に、騎士たちが頷く。俺達の方針は決まった――この砦が混乱に陥っている間に脱出する。
「……ノイン、ベイルはアレハンドロを惑わすために利用できるか?」
「それは……私は、ベイルのアレハンドロに対する忠心が確かなものか、確かめるようにと言われて来たから。ベイルは本来、欲望に忠実な男よ。けれど、アレハンドロが私を使って忠誠を買おうとしたことに怒りを覚え、単身でアレハンドロを諌めるために砦を抜け出したということにすれば、隙を突けるかもしれないわ」
ノインは自分でも気づいていないようだが、心なしか自分の体を抱くようにしている。
彼女がベイルに対して何をするように申し付けられたのか。なぜ、命を賭けても命令に抗うことを選んだのか――それを思うと、やるせない感情が湧く。
(ノインを母国と戦わせるだけでなく、彼女を別のことでも利用しようとした。アレハンドロ……どんな姿をしてるのか知らないが……)
「ベイルの手でアレハンドロを討たせることはできないでしょうが、ベイルを捕虜として交渉しても、彼は切り捨てられるだけでしょう。砦の混乱を収拾できずに出頭したということにすれば、確かにアレハンドロと対面できる可能性があります」
殿下はラクエルさんたちを見やり、彼女たちの意見にも耳を傾ける。
「ベイルにアルラウネの催眠をかけた状態でアレハンドロと接触できれば、情報を引き出せる可能性もある。直接、揺さぶりをかけることもできるやもしれません」
「あたしもラクエル姉と同じ意見だけど……ベイルがもし門前払いを受けるようなら、そのときは仕方ないね」
「彼を斬っても何もわからないのですから、何かを聞き出そうとはするでしょう……そろそろここから離れた方が良さそうですわね。グラス先生……」
俺はディーテさんに頷きを返す。もう、覚悟はできている――俺も皆と一緒に、本当の意味で戦うのだと。
「レイ……いや、魔蔘マンドレイクよ。砦に敵が入ってきて、兵舎に近づくまで引きつけたら、遠慮することはない。分体に命じるんだ、『高らかに叫びをあげろ』と」
「はい、召喚主様」
いつも表情を見せないレイが、微かに微笑む。
それは自分の力を求められたことへの、純粋な喜びを表すもののように思えた。
「――『我が魂を分けし半身よ。パンゲアの園を遥かに離れ、遠き地を想いて叫べ、高らかに』」
レイの体が赤紫色の輝きを纏う――それは、人に対して毒性を持つ魔力の色。彼女の分体も、恐らく同じ光を纏っているだろう。
砦の中に、アレハンドロの差し向けてきた部隊が入り込む。それを悟ったレスリーは、船全体を包み込むように、音を遮断する空気の壁を展開する。
そして、ノインも。彼女は水の流れに干渉して軍船を動かしながら、アプサラスに命じ、大量の水を利用して霧を作り出す。
「――『白き雲海より生まれし天女、アプサラスよ。幻の霧と共に舞い踊れ』」
船が岸を離れ、河に滑り出すと同時に、水面から立ち上った霧に包み込まれる。レスリーの魔法と干渉して打ち消し合うということもなく、マンドレイクを抜き放ったときの叫びを遮断する空気の壁の上から、霧の作り出す幻が包み込んでいる。
俺はレイの分体の視界を借り、砦の内部で何が起きているのか、現状を確認した。もはや幻術で隠れる必要すらない状況で、数人だけマンドレイクの叫びの直撃を免れた兵が、倒れた兵を前に混迷を極めている。
――なんだ、さっきの恐ろしい叫びは……聞いたやつが、全員倒れちまった……!
――ベイル殿、指揮官殿はどうされたのだっ! 何なのだこれは……一体、何が起きているのだ!
――あの魔法士を探せ! あいつだ、あいつがやったんだ!
――違う、あいつは水の魔法士だ。『水』なんてこの場には見当たらない……!
飲料用の水などでもノインは媒介として利用できるのだろうが、敵兵はそのことは知らないようだ。精霊魔法についてジルコニア軍の知識が少なかったことは幸いだった。
「……どうやら、敵が追ってくることはなさそうだ。よくやってくれた、レイ」
「召喚主様は……私が人を殺す毒を持っているから、使いたくないのかと思ってた。でも、違ってた……召喚主様の役に立てて、よかった」
毒のある植物だからというだけで、医療において有用ではないということはなく――俺にとっては、毒や自分を守るための能力も含めて、植物のありのままの力が魅力的に映る。
「……水の流れが、船の進む方向だけ逆向きになってる。まるで、運んでくれてるみたい……これが、水の精霊の力……」
「しかし、グラス殿にはかなわぬ。いや、グラス殿はどの精霊にも長所があり、比べられないと言うのだろうが……」
ラクエルさんは俺の考えを見事に見抜いている。植物、空気、水――いずれも違うことができて、今のように力を合わせることだってできる。
ノインも上手くいったことに安堵しているようだった。しかし気を緩められないのは、彼女がまだ自分を責めているから――そして。
「ノイン、この船が運河に出たら、アイルローズより少し西で着岸させてください」
「はい。殿下……それまでに、お話しておきたいことがあります」
アスティナ殿下に、敵が第二王妃カサンドラであることを伝えなくてはならない。
そうしたときに、俺たちは戦うべき存在を確定し、選択を迫られる。
アレハンドロとの戦いの、さらにその先。第二王妃カサンドラと宮廷魔法士ヨルグ――彼らに、これからどうやって立ち向かっていくのかを。




