第七十三話 冥霊
ノインが持つ短剣の切っ先は、指揮官らしき男の首に薄く線を残す。そこで俺は気がつく――この男は、剣や格闘によって負傷し、動けなくなっているわけではない。
髪が、そしてベッドと床に水が滴っている。先刻聞こえてきた苦しむような声が意味するものは――『この部屋で』水に溺れさせられたということ。
「私と戦うつもり? あなたの魔法は私に対して有利な点もあるけれど、それで勝てると思ってもらっては困るわね」
「うちのグラス先生を挑発するなんて、自殺行為だよ。あんたがジルコニアに味方した水の魔法士なら、あたしは今すぐに殺してやりたいくらいの気持ちなんだから」
プレシャさんは言葉通りに、いつでも槍を繰り出せるような重心の取り方をしている。ノインもプレシャさんが只者でないと感じたのか、その顔から笑みが消えた。
――それどころか、青ざめているようにも見える。色々な患者を見てきた俺には、患者の呼吸や微細な震えから、ある程度精神状態を察することができる。
「……プレシャ、抑えてください。もしこの魔法士が私たちを欺こうとすれば、今の私にはそれを悟ることができます」
アスティナ殿下は淡々と言うが、その言葉は冷たい――氷の刃のように。
殿下は一軍を率いる将として、多くの兵を失ったことに自責の念を抱いている。ノインをここで討てば、死んでいった兵に報いられるという思いもあるのかもしれない。
俺だって、そう考えてしまう。なぜ国を裏切り、ジルコニアの侵攻に手を貸したのか。ノインがいなければ、兵たちは死なずに済んだのではないかと。
「王女殿下から、魔力を感じる……あなたが魔法を教えたの……?」
「今はその質問には答えられない。俺とあんたはクラスも違ったし、接点も特にない……ただ同じ学院にいたというだけだ。だが、あんたのしてることを放置しておくわけにはいかない。国を裏切ったなら、罪を償ってもらう」
ノインは何も言わず、俺の話に耳を傾けている。
そして彼女が動く――手に持っていた短刀を落とし、両手を上げたのだ。
「……あのときは、ああするしかなかった。言い訳に聞こえるなら、ここで斬ってもらって構わないわ」
「っ……あたしたちの国を裏切っておいて、しゃあしゃあとよく言うっ!」
プレシャさんの凄烈な怒りを正面から受け、ノインは耐えかねたように目を逸らす。
アスティナ殿下は剣に手をかけ、一分の隙もなくノインに相対する。二人の強者を前にしたノインは、もはや指先一つ動かすことにも神経を注がねばならない状態だった。
「……あんたの処遇は、殿下が決めることとして。事情は察せなくもない。あんたがもし、逆らうことのできない相手に命令されて、ジルコニアに潜り込んだのなら……ジルコニアに協力しなければ、立場が危うくなるからな」
「どんな事情があったとしても、ジルコニアに加担した以上、それは裏切りだよ」
プレシャさんは怒りを押し殺しながら言う。彼女はやはり、ここでノインを討たねばならないと考えているようだった。
その殺気を前にして、ノインは目を閉じる――その表情は、諦念を感じさせる。
「この砦に何者かが侵入してきて、それが魔法士だと分かったとき、レーゼンネイアからやってきた者がいると分かった。私は、もともとこの男に呼ばれていた……アレハンドロ将軍の副官、ベイルに」
「……言い訳でも始めようっていうの?」
プレシャさんに問われ、ノインはかすかに笑う――そして、小さく首を振った。
「ぐっ……!」
この場にいる誰もが、次の瞬間に起きたことを、想像もしていなかっただろう。
ノインは口を抑えて喀血する。そして俺は気がつく――彼女が話そうとした瞬間に、身体の一部に彼女のものではない魔力が生じたことを。
「まさか……『冥霊』を宿されて、それでジルコニアに送り込まれたのか……?」
「……笑い話でしょう……私が学院で残してきた成績なんて、『彼ら』はどれだけ使える駒かという程度でしか見ていなかった。そんなことにも気づかずに、気がつけば祖国の大敵になってしまったんだから」
ノインは言い終えたあと、再び喀血する。彼女の胸部から感じられる、禍々しい魔力――それは魔法士と契約して力を貸す『精霊』とは違い、人を蝕み、呪うために存在する『冥霊』によるものだった。
冥霊は精霊界ではなく、冥霊界という別の世界に住んでいる。現在のシルヴァーナ学院では冥霊を召喚するための魔法陣や、人間に宿すための印などは学ぶことを禁じられており、冥霊について記した本は禁書とされて、封印書庫に入れられている。
だが、神樹ユーセリシスは精霊に敵する存在として、冥霊の存在を警戒している。彼女が警告しているのだ――生きとし生けるものに害なす存在が、目の前にいるノインの身体に宿っていると。
「……自分が死にたくないから、敵に味方をしたの? それを仕方ないことだと思えって言うなら、あたしは……あたしはやっぱりあんたを許すことができない」
「全てが終わったら、私を殺してくれていい。私は決して逃げない……最後くらいは、自分の思うようにして死にたい。アレハンドロも、ベイルも、私のことを何でも言うことを聞く『女』としか見ていなかった連中に、私が道具でないことを教えてやるのよ」
ノインをジルコニアに送ったのが誰なのか――宮廷魔法士となった彼女に冥霊を宿した者がいるとしたら。
俺が憧れていた『宮廷魔法士』は、もはや王家に仕え、国を守るために魔法を行使する集団ではなく、目的を達するためには手段を選ばない者たちだったということになる。




