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第七十四話 因習

 私欲のために多くの人が死ぬことを厭わない者がいる。すべては、アイルローズ要塞を陥落させ、アスティナ殿下を亡き者にするため――。


 しかし、誰がノインに全てを仕組んだのかを冥霊を宿した状態で聞こうとすれば、彼女の生命力は冥霊に吸い尽くされるだろう。すでにその肌は青ざめ、白い手は彼女自身の血にまみれている。


「……例えこの場を生き、私たちに与したとしても、あなたに未来はない。あなたはあくまで私たちにとって敵であり、その目的に手を貸すこともすべきではないと思います」


 突き放すような言葉だと、初めは思った。そうするべきだという思いも俺にはあった。


 殿下は剣を抜く。そして、ノインに向けて振り下ろした。


 ――その剣が二度閃いても、ノインはまだ生きていた。刃は、彼女の身体には届いていない。


「あなたがもう一度裏切ったときは、この剣を再び振るいます。私は、情に絆されたわけではありません。しかしあなたの意志を捻じ曲げた者を討つ時間くらいは、与えてもいいと判断しました。これからあなたは、ただ一心にレーゼンネイアのために戦いなさい。死なせた人の数よりも、多くの人を救うために」


 失われた命は戻らない。殿下もそのことは分かっていて、それでもノインを生かすことを選んだ。


 ノインが冥霊を宿される前に時間を戻せれば、誰もこれほどやりきれない思いをせずに済んでいた――そう思わずにはいられなかった。


(……どうすればこの暗い淀みから抜け出せる? どうすれば殿下は、騎士団の皆は、西方領の民たちは戦いから遠ざかることができるんだ)


 答えは一つだと分かっていた。


 ジルコニアの、戦い続けようとする意志を折る。アレハンドロ将軍に砦の指揮を預けられたベイルを捕虜とし、軍船を奪取し、敵が切り札としているノインをこちらに寝返らせる。


 いや――寝返らせるだけで終わってはならない。俺たちの年代で首席だったこの魔法士には、大きな働きをしてもらう。


 そのためにしなければならないことは何か。『精霊医』として、『冥霊』という名の病に挑む。


「……殿下がそう仰るなら、このままあんたを死なせるわけにはいかない」

「しかし、今のまま彼女を連れ出しても、この病状では長くはもたないでしょう。生きろと言っておいて、こんなことを言うのは無責任ですが……」

「殿下、俺に任せてください。殿下が彼女の命を留め置いたのなら、俺は彼女を生かします。それが、軍医の務めですから」


 軍医の務めと言えば何でも済むのか、ノインがしたことを分かっているのか――そう言われることも覚悟していた。


 しかし、そうではなかった。俺の判断を肯定せずとも、最もノインに対して憤りを向けているプレシャさんも、咎めることはしなかった。


 俺は彼女に甘えているのかもしれないと思った。俺の言うことなら、プレシャさんは反対しないでくれると――本当なら、そんなふうに情に頼ることを繰り返してはならない。


「ノイン……水の精霊魔法を使うあなたであれば、風向きに関係なく軍船を動かせるはずです。しかし、私の指示に従って魔法を使えば、あなたは命をすり減らすことになる」


 ただ抗う意志を口にしただけでも、ノインの命の灯火は弱まっている。


 ならば、軍船に乗り込んだところで施術をする。この砦の兵たちに気付かれようとも、時間を稼ぐだけの下準備は済ませている。


「私のことは、気にしないでください。ジルコニアの軍船に対抗するためには、こちらにも船が必要でしょう。船を動かし、冥霊の強制に抗うことで命が尽きたなら、私のなきがらを運河に流してください。それが、最後の……」

「途中で死ぬなんてことになったら困る。無事に軍船を、俺たちの砦の近くにたどり着かせるまで……できるなら、アレハンドロの軍船と戦うまで協力してもらいたい。そのために、ノイン。あんたには『治ってもらう』」


 医者になってから、患者に押し付けのようなことを言うのは初めてだった。いつも患者の目線で考え、その意志を尊重しなければならないと思っていた。


 しかし今は、生きることを諦めかけ、復讐に命を使って終わろうとしているノインに、生きる意志を持ってもらわなければならない。生き永らえることが、彼女にとってどれほどの苦痛を伴うことであっても。


「このままならあんたは死ぬはずだった。いや……一度死んで、生き返るんだ。それくらいの苦しみは味わったはずだろう」

「……生き返るなんて。あなたに、私に宿った冥霊を引きはがせるとは思えない」

「やってみなければ分からない。やる前から諦めるのは、性に合わないんだ」


 ノインは何も言わず、ただ俺を見ている。罪人の自分を治療するために、なぜそこまでやる気を出しているのか――そう言わんばかりだ。


「今のグラスは、あなたが知っている彼とは違います。いえ……この国の、魔法学院で行われている精霊の選別に、何かの理由で問題があるのでしょう。ノイン、私の個人的な見方になりますが、グラスがあなたより優れていないとは全く考えていません」


 殿下が言い切っても、ノインは否定することはなかった。


 学院では『将来を嘱望される生徒』『全く期待されない生徒』として、その間には絶対的な差が横たわっていた。


 だが、外の世界に出たからといって立場が逆転したということでもない。冥霊に縛られておらず、水精霊の力を生かしやすい環境ならば、俺にできないことを彼女はやってのけるだろう。


「……王国の歴史上で最も敬われていた精霊は、地水火風のどれでもない。そのことを知っていれば、元素精霊が無条件で優秀だとは、誰も思わない。宮廷魔法士ならなおさら、そのことは理解しています」

「そうですか……やはり、この国の魔法士たちは、縛られているようですね。私たちが生まれる前から続く因習に」


 殿下はおそらく、自分が受けた『選霊の儀』を中断された理由に思い当たっている。


 彼女が王家の巫女になってはならないと考えた者がいたからこそ、彼女に魔法士の適性があるという事実は黙殺された。


 そのことを殿下が覚えていない理由は、おそらく記憶を封じた者がいるからだ。しかし神樹と繋がった今、殿下は自分の意志では引き出せなかった記憶を、神樹の力を借りて引き出すこともできるだろう――神樹は王国の歴史を長く見つめてきたのだから。


 ノインもまた、宮廷魔法士の闇を知っている。殿下を陥れる者は誰なのか、状況証拠による推測ではなく、確証を得るときが近づいている。


 俺は夕日の中で、殿下が話してくれたことを思い出していた。国王陛下の意志を問う――しかし、自分の目的のために国を傾かせようとする者の側に、もし陛下が味方してしまったなら。


 切り捨てられようとした西方領、そしてアイルローズ要塞の兵たちを守るために、できることは何なのか。その答えを、未来を見通す神樹が知っているのなら、教えて欲しいと思う。それが、ユーセリシスの力に縋ることなのだと分かっていても。

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